68~黒魔術師クリオ捕獲作戦6ー転移地獄
クリオの姿が、また消えた。
いや、消えたように見えるだけだ。
ノーラはそう自分に言い聞かせる。
目で追おうとするから遅れる。相手の姿ではなく、魔力の揺らぎを見る。足元に浮かぶルーン、空気の歪み、移動直後に残る薄い残滓。それを拾えば、完全に見失うことはない。
理屈では分かっている。
だが、実際の戦場では理屈より一瞬が速かった。
「ウォーターガン!」
ノーラの指先から圧縮された水弾が放たれる。
細く、速く、狙いは正確だった。
クリオの胸元を撃ち抜く――はずだった。
水弾が到達する直前、彼の足元に黒いルーンが走る。
次の瞬間、ローブの裾だけが水に裂かれ、本人は数歩離れた岩棚の上に立っていた。
水弾は背後の岩壁へ直撃し、石を砕いて白い水煙を上げる。
「フフ。威力は悪くない……当たらなけば意味がないぞ」
クリオの声が、採掘場の壁に反響する。
「次はどこを狙う?」
ノーラは舌打ちを飲み込んだ。
腹立たしい。
だが、腹を立てた瞬間に狙いが荒れる。
分かっている。
だが逃走用の転移魔法の連打と召喚魔術による消耗戦を仕掛けクリオは相手の神経を直接削ってくる。
「本当にしつこいですわね! ならば、避ける隙間ごと焼き払って差し上げますわ!」
フレアリスが叫ぶ。
彼女の周囲に、炎の輪が幾重にも展開された。今度は一点突破ではない。クリオが移動できる範囲そのものを炎で押し潰すつもりだった。
「試しの魔火(プロ―ピングフレア)――散華!」
炎が複数の火線に分かれ、岩棚の上をなぞるように走る。
逃げ道を塞ぐような、広く鋭い攻撃。
だがクリオは、ほんの半歩だけ下がった。
そこに小さな転移ルーンが浮かぶ。
火線が彼を包む直前、黒いローブがぶれる。
次に現れたのは、炎の外側。採掘場の斜面に突き出した別の岩の上だった。
火は空を焼き、赤い残光だけが虚しく散る。
「悪くない」
クリオはゆるく首を傾けた。
「だがまだ、私を捉えるには足りないな」
「このっ……!」
フレアリスの顔に、露骨な怒りが浮かぶ。
ノーラは手を横に出して制した。
「連発しないで。魔力を削らされる」
「分かっていますわ!」
「分かってる顔じゃない」
「うるさいですわね!」
言い返しながらも、フレアリスは火力を一段落とした。
怒ってはいるが、判断までは失っていない。そこはさすがだった。
前線では、ジンジャーとカルメノが残る魔物を押さえていた。
すでに大型は減ったが、小型の魔物はまだ召喚陣の縁から湧き出してくる。数は目に見えて減っている。だが、ゼロにはならない。そのわずかな残りが、こちらの集中を削っていた。
ミントの結界が、飛び込んできた獣型魔物の爪を弾く。
「ノーラ、長引くとこっちもきついわよ!」
「分かってる!」
ノーラは短く返し、クリオから目を離さない。
あの男は、逃げている。
なのに、追い詰められているように見えない。
むしろ、逃げること自体を見せ物にしている。
攻撃を引きつけ、寸前で躱す。
こちらの焦りを見て、わざと声をかける。
怒れば精度が落ちる。焦れば連携が乱れる。疲れれば判断が鈍る。
クリオは、それを待っている。
ただ逃げ回っているのではない。
こちらの心が先に削れる瞬間を見ているのだ。
ノーラは呼吸を整えた。
怒りを消すことはできない。
なら、冷たい形に固めるしかない。
「ノーラさん……」
背後からルチェアの声がした。
不安そうな声。
でも、逃げ腰ではない。
ピョコマルはルチェアの腕の中で、しきりに耳を動かしていた。クリオが跳ぶたびに、ぴくりと身体が反応する。空間が歪む、その一瞬だけを拾っているのだ。
ノーラは横目でそれを確認する。
まだ早い。
ここで使えば、クリオは警戒する。
ピョコマルが座標を乱せると知れば、あの男は次から対策を変えてくる。
切るなら、一度きり。
逃げると決めた瞬間。
勝ったつもりで術式を広げた、その時。
だから今は、耐える。
当たらない攻撃を、当たらないと分かったうえで撃つ。
相手に、まだこちらが決め手を出せていないと思わせる。
嫌な戦いだった。
商談でわざと損を見せて、相手の欲を誘う時に似ている。
ただし、こちらの損は魔力と体力と、仲間の命だ。
ノーラはもう一度、水弾を構えた。
「ウォーターガン!」
放つ。
クリオは避ける。
今度は右の岩棚。
着地の瞬間、彼の肩がほんのわずかに揺れた。
ノーラの目が細くなる。
次の攻撃はフレアリスだった。
「熱界焦断!」
細い火線が、クリオの仮面の横を掠める。
また転移。
また回避。
だが、今度は着地した足が石を擦った。
ほんの一瞬。
普通なら見逃す程度の乱れ。
しかしノーラは、そこを見た。
(……ふらついた)
ショートステップは万能ではない。
長距離転移ほど大きな準備は要らない。
だが、空間を短く折りたたんで移動する以上、身体にも感覚にも負担がある。視界、平衡感覚、足裏の位置。連発すれば、わずかにズレる。封界杭の内側なら、なおさらだ。
クリオ本人は平然としているつもりだろう。
だが、身体は嘘をついていない。
ノーラは小さく息を吐いた。
見えた。
ほんの細い糸だが、勝ち筋が見えた。
クリオがまた笑う。
「その必死な顔。いい、もっと見せてくれ無駄に足掻く様を。その表情が絶望に変わるまで。努力が全て徒労に終わる頃に、お前はどんな言葉を吐いてくれる?」
彼は岩棚の上で両手を軽く広げ嬉々とした声で喋る。
「あと何発撃てる? 何度外せる? 君たちの魔力が尽きるのが先か、心が折れるのが先か」
「よく喋るわね」
ノーラは冷たく返した。
「いつまで避け続けるつもり? 安全な所から召喚魔法でけしかけて、決して自分からは仕掛けてこない、アンタは誰よりも臆病者ね」
しばしクリオは黙り込む。ノーラの挑発に、クリオは自尊心をかき乱されたかのように見えたのだが――
「アリの巣穴に水や熱湯をかけたことがあるかね? もがいて大きな流れに呑まれていくアリの群れ。崩壊してゆくアリの巣穴を、私の気まぐれ一つでどうにでも出来る。お前たちの生死は、私の見たい景色にいくらでも変えることが出来る。今ちょうどアリの巣穴にちょっかをかけてる子供の頃の気分を思い出したよ……クククククク」
ノーラは水を指先に集める。
「悪趣味な神様気取り。聞いてて陰険で反吐が出るわ、水で流されるべきは人間はアンタよ」
「では、やってみるがいい」
クリオの声が愉悦を帯びる。
「怒りは壊れる直前が一番美しい」
「うるさい!」
言葉と同時に水弾を撃つ。
クリオはまたショートステップで逃げた。
だが今度は、ノーラは当てる気で撃っていなかった。
転移先を見ていた。
そして、見えた。
足元の黒いルーンが走る方向。
転移直前に視線が向く先。
着地後の身体の揺れ。
この男は、完全に無作為に跳んでいるわけではない。
安全な足場を選んでいる。
高低差の少ない岩棚を選ぶ。
召喚陣から離れすぎない位置を保つ。
そして、封界杭の濃い場所には無意識に近づかない。
逃げ足にも、癖がある。
(……自在に逃げてるように見えるけど、やっぱりアイツの転移には癖がある)
ノーラは一歩下がった。
その動きを見て、フレアリスがわずかに眉を寄せる。
「ノーラ?」
「フレアリス、少し任せる。派手に撃たなくていい牽制だけやってちょうだい」
「……何か掴みましたのね?」
「たぶんね」
フレアリスは不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに炎を小さく散らし、クリオの視界を塞ぐように火の幕を作る。
その隙に、ノーラはルチェアの近くへ寄った。
ルチェアはすぐに背筋を伸ばす。
「ルチェア」
「は、はい」
「まだ動かないで」
ノーラは低く言った。
「でも、準備だけして」
ルチェアの喉がこくりと動いた。
ピョコマルも、腕の中で小さく鳴く。
「ぴゃ」
ノーラは採掘場の中央を見たまま、説明を続ける。
「クリオのショートステップ、連発すると少し乱れる。見た?」
「えっと……消えて、出てきて……でも、少しだけ足が……」
「そう。それで合ってる」
ノーラはルチェアを見る。
怯えた顔ではあった。
でも、目は逃げていない。
「長距離転移と違って、あれは短い距離を無理やり折ってる。封界杭のせいで空間が重くなってるから、あいつの感覚にもズレが出てる。けど、まだ捕まえるには足りない」
「それを、私とピョコマルで……?」
「そう」
ノーラは足元の土を指で軽くなぞり、簡単な図を描いた。
円。線。逃げる先。
「クリオが逃げる時、足元に小さいルーンが出る。あの黒い線よ。あなたはそこへ風をぶつける」
「壊すんですか?」
「壊さなくていい。むしろ壊そうとしないで。あの術式を力で潰すのは危ない。反発であなたが巻き込まれる」
ルチェアの顔が強張る。
ノーラはすぐに続けた。
「だから、乱すだけ。まっすぐ引いた線を、横から指でぐにゃっと曲げる感じ。座標が少しズレればいい」
ピョコマルが、説明に反応するように耳を動かした。
その毛先が、ほんの少し逆立つ。
小さな身体の周囲で、空気が薄く渦を巻いた。
ルチェアはピョコマルを見下ろし、ぎゅっと抱きしめそうになってから、慌てて力を緩めた。
「私、できるでしょうか?」
声は小さかった。
ノーラは一瞬、答えを選んだ。
簡単に「できる」と言えば楽だ。
けれど、ここはそういう慰めだけで済む場面ではない。
できるかどうかではなく、やるしかない時がある。
でも、それをそのまま突きつければ、ルチェアは潰れる。
だからノーラは、少しだけ商人らしく言った。
「全部成功させようと思わなくていいわ」
「え?」
「一回でいい。勝負どころで一回だけ、あいつの座標をずらせば十分。百点はいらない。必要な時に、必要な分だけ仕事をする。それが一番高い働きよ」
ルチェアは目を見開いた。
その言葉が、少しだけ彼女の肩から力を抜いたのが分かった。
「一回……」
「そう。一回」
ノーラは頷く。
「その一回を、私が合図する。だから勝手に撃たない。怖くなっても、焦っても、私の声を待ちなさい」
「はい」
「ピョコマルもよ」
「ぴゃう」
ピョコマルは妙に真面目な顔で鳴いた。
こんな戦場でなければ笑えたかもしれない。
だが今は、その小さな鳴き声すら頼もしかった。
ノーラはもう一度、クリオへ視線を戻す。
フレアリスの火幕を、クリオがショートステップで抜ける。
抜けた先を、カルメノが槍で牽制する。
クリオはさらに跳ぶ。
また着地が乱れた。
ほんの一瞬、膝が沈んだ。
リュシエルもそれを見ていたらしい。
視線だけでノーラに問いかけてくる。
ノーラは小さく頷いた。
まだだ。
ここではない。
クリオは追い詰められていることを認めていない。
まだ遊びの延長だと思っている。
だから、切り札を切るには早い。
もっと魔物を減らす。
もっとショートステップを使わせる。
もっと封界杭の圧を意識させる。
そして、あの男が本当に危険だと感じて、逃走用の術式を展開した瞬間に叩く。
ノーラは胸の内で盤面を組み替えていく。
前衛の残り体力や、フレアリスの残魔力、ミントの結界維持。
ルチェアの緊張、ピョコマルの反応。
異典執行局の封界杭の位置。
それらを全部、ひとつの帳簿のように並べる。
損益の釣り合う一点。
勝負を切るべき瞬間。
そこまで、あと少し。
「フレアリス」
「何ですの」
「次、少し大きめに撃って。わざと外していい。あいつを右奥の岩棚へ誘導したい」
「わざと外すのは癪ですけれど、意図は分かりましたわ」
「カルメノ、右奥へ出たら槍で足元を牽制。深追いはしないで」
カルメノは短く頷く。
「ジンジャーは前の魔物を止めて。ミント、ルチェアの結界は厚めに」
「了解」
「ルチェア」
「はい」
ノーラは最後に、彼女へ視線を向けた。
「ここから先、私の声だけ聞いて」
ルチェアは緊張したまま、それでもしっかり頷いた。
「はい、ノーラさん」
その返事を聞いて、ノーラは前へ出る。
採掘場の空気は重く、赤黒い魔力の光が岩肌を不気味に染めていた。
クリオはまだ笑っている。
だが、ノーラには分かっていた。
笑える時間は、もう長くない。
次に逃げようとした時が、この男の安全圏が崩壊する瞬間だ。




