72~戦後処理と銀刻の小さな日常
ジルコールへ戻る頃には、空の色が少しずつ夕暮れに傾き始めていた。
昼には白く大きかった雲も、今は山の端で薄い橙色を含んでいる。風は冷え、戦場でまとわりついていた灰と焦げ臭さを少しずつ洗い流していくようだった。
だが、ノーラの鼻の奥には、まだ採掘場の臭いが残っていた。
焼けた土。
濡れた灰。
血と墨のような魔力の残り香。
クリオは異典執行局の護送馬車へ積まれた。
鉄格子付きの頑丈な馬車。外側には封呪の札が何重にも貼られ、車輪の軸にまで魔力封じの銀線が巻かれている。クリオ本人は白い鎖に絡め取られ、さらに黒布で顔を覆われていた。
それでも、ノーラは馬車が遠ざかるまで目を離せなかった。
あの男が何かを仕掛けるのではないか。
また笑いながら、どこかへ跳ぶのではないか。
そんな嫌な予感が、胸の奥に小さな棘のように残っていた。
「……ノーラ」
横からミントが声をかけてきた。
「いつまで見てるのよ。あれだけ縛られてたら、さすがにすぐ逃げないでしょ」
「すぐはね」
「嫌な言い方するわね」
「相手が嫌な男だったから」
ノーラはようやく視線を外した。
ジンジャーは片腕を吊っている。ミントが応急処置をしたため出血は止まっていたが、肩口にはまだ痛みが残っているらしく、いつもより口数が少ない。カルメノはその隣で黙って歩き、時々ジンジャーの歩調に合わせて速度を落としていた。
ルチェアも肩を包帯で巻かれている。
傷そのものは浅い。クリオの黒い針が掠めただけだ。だが、あの一瞬の恐怖までは簡単に消えない。ルチェアはピョコマルを抱えたまま、何度も小さな身体を撫でていた。
ピョコマルはというと、疲れたのか、今はルチェアの腕の中で半分眠っている。だが時折、思い出したように耳をぴくりと動かし、小さく「ぴゃ」と鳴いた。
ノーラはそれを見て、少しだけ息を吐く。
全員、生きている。
それだけで、今日の帳簿は黒字にしていい。
銀刻の事務所に戻ると、室内は出かける前のままだった。
机の上には、仕分け途中の銀のフォークとスプーン。
壁際には丸めた絨毯。
棚の下には、磨けば売れそうな銅のやかん。
ほんの数時間前まで、ここでルチェアが真面目な顔をして勉強ノートに書き込んでいたのだと思うと、妙に遠い出来事のように感じられた。
ミントが真っ先に椅子を引いた。
「はい、怪我人は座る。ジンジャー、そこ。ルチェアはこっち」
「私は大丈夫です」
「大丈夫って言った人から順番に座らせるわよ」
「は、はい」
ルチェアは素直に腰を下ろした。
ジンジャーも渋々椅子に座る。カルメノは壁際に立ったまま周囲を見ていたが、ミントに睨まれて少しだけ肩をすくめた。
「あんたも。返り血と灰まみれで立ってられると床が汚れる」
「……すまない」
カルメノは静かに入口近くの椅子へ腰を下ろした。
フレアリスは自分のローブの煤を見下ろし、深刻そうな顔をしている。
「この焦げ跡、落ちるかしら……。ルクレールの誇りが煤でくすんでしまいましたわ」
「戦場で火を撒き散らした本人が言うこと?」
ノーラが言うと、フレアリスは胸を張った。
「わたくしの炎は優雅ですもの。煤は別問題ですわ」
「便利な誇りね」
そのやり取りに、ルチェアが小さく笑った。
まだ顔色は悪い。だが、笑えたなら大丈夫だ。
ミントは手早く治癒術をかけ直しながら言う。
「ルチェアの傷は浅いわ。今日一晩は無理しないこと。ジンジャーは肩を動かさない。力仕事禁止」
「問題ない」
「問題あるから禁止って言ってるの」
「……分かった」
ミントは満足そうに頷いた。
「よろしい」
ノーラはその間に、棚から小さな木箱を取り出していた。
中には乾燥ハーブが詰まっている。香りの強いもの、甘みのあるもの、ピョコマルが以前から気に入っていた高めの葉まで混じっていた。
ルチェアがそれに気づく。
「あ、それ……」
「今日の報酬」
ノーラは木箱を机の上に置いた。
ピョコマルは眠りかけていたはずなのに、箱が開いた瞬間、耳をぴんと立てた。
「ぴゃ?」
「ピョコマル。今日のMVPはあんたとルチェアよ」
「ぴゃう?」
ピョコマルはまだ半信半疑のような顔をしていたが、ノーラが小皿に乾燥ハーブを山盛りにすると、目の色が変わった。
「ぴゃうっ!」
ルチェアの腕から飛び降り、机の上に着地しようとして、ミントに首根っこを掴まれる。
「机の上に乗らない」
「ぴゃ……」
「床で食べなさい」
小皿を床に置いてやると、ピョコマルは一瞬で機嫌を直し、乾燥ハーブへ顔を突っ込んだ。もしゃもしゃと食べる音が事務所に響く。
フレアリスがそれを見て、呆れたように扇子を開いた。
「世界を救った小獣の褒美が乾燥ハーブ山盛り……なんとも庶民的ですわね」
「本人が喜んでるから最高報酬よ」
「ぴゃう〜」
ピョコマルは口の周りに葉をつけたまま、満足そうに転がった。
その姿を見た瞬間、張りつめていた空気がふっと緩んだ。
ルチェアも、ジンジャーも、ミントも、カルメノでさえ少しだけ表情を和らげる。
ノーラはその小さな空気の変化を見て、胸の奥に残っていた硬さが少しほどけるのを感じた。
戦いは終わった。
少なくとも、今日の分は。
だが、ノーラの休憩は長く続かなかった。
彼女は棚から帳簿を三冊、筆記具、計算板、空の請求書束を引っ張り出す。
ミントが目を細めた。
「まさか今からやる気?」
「今やらないと忘れるでしょ」
「普通は忘れる前に休むのよ」
「休んでる間に損害額が目減りしたら困るわ」
「しないわよ、そんなもの」
「するのよ。記憶が曖昧になると、請求できるものまで請求しそびれる」
ノーラは机に向かい、筆を取った。
紙の一番上に、まず大きく書く。
クリオ被害および捕獲協力に関する損害・費用一覧。
それを見たフレアリスが、微妙な顔をした。
「題名からして物騒ですわね」
「物騒な相手だったからね」
ノーラはすらすらと項目を書き込んでいく。
橋梁半壊による物流遅延見込み。
仕入れ予定品の遅延損。
護衛依頼追加費。
戦闘参加に伴う消耗品。
治療費。
ピョコマル特別報酬。
そこまで書いたところで、ミントが口を挟む。
「最後のは通るの?」
「通す」
「異典執行局も困るわよ」
「功労者への報酬よ。金額にしたら安いものじゃない」
「ハーブ代でしょ」
「だから安いって言ってるの」
ルチェアがおずおずと手を上げた。
「あの、私の治療費はそんなに書かなくても……」
ノーラは筆を止めた。
そして、ルチェアの方を見る。
「ルチェア」
「はい」
「自分の怪我を安く見積もる癖、やめなさい」
ルチェアは小さく肩を震わせた。
ノーラの声は怒鳴ってはいなかった。
だが、いつもの冗談めいた調子とも違う。
「あなたは今日、クリオの逃走を止めた。ピョコマルと一緒にね。あれがなければ、あいつはまた逃げて、次の橋か村か畑を燃やしていたかもしれない」
「……はい」
「その働きに値段をつけるのは、強欲でも図々しいことでもないわ。ちゃんと価値があるって認めることよ」
ルチェアはノートを抱えるように膝の上で手を重ねた。
「価値……」
「そう。だから治療費も、危険手当も、協力報酬も請求する。あなたが遠慮しても、私は遠慮しない」
フレアリスがふっと笑った。
「そこはノーラらしいですわね。優しいのかがめついのか分かりませんけれど」
「両方よ」
ノーラはさらっと言う。
「お金で守れるものもあるんだから、取れる時に取るの」
ミントが小さく息をついた。
「まあ、そこは同意」
ジンジャーも静かに頷く。
「働きには、対価が必要だ」
カルメノが少し間を置いて言った。
「傭兵も、同じだ」
ルチェアはみんなを見回した後、小さく頷いた。
「……分かりました。じゃあ、ちゃんと請求してください」
「よろしい」
ノーラは満足そうに筆を動かし始めた。




