69~黒魔術師クリオ捕獲作戦7ー見えた勝機
クリオが笑える時間は、もう長くない。
そう思った直後、ノーラは己の考えがまだ甘かったことを知った。
追い詰められているのは、確かにクリオだった。異典による封界杭の圧で長距離転移は封じられ、ショートステップもわずかに鈍っている。召喚陣から湧く魔物も減り前線は押し返しつつある。
だが、追い詰められた獣が大人しく牙を折るとは限らない。
まして、クリオは獣より悪い。
人の弱い部分を選んで噛む男だ。
「フレアリス、右奥!」
「分かっていますわ!」
ノーラが指示をした方向へ、フレアリスが大きく腕を振る。炎の帯が採掘場の斜面を斜めに走り、クリオの立つ岩棚へ襲いかかった。
狙いは、当てることではない。
逃げ場を右奥に限定し、カルメノの槍の間合いへ誘導するための一撃。
クリオの足元に黒いルーンが浮かぶ。
跳ぶ。
予想通り、右奥の岩棚。
「カルメノ!」
ノーラの声とほぼ同時に、カルメノは動いていた。
槍の穂先が岩棚の上を薙ぐ。深追いはしない。足元を削るだけ。
クリオは軽く身を引き、さらにショートステップで躱そうとする。
その瞬間、ノーラは見た。
着地の前。
クリオの膝が、わずかに沈む。
やはり魔力制御が確実に乱れている。
あと少し。
あと少しで転移を止められる。
そう思った刹那、クリオの仮面がこちらを向いた。
正確には、ノーラではない。
その背後。
ルチェアとピョコマルを凝視し、指先をゆっくりとルチェアに向ける。
「……なるほど」
クリオの声が妙に近く聞こえた。
「先ほどから戦闘にも参加せず、後方から私の様子を伺っていたようだな。つまり切り札はそちらか」
ノーラの背筋に冷たいものが走り反射的に叫ぶ。
「ミント!」
「分かってる!」
ミントが結界を厚く張り直す。
その直後、クリオの足元から伸びた黒い針のような魔力が、地面を這ってルチェアへ向かった。
「ククク……その反応。実に分かりやすい。脆い部分を突かれると人はすぐに過敏に反応する、これまで見てきた連中も皆そうだった」
速い。
ノーラは水弾を撃つ。
だが、黒い針は途中で三つに枝分かれした。一本は水弾に砕かれ、一本はミントの結界に弾かれる。
残る一本が、結界の端を掠めた。
ぱきん、と嫌な音がした。
結界の光が歪む。
「くっ……!」
ミントが顔をしかめる。
割れてはいない。だが、薄くなった。
その一瞬を、クリオは逃さなかった。
召喚陣の端から、影が立ち上がる。
犬に似ていた。
だが犬ではない。岩の甲殻を背負い、口の奥に赤黒い光を溜めた、歪んだ召喚獣。四肢が異様に長く、低い姿勢のまま斜面を駆け上がってくる。
狙いは前線ではない。
ルチェアだ。
「ルチェア、下がって!」
ノーラが叫ぶ。
ルチェアは動こうとした。
しかし、足がすくんだ。
無理もない。真正面から迫る魔物の牙。割れかけた結界。腕の中で震えるピョコマル。自分が狙われているという事実。全部が一度に彼女にプレッシャーかけ精神を押し潰した。
「ルチェア!」
ジンジャーが横から飛び込んだ。
岩殻の召喚獣が結界へ体当たりする。
光が砕ける。
その牙がルチェアへ届く寸前、ジンジャーの腕が間に入った。
鈍い音がしジンジャーの身体が弾かれ、岩場へ叩きつけられる。
「ジンジャーさん!」
ルチェアの悲鳴が上がる。
ジンジャーはすぐに起き上がろうとしたが、左肩から血が流れていた。牙が深く入ったのだ。ミントが駆け寄ろうとするが、別の小型魔物がその行く手を塞ぐ。
「邪魔!」
ミントが光の刃で魔物を弾く。
だがその分、ルチェアの結界が完全に薄くなる。
ノーラの胸の奥で、怒りが音を立てて膨れ上がった。
こいつは最初から、そこを狙っていた。
ショートステップで逃げ回りながら、ノーラたちの攻撃を見ていたのではない。誰が切り札か、誰を潰せば陣形が崩れるか、それをずっと値踏みしていたのだ。
商人の値踏みとは違う。
人の命を、心を、壊れやすさで測る目。
全ての行動原理に吐き気がした。
「実に分かりやすい」
クリオは静かに言った。
「強い者を壊すより、守られている者を壊す方が全体が揺らぐ」
「最低ですわね!」
フレアリスの火線が走る。
「私にとって、その言葉は誉め言葉だな」
だが、クリオはそれをショートステップで躱した。
躱した先は、ルチェアにさらに近い岩棚。
カルメノが割り込もうとする。
しかし、召喚陣から伸びた黒い蔓のような魔力が、槍の柄に絡みついた。
カルメノは無理に引きちぎろうとするが、一瞬遅れる。
その一瞬が、今は致命的だった。
クリオが手をかざす。
黒い魔力の針が、今度は直接ピョコマルへ向けられた。
「その小動物、空間の揺れに反応するようだな。ならば先に壊しておこう」
ルチェアの顔から血の気が引いた。
ピョコマルが小さく震える。
「ぴゃ……」
ノーラは水弾を撃った。
フレアリスも炎を飛ばした。
ミントも結界を張ろうとした。
だが、全部が少しずつ遠い。
間に合わない。
その時、ルチェアがピョコマルを抱きしめるように身体をひねった。
黒い針が、彼女の肩口を掠める。
「あっ……!」
鋭い痛みに、ルチェアが膝をついた。
深手ではない。だが、服が裂け、白い肌に赤い線が走る。
ピョコマルは無事だった。
しかし、ルチェアの手は震えていた。
痛みより、恐怖で。
ノーラの視界が一瞬だけ白くなる。
怒鳴りたくなった。
今すぐクリオを撃ち落としたくなった。
だが、その衝動を奥歯で噛み潰す。
ここで怒りに飛びつけば、クリオの思う壺だ。
だからノーラは、声を低くした。
「ルチェア」
彼女は顔を上げる。
涙が浮かんでいる。
けれど、ピョコマルを離してはいない。
「私の声だけ聞きなさい」
「……はい」
「よく守ったわ。だから次は、守るだけじゃなくて、あいつの足を止める」
ルチェアの目が揺れる。
「でも、私……」
「一回でいいって言ったでしょ」
ノーラは、あえて笑った。
余裕があるからではない。
ルチェアに、まだこちらが崩れていないと思わせるためだ。
「今が、その一回よ」
ピョコマルが、ルチェアの腕の中で顔を上げた。
小さな耳がぴんと立つ。
毛が逆立ち、周囲の空気がかすかに渦を巻く。
ノーラはすぐに指示を飛ばした。
「ミント、ジンジャーを止血しながらルチェアの前に結界。厚くしなくていい、薄く広く!」
「注文が多い!」
「できるでしょ!」
「やるわよ!」
ミントが歯を食いしばり、片手でジンジャーの肩に治癒の光を当て、もう片手でルチェアの前へ薄い結界を広げる。
「カルメノ、蔓を切って岩殻の足を止めて!」
カルメノは無言で槍を捻った。
絡みついていた黒い蔓を、柄の回転で引き剥がす。そのまま踏み込み、岩殻の召喚獣の前脚を槍で貫いた。
召喚獣が咆哮する。
「フレアリス、火力じゃなくて風を作って!」
「火で風を?」
「上昇気流! この場の流れをルチェアに見せる!」
フレアリスは一瞬だけ目を見開き、すぐに笑った。
「なるほど。炎の貴族に、空気の道を作れと」
「できない?」
「愚問ですわ!」
フレアリスが炎を地面へ走らせる。
燃やすためではない。熱で空気を押し上げるための火。採掘場の斜面に沿って温められた空気が昇り、土埃と水煙を巻き込んで流れを可視化する。
ノーラも水を霧状に散らした。
細かな水滴が空間に浮き、風の流れを映し出す。
歪みが見える。
クリオのショートステップが残した、わずかな空間の傷跡が、霧の乱れとして浮かび上がる。
ルチェアが息を呑んだ。
「見える……」
「それを追って」
ノーラは言う。
「足元じゃなく、空間の輪郭を見るの。ピョコマルが反応する場所を、あなたが決める」
クリオの動きが、初めて止まった。
ほんのわずかに。
仮面の奥の気配が変わる。
「……面白くないね」
その声には、先ほどまでの余裕が薄れていた。
召喚陣の魔物は減っている。
ジンジャーは負傷したが、ミントの治癒で意識は保っている。
カルメノが岩殻の召喚獣を押さえ、フレアリスの火が空気の流れを作り、ノーラの霧が空間の歪みを暴いている。
そして、ルチェアとピョコマルが、その歪みを見始めている。
クリオは理解したのだ。
このまま続ければ、逃げ足を読まれる。
「……今日の実験はここまでだ」
彼は低く言った。
足元に、大きめの転移陣が浮かぶ。
封界杭の内側で長距離転移は使えない。だが、採掘場の縁ぎりぎりへ抜ける局所転移なら、まだ可能だと踏んだのだろう。
「君たちの絶望は、次の機会にたっぷりと」
「次? 二度とそんな機会はないわ」
ノーラは即答した。
クリオの転移陣が広がる。
黒いルーンが足元を巡り、空間がねじれ始める。
ルチェアは震えていた。
肩から血が滲んでいる。
目元には涙が残っている。
それでも、ピョコマルを前へ抱え直した。
ノーラは短く叫ぶ。
「今! ルチェア、ピョコマル!」
ルチェアは息を吸った。
そして、震える声で命じる。
「ピョコマル、風を――ねじるの!」
「ぴゃうっ!」
ピョコマルが転移陣の縁へ飛び込んだ。
小さな身体の毛が逆立つ。
耳がぴんと伸び、尻尾が弧を描く。
次の瞬間、空気が歪んだ。
ただの風ではない。
採掘場の底に溜まっていた霧が、ぐるりと渦を巻く。フレアリスの熱で生まれた上昇気流、ノーラの水霧、封界杭が作る空間の重さ。その全部をピョコマルが引っかけ、ルチェアの指示する一点へねじ込んだ。
クリオの足元の転移ルーンが、ぐにゃりと曲がる。
「何だ……?」
初めて、クリオの声に明確な動揺が走った。
「座標が……合わない……!?」
転移陣が暴れる。
黒い光が弾け、白い仮面が揺れる。
クリオは術式を立て直そうとしたが、遅い。
ピョコマルがさらに鳴いた。
「ぴゃううっ!」
風が横から座標式を押し曲げる。
次の瞬間、クリオの身体が転移光に呑まれた。
だが、消えた先は採掘場の外ではなかった。
数メートル横。
封界杭が最も密に打ち込まれた、拘束用の空間。
そこへ、叩き落とされるように現れる。
クリオの足が地面についた瞬間、周囲の杭が一斉に光を放った。
空気が固定される。
重く、冷たく、逃げ道を失った空間が、彼の周囲だけを檻のように閉じた。
シエナの声が響く。
「そこは転移不能領域よ」
彼女は静かに剣を抜いた。
「追いかけっこは終わりだクリオ」
クリオはショートステップを試みた。
足元に黒いルーンが走る。
だが、弾けるだけ。
彼の身体は、一歩も動かなかった。
「……ふざけるな」
仮面の奥から、低く濁った声が漏れる。
「私を……閉じ込める気か」
ノーラは血の滲む肩を押さえるルチェアを見て、次に倒れかけながらも立ち上がるジンジャーを見た。
そして、クリオへ向き直る。
「ええ」
指先に水の魔力が集まる。
「商売の邪魔をした損害金、仲間を傷つけた慰謝料、ついでに逃げ回った分の手間賃」
ノーラの声は、低く冷えていた。
「まとめて取り立てるわ」




