73~戦後処理と銀刻の小さな日常2
しばらくすると、銀刻の扉が控えめに叩かれた。
ノーラは顔を上げる。
「開いてるわよ」
入ってきたのは、ギルドの職員と、街の商人代表の一人だった。昼間、荷車の前で苦い顔をしていた香辛料商である。
彼は室内を見回し、怪我人たちの姿を見て、帽子を取った。
「……クリオを捕まえたって聞いた」
「ええ。ひとまずはね」
「ひとまず?」
「後始末が残ってるから」
男は苦笑した。
「ノーラちゃんらしいな」
彼は一歩入り、深く頭を下げた。
「助かった。橋の修復にはまだ時間がかかるだろうが、犯人が野放しのままよりずっといい。商人連中も、少しは落ち着く」
ノーラは少しだけ目を細めた。
こういう礼には慣れていない。値切り交渉や皮肉ならいくらでも返せるが、真っすぐ感謝されると少し調子が狂う。
「礼なら、こっちの怪我人たちにも言って。私は主に請求書を書いてるだけだから」
「それが一番ノーラちゃんの仕事だろう」
「分かってるじゃない」
香辛料商は笑い、それから真面目な顔に戻った。
「橋の復旧について、明日、商人組合とギルドで臨時会合を開く。銀刻にも来てほしい」
「もちろん行くわ」
「それと……今回の件で、銀刻の名前はかなり広がった。いい意味でな」
ノーラの筆が止まる。
「へえ」
「クリオ捕獲に協力した商会。橋梁被害の復旧交渉に動いている新興商会。そういう見方をする者も出る」
商人代表は、ほんの少しだけ笑った。
「信用は、こういう時につくものだ」
ノーラはその言葉を聞き、胸の奥に小さな熱を感じた。
金ではない。
だが、金に変わるもの。
商売で一番扱いが難しく一番価値のあるもの。
信用。
銀刻交易連合が、ただの変わり者の集まりではなく、街の危機に動く存在として見られ始めている。
それは悪くない。
「分かったわ。明日、きっちり顔を出す」
「頼む」
商人代表はもう一度頭を下げ、ギルド職員とともに出ていった。
扉が閉まると、フレアリスがにやりと笑った。
「信用がついたそうですわよ、ノーラ」
「聞こえてるわ」
「嬉しそうですわね」
「別に」
「嘘がお下手ですこと」
ノーラは誤魔化すように帳簿へ目を落とした。
「信用は資産よ。喜ぶに決まってるでしょ」
「結局、お金の話に戻しますのね」
「一番分かりやすいからね」
ルチェアがくすりと笑った。
夜が深くなる頃、ようやく事務所の空気は落ち着いた。
ジンジャーはミントに言われ、奥の簡易寝台で休むことになった。カルメノは見張りを兼ねて入口近くに腰を下ろし、目を閉じている。フレアリスは煤のついたローブをどうにかするため、ぶつぶつ言いながら布を拭いていた。
ルチェアは机の端で、勉強ノートを開いている。
ノーラが何気なく覗き込むと、そこには震えた字でこう書かれていた。
王都工房の商品は丁寧な仕上げでお金になる。
戦闘後の損害は、忘れる前に書き出す。
自分の怪我や働きを安く見積もらない。
ピョコマルは空間魔力にも反応する。
必要な時に一回だけ仕事をするのが、一番高い働き。
ノーラはしばらく黙ってそれを見た。
ルチェアが気づいて、慌ててノートを閉じようとする。
「あ、すみません。変なことまで書いてしまって」
「いいんじゃない」
「え?」
「大事なことよ」
ノーラは椅子の背にもたれた。
「商売も戦いも、自分の値段を間違えると損するの。高く見積もりすぎても駄目だけど、安く見積もりすぎるのはもっと駄目」
ルチェアはノートに手を添えたまま、静かに頷いた。
「今日、少しだけ分かった気がします」
「なら十分」
ピョコマルは乾燥ハーブを食べすぎたのか、床の上で丸くなっていた。口元にまだ葉の欠片をつけたまま、幸せそうに眠っている。
ノーラはその姿を見て、苦笑する。
「この子は自分の価値をよく分かってるわね」
「そうでしょうか?」
「報酬を遠慮しないもの」
「ぴゃ……」
寝言のように鳴いたピョコマルに、ルチェアが笑った。
その笑い声は小さかったが、昼間の恐怖を少しずつ遠ざけていくようだった。
その時、また扉が叩かれた。
今度は軽い音ではない。
規則正しく硬い。
ノーラはすぐに顔を上げる。
カルメノも目を開いた。
「誰?」
「異典執行局のリュシエルよ」
扉を開けると、黒衣のリュシエルが立っていた。
夜風を背に受けているせいか、彼女の表情は昼よりも冷たく見えた。手には封をされた書類束を持っている。
「遅くに悪いわね」
「本当に遅いわね。追加報酬なら歓迎するけど」
「半分は近いかもしれない」
リュシエルは中へ入り、机の上に書類を置いた。
「クリオの押収品の暫定目録よ。正式な写しは後日だけれど、協力者には先に概要を伝えておく」
ノーラの目が鋭くなる。
「早いじゃない」
「君がうるさそうだから」
「まあね」
リュシエルは書類を開く。
「採掘場から召喚素材、魔石片、転移用ルーン石柱の予備、契約断片らしき羊皮紙。それと、クリオのローブ内側から金貨袋が見つかった」
ノーラは黙って聞いていた。
リュシエルの声が少し低くなる。
「改めて異典執行局の者が金貨を鑑定したが、ドフォール商会の刻印で間違いないとのこと」
室内の空気が、静かに変わった。
フレアリスが扇子を閉じる。
ミントがジンジャーの包帯を結ぶ手を止める。
ルチェアもノートから顔を上げた。
ノーラは表情を変えなかった。
ただ、目だけが冷えていく。
「やっぱりね」
「まだドフォールが、クリオに関わっていたかの断定はできない」
「分かってるわ。証拠は証拠として積むものよ」
ノーラは書類の端を指で押さえた。
「でも、少なくとも請求先候補には入れていいわね」
「普通は捜査対象と言うのだけれど」
「私は商人だから」
シエナは小さく息を吐いた。
「明日の会合で、橋の復旧と被害補填について話が出る。ドフォール商会も、おそらく何らかの形で顔を出す」
「でしょうね。シラを切るために」
「挑発しすぎないように」
「相手次第ね」
シエナはノーラを見た。
「クリオは捕まった。けれど、あれに金を出した者がいるなら、今回の件は終わっていない」
「分かってる」
ノーラは静かに答えた。
「でも、今日はここまで」
シエナが少し意外そうな顔をした。
「珍しいわね」
「怪我人がいる。ピョコマルも寝てる。私も疲れた」
ノーラは書類を閉じた。
「明日から、きっちり取り立てる。そのために今日は寝るわ」
シエナは一瞬だけ黙り、それから薄く笑った。
「賢明ね」
「高く取り立てるには、頭が働いてないと駄目なのよ」
シエナは書類の写しを置いて、扉へ向かった。
「では、明日。銀刻交易連合の代表として来なさい」
「もちろん」
扉が閉まる。
夜の静けさが戻った。
ノーラは机の上の書類を見下ろす。
ドフォール商会の印章。
クリオの資金源。
橋の復旧。
損害補填。
明日からまた、面倒な話が始まる。
だが今は、ピョコマルの寝息と、ルチェアの少し安心した顔と、仲間たちが生きて戻った事実がある。
ノーラは帳簿を閉じた。
「今日は閉店」
フレアリスが目を丸くする。
「あら、珍しい。徹夜で請求書を書くのかと思いましたわ」
「書きたいけど、明日ぼったくるために寝る」
「言い方」
ミントが呆れたように笑った。
ルチェアも笑う。
ピョコマルは寝返りを打ち、乾燥ハーブの欠片を鼻につけたまま、満足そうに「ぴゃ」と鳴いた。
ノーラはその小さな寝言を聞きながら、灯りをひとつ落とす。
クリオ捕獲の夜。
銀刻の事務所には、久しぶりに静かな時間が戻っていた。
ただし、その静けさは長く続かない。
明日には、橋の復旧会議がある。
ドフォール商会が動く。
そしてノーラは、きっとまた帳簿と請求書を抱えて、誰かに噛みつくことになる。
それでも今夜だけは、少しだけ。
勝ったのだと、思ってもよかった。




