64~黒魔術師クリオ捕獲作戦2
峡谷の空気は、戦いが長引くほどに悪くなっていった。
焼けた肉の臭い。土埃。魔力がぶつかり合ったあとの、鉄を舐めたような痺れ。
狭い谷の中ではそれらが逃げ場を失い、薄い霧のように滞っている。
ノーラは浅く息をつきながら、前線と岩壁の上とを交互に見た。
ゴブリンの数は目に見えて減っていた。ワイルドホルダーの弓兵も、フレアリスの火線とジンジャーの牽制でまともに頭を上げられなくなっている。ミニオーガはカルメノの槍に脚を裂かれ、足場を失ったところへノーラの水弾を受けて膝をついた。
押している。
戦況だけ見れば、こちらが明らかに優勢だった。
それでも、ノーラの胸の内にある嫌なざらつきは消えない。
敵の数を減らしても、勝ちに近づいている感触が薄いのだ。
理由ははっきりしていた。
上にいる。
クリオがまだ、余裕を持って見下ろしている。
黒いローブの裾を風に揺らしながら、仮面の奥の視線だけで谷の底を舐めるように追っている。気に食わないのは、その立ち位置だけではなかった。あの男はただ高みにいるのではない。自分がいつでも盤面の外へ抜けられると知っている者の立ち方をしている。
逃げ道がある者の、余裕だ。
「……どこにあるのよ」
ノーラは独り言のように呟いた。
事前の会議で見た地図が脳裏をよぎる。転移マーキング。逃走経路。クリオが何度も使った座標の癖。
この峡谷手前は、もっとも使う確率の高い点の一つだと。
なら、あるはずだった。
この近くに。
この地形のどこかに。
あの男が、自分だけの退路だと思い込んでいる印が。
ノーラは水弾を一発放って、襲いかかってきたゴブリンの額を撃ち抜く。小さな悲鳴とともに魔物が倒れ、その向こうに見えた岩壁の裂け目に、一瞬だけ違和感を覚えた。
岩肌の色の中に、妙に黒い筋が一本混じっている。
自然に入ったひびにしては、線が滑らかすぎた。
「……あれ」
視線を細めたその時だった。
「左の岩壁、三段目の窪み!」
尋語士リュシエルリュシエルの鋭い声が、戦場の喧騒を切り裂いた。
ノーラが振り向くと、峡谷の後方に控えていた異典執行局の面々がすでに動いていた。黒衣の断章隊士が二人、岩場の側面へ取りついている。動きに迷いがない。滑る石の上を踏み外しもせず、必要なところにだけ手をかけて、まるでそこに足場が見えているかのように登っていく。
その下では虚嗅師が片膝をつき、指先を地面に触れたまま顔をしかめていた。
「濃い。焼けた血と墨……この裂け目だ」
声は低かったが、確信に満ちていた。
ノーラは舌打ちしそうになるのをこらえた。
見つかった。やはりここにあった。
クリオの仮面が、ぴくりとわずかに動く。
ほんの小さな反応だった。
けれど、それだけで十分だった。
(当たりね)
ノーラの心がすっと冷える。
焦りではない。逆だ。相手の綻びを見つけた時の、あの澄んだ確信だった。
断章隊士の一人が岩壁の窪みに手を差し入れる。次の瞬間、乾いた音とともに、擬岩に偽装されていた石柱が露わになった。
人の腕ほどの太さ。黒灰色。表面には細いルーンが幾重にも刻まれ、中心には赤黒い魔石が埋め込まれている。自然物に紛れるよう削られてはいるが、見つかってしまえば人工物と分かる、嫌らしい細工だった。
リュシエルが短く命じる。
「壊しなさい」
断章隊士は返事もせず、腰の短槌を振り下ろした。
甲高い音が、谷に響く。
石柱は一撃では砕けない。表面のルーンが光り、抵抗するように鈍い赤を灯す。
だが二撃、三撃と続くうちに亀裂が走り、刻まれていた術式がばちりと不快な火花を散らした。
最後の一打で、魔石が割れる。
赤黒い光が弾け、周囲の空気が一瞬だけねじれた。
風が逆巻き、岩壁の影がぶるりと震える。
クリオが、はっきりと舌打ちした。
「……ちっ」
それは初めて、あの男の余裕の仮面に走った生々しい亀裂だった。
「やっぱりね」
ノーラの声は冷えきっていた。
「ここが逃げ道の一つだった」
ノーラは口元を歪める。
腹の底で、少しだけ溜飲が下がる。
「ずいぶん大事に仕込んでたみたいだけど、あっさり見つかったわね」
クリオは高みから見下ろしたまま、静かに肩をすくめた。
「まったく……実験の邪魔ばかりする」
その口調には苛立ちが滲んでいたが、完全な焦燥にはまだ遠い。
不気味なのはそこだった。退路の一つを潰されても、まだ計算の内だという顔を崩していない。
「いいさ」
仮面の奥から、乾いた笑いが漏れる。
「転移のマーキングは、まだ他にもある」
その言葉と同時に、彼の足元の陣がわずかに光を増した。
ノーラはその変化を見逃さなかった。
あの男は、すでに次の手へ移っている。
この峡谷はもう使い捨てるつもりだ。
だったら――こちらも次へ進ませてやればいい。




