65~黒魔術師クリオ捕獲作戦3
ミニオーガが咆哮を上げて突っ込んできた。
カルメノが半歩だけ前へ出た。槍の穂先が低く走り、巨体の足首へ正確に食い込む。体勢を崩したところへ、ジンジャーの一撃が側頭部を打ち、ノーラの水弾が目元をえぐる。巨体がふらつき、最後はフレアリスの炎が胸部を貫いて沈んだ。
地響きが谷底に広がる。
これで前に残る敵は、掃討できる範囲に入った。
雑魚はまだいるが、戦線そのものを押し返す力はもうない。
そのはずなのに、フレアリスは炎を収めずに叫んだ。
「ノーラ! あの仮面、今なら落とせますわ! 一気に詰めますわよ!」
彼女の視線の先では、クリオがまた位置を変えていた。ショートステップ。
ひらり、と形だけを残して、数メートル先の岩棚へ。
さらにもう一度。
谷の上を滑るように移るその姿は、戦うというより、網にかかる前の虫がわざと触れさせて遊んでいるようで、見ているだけで神経を逆なでした。
だが、ノーラは首を振る。
「だめ。今は追わない」
「何ですって?」
フレアリスが露骨に目を見開く。
「ここで詰めれば――」
「詰まないわよ」
ノーラの声は思った以上に硬かった。
自分でも分かる。感情で声が強くなったのではない。逆だ。考えを間違えまいとして、余計な熱を全部削ぎ落とした結果の冷たさだ。
「この地形で上を取られてる。あいつはショートステップで岩棚を渡れるけど、こっちは飛べない。無理に追い上がれば隊列が割れるし、残党に足を取られる。何より――」
ノーラは上空のクリオを見た。
仮面の奥の目線が、こちらの出方を測るように細くなっている。
「短距離でチマチマ逃げるタイプじゃない」
ぽつりと落としたその言葉に、自分の中で輪郭がはっきりした。
そうだ。あの男は、ただの臆病者ではない。
逃げること自体を演出に組み込む類だ。自分が優位に見える場所、自分の趣味の悪さが最も映える舞台、自分の理屈で盤面を支配したと感じられる空間――そういうものを必ず用意している。
この狭い峡谷では足りない。
視界が悪い。
足場が窮屈だ。
魔物をばら撒くにも、見せつけるにも、中途半端だ。
だったら次に跳ぶ先はひとつだ。
「……あいつの趣味なら、もっと見晴らしのいい舞台を用意してる」
ノーラは低く言った。
「採掘場跡か、開けた岩場。長距離のマーカーがある方へ跳ぶはずよ」
シエナがその言葉を受けるように、わずかに顎を引いた。
「同感ね」
彼女は既に断章隊へ視線で合図を送っている。峡谷の左右に散っていた異典の者たちが、目立たぬ速さで包囲の幅を変えていくのが見えた。今ここで無理に捕まえる布陣ではない。逃走方向を読むための配置だ。
「ここで焦らせて、より大きい退路を使わせる」
シエナの声音は平坦だった。
「それが一番確実」
フレアリスは不服そうに唇を噛んだが、ノーラは続けた。
「ここで半端に追って取り逃がすのが最悪なの。ショートステップだけで逃げ回られたら、峡谷じゃ視界も悪いし、杭も打てない。けど長距離の転移を使うなら、痕は濃く残る。虚嗅師も追えるし、次の戦場をこっちで選び直せる」
そこまで言って、ノーラは一度だけ大きく息を吸う。
自分に言い聞かせる意味もあった。
今、ここで決着を急ぎたいのは本音だ。橋を落とされ、市場を乱され、あれだけ好き放題言われて、腹が立たないはずがない。けれど商いでも戦いでも、怒った側から足元をすくわれる。
あの男に必要なのは、派手な一撃ではなく、逃げた先で詰む盤面だ。
「だから跳ばせる」
ノーラははっきりと言った。
「逃がすんじゃない。逃げ先を選ばせるのよ」
その瞬間、上から笑い声が降ってきた。
クリオだ。
谷の上の岩棚に立つ黒い影が、仮面の口元を隠しもせず、愉快そうに肩を震わせている。
「面白い」
声が反響し、どこからともなく聞こえてくるようだった。
「実に面白いよ、ノーラ。君は怒っているのに、怒りに飛びつかない」
仮面越しにこちらを見下ろしながら、彼は一歩下がる。
背後の空間が、ゆっくりと歪み始めた。
「だからこそ壊し甲斐がある」
空気が低く唸った。
クリオの足元に、これまでとは比べものにならない規模の魔法陣が展開される。岩棚いっぱいに広がる幾重もの円環。そこを走る細かな式線。中心に集まる赤黒い魔力の脈動。谷の上にいたワイルドホルダーの死骸が、その余波だけでずるりと滑り落ちる。
長距離転移。
見れば分かる。ショートステップのような瞬き一つの移動ではない。
あらかじめ用意した座標へ、大きく盤面ごと抜けるための術式だ。
ルチェアが息を呑む。
「ノーラさん……!」
「まだ」
ノーラは即座に制した。
ここではまだ、ピョコマルは使わない。
ここで乱しても意味が薄い。峡谷の中途半端な位置に転移をずらせたところで、地形が悪すぎる。拘束の布陣も、封界杭も、まだ揃っていない。
ルチェアとピョコマルの切り札は、逃げ場を狭めた最後の場面でこそ効く。
だから今は、跳ばせる。
あえて。
意識して。
こちらの計算で。
クリオの足元の大陣がさらに輝きを増す。黒いローブの裾が魔力の風に煽られ、仮面の白だけが不気味に浮き上がる。
「今日の観察はここまでにしよう」
その声音には、余裕を取り戻した薄笑いがあった。
「君たちの絶望は次の舞台で見させてもらう」
「逃げるだけの男に、よくそこまで格好つけられるわね」
ノーラが吐き捨てると、クリオは首を傾げる。
「逃走ではないよ。次の舞台への移動だ」
「言い換えがお上品なだけで、中身は一緒よ」
言葉を交わしている間にも、ノーラは視界の端で異典の動きを追っていた。虚嗅師がすでに目を閉じ、魔力の流れを嗅ぎ取るように顎を上げている。シエナは片手を上げたまま、誰一人勝手に飛び出さないよう全体の呼吸を押さえていた。
場は崩れていない。
皆、ここで飛びつく愚を理解している。
次の瞬間、光がはじけた。
クリオの姿が、陣ごと呑み込まれる。
赤黒い閃光が峡谷の上に走り、空気がねじれ、風が一気に谷の底へ吹き下ろした。土埃が舞い上がり、焼けた墨のような臭いが鼻を刺す。
目を細めたノーラが見た時には、もう岩棚は空だった。
残っているのは、魔力が削り取ったような跡だけ。
そして、そこから尾を引く、濃い転移の残滓。
数拍の静寂があった。
それは勝った後の静けさではない。
次の戦場へ向けて全員の意識が一斉に尖る、前触れの静寂だった。
やがて、虚嗅師がゆっくりと地面へ片手をついた。
指先が土をなぞり、鼻先が空気を拾う。
「……南東」
声は、先ほどよりはっきりしていた。
「焼けた血と墨の匂い。濃い。古い採掘場跡だ」
シエナが即座に振り向く。
「よし。封界杭を持って追う」
その目がノーラへ向いた。
「ノーラ、君たちも来るか?」
問いというより確認だった。
それでもノーラは、わずかに口元を上げる。
「もちろん」
灰のローブの裾を払って、彼女は短く答えた。
「あいつ、私の商売も潰してるからね」
その声音には熱があった。
だがもう、さっきまでの剥き出しの苛立ちではない。
冷えた刃みたいな熱だった。
今度こそ逃がさない。
そう決めた者の、静かな怒りだった。




