66~黒魔術師クリオ捕獲作戦4
古い採掘場跡へ向かう道は、街道から外れてすぐに荒れ始めた。
馬車の轍は途中で途切れ、踏み固められていたはずの道も、いつしか石と土の入り混じった獣道のような細さになっていく。左右には低い灌木が生い茂り、枯れた枝がローブや外套の端を引っかいた。
空はまだ明るい。
けれど、さっきまでの穏やかな昼とは違っていた。雲が少しずつ厚みを増し、陽の光が柔らかさを失っている。遠く、グラマニアの山肌に落ちる影が濃くなり、風には湿った土と古い石の匂いが混じっていた。
ノーラは走りながら、何度も前方を見た。
虚嗅師は迷わなかった。
彼は地図もろくに見ず、折れた枝、石の表面、空気の淀み、そういったものを嗅ぎ分けるように先導していく。時折立ち止まり、地面に指を触れる。そしてまた歩き出す。
焼けた血と墨の匂い。
その表現は、最初に聞いた時こそ奇妙に思えた。だが今は、ノーラにも何となく分かる気がしていた。クリオの残した魔力は、戦場の空気そのものを汚す。熱を持っているのに冷たい。生臭いのに乾いている。理屈ではなく、近づくほどに肌の奥がざらつく。
ルチェアはノーラの少し後ろを走っていた。
胸元にはピョコマルを抱えている。ピョコマルはいつものように丸まってはいなかった。小さな耳をぴんと立て、鼻先を震わせながら、じっと前方を見ている。
「大丈夫?」
ノーラが振り返らずに声をかけると、ルチェアは少し息を乱しながらも答えた。
「は、はい。大丈夫です」
その声には緊張が滲んでいる。
当然だ。峡谷での戦いだけでも十分危険だった。そこからさらに、逃げた黒魔術師を追って最終戦場へ向かっている。怖くない方がおかしい。
けれど、ルチェアは逃げ出さなかった。
ノーラはそれを確認し、胸の奥で小さく息を吐く。
この子は、まだ戦い慣れていない。魔術も未熟で、咄嗟の判断も危うい。だが、それでも役目から目を逸らしていない。なら、こちらが使い方を間違えるわけにはいかない。
ルチェアとピョコマルは切り札だ。
雑に切る札ではない。
やがて道が開けた。
木々が途切れ、視界の先に巨大な窪地が現れる。
採掘場跡だった。
かつて山肌を削り、石と鉱脈を掘り出していた場所なのだろう。地形はすり鉢状に落ち込み、中央へ向かって段々に低くなっている。周囲には古い岩棚が幾重にも巡り、ところどころに黒い坑道の口が開いていた。崩れた足場、錆びた滑車、朽ちた支柱。人が去って久しい場所に、いまは魔力の赤黒い光だけが脈打っている。
中央。
すり鉢の底に、巨大な召喚陣があった。
それは地面に刻まれているというより、地面そのものを傷口に変えたような陣だった。赤黒い線が何重にも重なり、脈打つたびに土が微かに震える。陣の周りには、すでに中型の魔物が数体。さらに小型の魔物が群れとなって蠢いている。
そして、その中心にクリオが立っていた。
黒いローブ。白い仮面。
峡谷の時と同じ姿。
けれど、今度は高みから見下ろしているのではない。自分で作った舞台の中心に立ち、こちらを待っていた。
ノーラは足を止める。
胸の奥で怒りがまた熱を持つ。
だが同時に、妙な納得もあった。
やはり、ここだ。
クリオの趣味なら、この地形を選ぶ。上から見下ろせる岩棚、魔物を展開しやすい広い中央、いざとなれば坑道へ逃げ込める構造。そして何より、崩せば多くを巻き込める古い岩盤。
嫌なほど、この男らしい。
「面白いな」
中央から、クリオの声が響いた。
採掘場の壁が音を拾い、何重にも反響させる。まるであちこちから同時に囁かれているようだった。
「わざわざ檻の中に入ってきてくれるとは」
リュシエルが冷ややかに返す。
「檻だと思っているなら、認識を改めることね」
彼女が右手を上げると、異典執行局の隊士たちが一斉に散った。
動きが速い。
断章隊士たちは採掘場の外周を回り込み、あらかじめ定めていた位置へ走る。それぞれの手には黒い杭が握られていた。金属とも石ともつかない質感で、表面には細かな封字が刻まれている。封界杭。転移魔法の空間座標を固定し、逃走経路を乱すための異典執行局の道具。
一本目が岩場へ打ち込まれた。
鈍い音。
続けて二本目、三本目。
杭が地面に沈むたび、見えない波紋が空気を走った。採掘場全体を包むように、薄い膜のような圧が生まれていく。目には見えない。だが肌で分かる。空間そのものが少し重くなった。
ノーラは息を呑んだ。
怖い組織だ、と改めて思う。
異典執行局はただの武力集団ではない。魔術師を狩るための理屈と道具と手順を持っている。人が嫌がる逃げ道を潰し、術者が頼る癖を読んで、盤面ごと閉じる。
正面から力で押し潰すのとは違う。
相手の自由を、静かに奪っていく怖さがあった。
シエナが振り返る。
「ここから先、長距離転移はほぼ無効化する。封界杭が外周を固定した。だが、短距離のショートステップは乱せても完全には止めきれない」
ノーラは頷いた。
「分かってる」
視線を中央のクリオへ向ける。
「あいつは長距離を封じられても、短距離でいくらでも逃げ回る。だから、そこをルチェアとピョコマルで補う」
ルチェアが緊張した顔でこちらを見る。
ノーラは少しだけ声を落とした。
「さっき言った通りよ。クリオの足元に出る転移のルーン、あれを狙う。直接壊そうとしなくていい。風で乱す。線をぶらす。座標の芯を濁らせる。それだけで十分」
「座標の芯……」
「難しく考えないで。まっすぐ飛ぼうとしてる矢の羽を、横から風で揺らす感じ。ピョコマルなら反応できる。あなたはその方向を決めるの」
ルチェアは唇を引き結び、腕の中のピョコマルを見る。
「私が……方向を」
「そう。あなたが決める」
ノーラはあえて、そこを強く言った。
ピョコマルがやる、では駄目だ。
ルチェア自身が役目を持つ必要がある。
この子は、自分を後ろに置きたがる。役に立てればいい、迷惑をかけなければいい、そういう控えめな願いで踏みとどまろうとする。だがこの場では、それだけでは足りない。
自分の一手で戦況が変わる。
その覚悟が必要だった。
ルチェアは小さく息を吸った。
「……分かりました」
声は震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
フレアリスがふっと笑い、横から言う。
「よろしいですわ、ルチェア。失敗を恐れるより、失敗しても次を撃つくらいの気概でおやりなさいな」
「フレアリスさん……」
「それに、もし失敗してもノーラが何とかしますわ」
「ちょっと。勝手に私へ丸投げしないでくれる?」
「事実でしょう?」
ノーラは言い返そうとして、やめた。
軽口を交わせるなら、まだ大丈夫だ。
緊張に呑まれきってはいない。
ミントが治療具の紐を締め直しながら、低く言った。
「私は前線の怪我を拾う。けど、無茶して重傷になったら怒るから」
「治してから怒ってよね」
「治す前に怒る余裕があったら怒る」
「最悪ね」
カルメノは黙って槍を握り直した。
ジンジャーも拳を鳴らし、採掘場の底を睨む。
布陣は決まった。
ジンジャーとカルメノが前へ出て、魔物の群れを押さえる。フレアリスが範囲火力で数を削り、オーガ級が出れば高火力で止める。ミントは治癒と結界。シエナと異典執行局は封界杭の維持と逃走阻止。ノーラはクリオ本人と召喚陣の破壊に集中する。
そしてルチェアとピョコマルは、クリオが逃げようとした瞬間を狙う。
ノーラはもう一度、採掘場の底を見た。
赤黒い召喚陣が脈打っている。
あの陣を放置すれば、魔物はまだ増える。
長引けばこちらが不利になる。
だから、始めるしかない。
ノーラは灰のローブの内側から小さな魔石を取り出し、掌の中で握った。水の魔力が指先へ集まる。澄んだ冷たさが、怒りで熱を持った思考を少しだけ整えてくれる。
クリオが両腕を広げた。
「さあ、見せてくれ」
仮面の奥で、声が笑う。
「君たちがどこまで足掻けるのか。何を守れるつもりでいるのか。その顔を、もっと近くで見せてくれ」
ノーラは短く吐き捨てた。
「見物料、取るわよ」
そして、手を振り下ろす。
「行くわ!」




