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63~黒魔術師クリオ捕獲作戦

 

 峡谷の入口は、昼だというのに薄暗かった。


 左右から迫る岩壁が、空を細い帯のように切り取っている。陽の光は上空にはまだあったが、谷へ降りてくるころにはすっかり勢いを失い、地表にはくすんだ灰色の明るさだけが残っていた。風は吹いているはずなのに、岩肌に行く手を遮られているせいか、空気は妙に淀んでいる。土埃のにおいに混じって、焼けた木と獣臭、それに鼻の奥にうっすらと引っかかる、嫌な焦げ臭さがあった。


 ノーラは先頭を歩きながら、わずかに眉をひそめた。


 橋梁が半ば崩れ落ちたという報せを聞いた時から、胸の内にくすぶっていた苛立ちはまだ消えていない。あの橋はただの通路ではない。ジルコールへ荷が入りジルコールから荷が出ていく、その流れを支える血管のようなものだった。あれが止まれば、商人は仕入れを止める。宿は客を失い、職人は材料を切らし、市場は縮む。値札は上がり、人は買い控え、街そのものが息苦しくなっていく。


 銀刻交易連合がどうこうという話では、もうなかった。


 このまま手をこまねいていれば、ジルコール全体の商いが死ぬ。


 ノーラはしゃがみ込み、地面へ指先を伸ばした。乾いた土の表面を軽く払うと、その下に炭で引いたような黒い筋が浮かび上がる。線はまっすぐではない。わずかに波打ちながら、どこかへと続いている。


「……やっぱり」


 小さく漏らした声は、思っていたよりも冷えていた。


 自然に残るひび割れでも荷車の轍でもない。魔力の通り道だ。しかも、隠す気のない残し方をしている。気づく者には気づけと言わんばかりの雑さで、しかし雑に見せるぶんだけ厄介な、あの手の痕跡だった。


 囮かあるいは脅し。


 どちらにせよ、相手は自分たちが来ることを見越している。


 背後からフレアリスの声が響いた。


「露骨ですわね。まるでここを通れとでも言いたげではありませんの」


 ノーラは振り返らずに立ち上がる。


「ええ。親切なくらい分かりやすいわ」


 だからこそ気に入らない。

 商いでもそうだが、露骨な罠には二種類ある。よほどの愚か者が仕掛けた雑なものか、相手がそれでも飛び込まざるを得ないと見切っているか。クリオという男は、前者ではない。


 カルメノは無言で槍を構え直していた。大きな身体は岩壁の陰を背にしていても存在感を隠しきれず、槍の穂先だけが細く冷たい光を返している。ジンジャーは少し先を見据え、すでに重心を落としていた。ルチェアは緊張した面持ちでピョコマルを胸元に寄せている。ミントは口を真一文字に結び、いつでも治癒術に移れるよう指先に魔力を集めていた。


 皆、空気の異変に気づいている。


 その静けさを、最初に破ったのは小さな石の転がる音だった。


 ころり、と。


 峡谷の奥から転がってきた石が、ノーラたちの前で止まる。直後、岩陰のあちこちで気配が弾けた。


「来るわよ」


 ノーラが言い終えるより早く、甲高い叫びが谷に反響した。


 ゴブリンの群れが岩陰から雪崩れ出る。錆びた刃物や棍棒を振り回しながら、数で押し流すつもりなのが見え見えの突進だった。その後方、背の低い岩棚の上にはワイルドホルダーの弓兵が並び、さらに地面を踏み鳴らす鈍い重低音とともに、灰褐色の巨体が姿を現す。


 ミニオーガ。


 その肩幅だけで道の幅が狭く感じるほどの圧迫感があった。


「……随分とまあ、分かりやすい時間稼ぎね」


 ノーラは舌先で奥歯を軽く押した。


 怖くないわけではない。これだけの数が狭い地形で押し寄せれば、一歩崩れただけで隊列は乱れる。前衛が止め損ねれば後衛まで一気に食い込まれるだろう。だが、それ以上に腹立たしかった。敵の配置に、勝つための執念より、何かを見物するような軽さが透けて見える。


 まるで試験台だ。


 どこまで粘るか、誰がどう動くか、どこで焦るか。そういうものを測るための、捨て駒の並べ方だった。


「見られてる」


 ノーラは小さく呟く。


「え?」


 ルチェアが聞き返す。


「この布陣、私たちを削る気が薄いのよ。倒せるなら倒す、じゃない。どこまで動けるか見てるだけ」


 その言葉に、フレアリスの口元が不機嫌そうに歪んだ。


「趣味の悪い男ですこと」


「商売の邪魔をする上に性格まで悪い。最悪ね」


 ノーラは片手を上げた。


「フレアリス、正面の雑魚を削って。カルメノとジンジャーは前に出て押さえる。ミントは後ろから回復優先、ルチェアは下がって待機。まだ動かないで」


「分かりましたわ!」


 返事と同時に、フレアリスが一歩踏み出す。赤い髪が風に揺れ、その横顔に浮かぶのは苛立ちと高揚の入り混じった、いつもの気位の高い笑みだった。


 彼女の前に展開された魔法陣が、空気を赤く染める。


「焼き尽くして差し上げますわ――プロ―ピング・フレア《試しの魔火》」


 放たれた炎は、最初は細かった。だが一瞬後には扇のように広がり、峡谷の入口を横薙ぎに舐めていく。熱風がノーラの頬を叩き、乾いた空気を一気に焼き上げた。先頭のゴブリンたちは逃げる暇もなく炎に包まれ、悲鳴と黒煙の中で崩れ落ちる。焦げた肉のにおいが鼻をついた。


 強い。


 見慣れた火力だが、やはり目を奪われるものがある。あの女は口が悪くて見栄っ張りで、妙に仰々しい言い回しばかり好むが、火の扱いに関してだけは本物だった。


 だが、その炎の向こうで二つの影が止まらなかった。


 赤熱した熱気の中から、岩を削って作ったかのような土色の魔物が這い出てくる。外殻に細かな亀裂が走ってはいるが、致命傷にはほど遠い。


 ノーラの目が鋭くなる。


「混ぜてきたわね」


 火に強い土系。雑魚の群れに紛れ込ませて、範囲火力を信用しすぎた瞬間を刺しにくる配置。乱暴に見えて、嫌らしいところだけはきっちり考えられている。


 フレアリスもすぐにそれを見抜いた。わずかに目を見開いたものの、次の瞬間には鼻を鳴らす。


「その程度、想定のうちですわ」


 炎の流れが変わる。


 先ほどまで面で焼き払っていた火が、今度は線となり、さらに点へと凝縮していく。熱そのものをぶつけるのではなく、弱い箇所を穿つための鋭さへ。フレアリスは杖も使わず、指先を敵へ向けた。


「バーンブレイク《熱界焦断》」


 細く走った火線が、土系魔物の肩口と膝裏を正確に撃ち抜いた。硬い外殻の継ぎ目から赤い亀裂が広がり、巨体が鈍い音を立てて崩れる。もう一体も続けざまに打ち砕かれた。


 ノーラは心の中で小さく感心する。


 派手に見えて、ただ派手なだけではない。相手の性質を一拍で読み、出力と形を変えてくるあたり、やはりフレアリスは厄介な火力役だった。


 その隙に、カルメノとジンジャーが前へ出る。


 カルメノの動きは静かだった。大柄な体格に似合わず、踏み込みに無駄がない。押し寄せてきたゴブリン隊長が何か喚きながら刃を振り上げた瞬間、槍の穂先が低く閃いた。声が終わるより先に、喉元が裂ける。返す動きでもう一体の脇腹を払う。横へ流した穂先をそのまま巻き込み、三体目の脚を払って転ばせる。


 一連の動きに迷いがなかった。


 強いというより慣れている。生きるために何度も同じことを繰り返してきた者の槍だ、とノーラは思う。


 ジンジャーもまた、前へ出た敵を堅実にさばいていく。派手さはないが、穴を作らない。仲間の動きを邪魔せず、自分の守るべき範囲を正確に押さえ続ける戦い方だった。


 前線は崩れない。


 だが、それでもノーラの胸の奥のざらつきは消えない。


 敵の数は多い。けれど決定打がない。こちらを殺しきる本気ではなく、じわじわと動きを見て楽しむような気配だけが濃い。


 嫌な汗が背中に薄くにじんだ、その時だった。


 ふいに陽が陰った。


 ノーラは反射的に顔を上げる。


 峡谷の上、切り立った岩壁の縁。空を背にして、一人の男が立っていた。


 黒いローブが風に揺れている。顔は仮面に覆われ、その白さだけが妙に浮いて見えた。背後には淡い光を放つ召喚陣が重なり、岩壁に不気味な紋様を投げかけている。


 男は、舞台の上の役者のように両手を広げた。


「いい眺めだ」


 声は高くも低くもない。むしろ落ち着いている。だからこそ、その平板さがぞっとするほど不快だった。


「橋が落ちる瞬間、商人たちの顔は実に良かった」


 仮面の向こうで笑っているのが分かる。音ではなく、言葉の湿り気で。


「荷を失う顔。商機を失う顔。ああいう絶望は何度見ても飽きない」


 ノーラの胸の内で何かが、すっと冷えた。


 怒りが燃え上がる前に、芯の方から冷たく固まっていく感覚だった。

 動機はどうでもいい。理屈も思想も知ったことではない。ただ一つ、はっきりしている。


 こいつは商売の敵だ。

 しかも、最悪の種類の。


「久々ね。会いたくなかったけどそうは言ってられなくなった。アンタの火遊びのせいで街の経済が停滞してる」


 ノーラがそう言うと、男はわずかに首を傾げた。


「それは光栄だね」


「よくもまあぬけぬけと」


「壊れゆくものは美しい。心を満たしてくれる」


 クリオはさらりと言ってのけた。


「家が崩れる。畑が踏み荒らされる。人が自分ではどうにもならないものに押し潰される。あの瞬間の顔は、実に価値がある。そうは思わないか?」


 そこで一拍置き、今度は谷の底にいるノーラたち一人一人を見下ろすように仮面を巡らせる。


「次は君たちだ」


 その声音だけが、ほんの少し楽しげに弾んだ。


「仲間が死ぬ顔。守れなかった顔。奪われる顔――もっと見せてくれ」


 ぞわり、とルチェアの肩が震えたのが分かった。ミントも息を呑んでいる。フレアリスの目には露骨な嫌悪が浮かび、カルメノは無言のまま槍を強く握り直した。


 ノーラは唇の端をほんの少しだけ吊り上げる。


「ずいぶん趣味の悪い見世物好きね」


「褒め言葉として受け取っておこう」


 クリオの背後の召喚陣が明るさを増す。


 嫌な予感が走った瞬間、峡谷の横手の空間が裂けるように歪み、中型の魔物が二体、地面へ叩き落とされた。ひときわ大きな咆哮が谷に響き、地面が揺れる。土埃が舞い上がり、視界が白く濁った。


 同時に、クリオの姿がぶれる。


 いや、ぶれたのではない。消えて、数歩ぶん離れた別の岩棚に現れたのだ。


 ショートステップ。


 異典執行局から事前に聞かされていた通りの、短距離転移。見ているだけでも腹立たしいほど滑らかな移動だった。歩くより早く、飛ぶより自然で、捕まえる側の神経を逆なでする類の逃げ方だった。


 クリオはまた位置を変える。少し離れた岩の上へ。さらに別の縁へ。まるで戦場全体を品定めするように。


 戦うためではない。


 観察するためだ。


 ノーラはそこで確信した。


 この男は、ここで決着をつけるつもりがない。自分の召喚軍がどこまで通じるか、こちらがどの順で動くか、誰が前に出て誰が守りに回るか、その癖を測っている。嫌な実験だ。相手の命も、自分の手駒も、最初から試験結果ほどにしか見ていない目つきだった。


 だが、それならそれで好都合でもある。


 逃げる気がある敵は、逃げ道に依存する。

 依存するなら、そこが綻びになる。


 ノーラは胸の内で苛立ちを押し固め、代わりに思考を冷やしていく。腹は立つ。今すぐ水魔法で顔面ごと引きずり落としてやりたい。だが、この手の相手に感情で飛びつくのは一番まずい。商談でも同じだ。嫌な相手ほど、相手の土俵に乗ったら負ける。


 見るなら見せてやればいい。

 その代わり、逃げ先ごと詰ませる。


 ノーラは軽く息を吸い、声を張った。


「フレアリス、右の中型を削って! カルメノとジンジャーは前、押し返すわよ! ミント、ルチェアを下げて!」


「了解ですわ!」


「分かった!」


 仲間が応じる中、ノーラはもう一度だけ岩壁の上の男を見上げた。


 仮面越しでも分かる。あの男はまだ余裕でいる。自分が優位だと疑っていない。


 だからこそ、そこを折る。


 ノーラは心の中だけで言い捨てた。


(好きなだけ跳びなさいよ、クリオ)


 乾いた風が、灰色の髪を揺らす。


(その代わり――次は、逃げ場のほうを先に潰す)

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