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62~黒魔術師クリオ暗躍4

 

 その日、ジルコール近郊は穏やかな天候だった。

 大きなわた雲が連なり、ゆるやかな速度でグラマニアの山を流れていく。


 時刻は昼。

 銀刻の事務所は客足はなく、昨日の夜に急遽現金が必要になり売りに来た客から買い取りした調理器具のやかん、銀のフォークにスプーン、インテリアの幾何学模様の絨毯などをノーラとルチェアが仕分けしていた。


 ピョコまマルは窓際に丸まって退屈そうに「ぴゃ……」とあくびを一つ。


「この絨毯は王都工房の品だから裏地も丁寧に仕上げてるのよ。いいお金になるわ」


 と踏み台を使い丸めた絨毯を一番上の棚に置き、ノーラが笑顔ではにかむ。


「王都工房の商品は丁寧な仕上げでお金になると……」


 まじめな顔をしながらルチェアが自分の勉強ノートに書き込み、ノーラが苦笑いをする。


 そんな平穏な銀刻の時間に強めのノックの音が響いた。


「はいはい開いてるわよ。昨日に続き、緊急の買い取り依頼かしらね」



 ドアを開け現れたのはソルトで、急いで走ってきたのか息切れをしている。




「ノーラさん。ギルドより緊急です。明日、クリオ討伐作戦を開始するので銀刻にも至急参加してほしいとのことです。以前、打ち合わせしたとおり異典も参加するそうです。詳しくはこの書簡を」




 ソルトから受け取った書簡の封は、雑に切られたように端が裂けていた。使者が途中で何度も確認したのか、あるいは届ける側に余裕がなかったのか。ノーラは立ったまま封書を開き、ざっと目を走らせる。


 短い文面だったが、そこに並ぶ単語だけで十分だった。


 橋梁半壊。街道寸断。物流停滞。緊急会議。


 最後に記された一文を読んだ瞬間、ノーラの眉間に薄くシワが寄る。


「……最悪ね」


 ルチェアが顔を上げた。


「何があったんですか?」


 ノーラはすぐには答えなかった。視線だけを窓の外へやる。昼の光は変わらず穏やかで、空にはさっきと同じように大きな雲が浮かんでいる。だが、そんなのは人の都合とは関係がない。空がどれだけ晴れていようと、橋が落ちれば荷は止まる。荷が止まれば、金の流れも止まる。


 それだけのことだ。

 それだけのことなのに、街ひとつを弱らせるには十分すぎる。


「ジルコール近郊の橋がやられたらしいわ。半壊。街道の荷馬車が通れなくなってる」


「え……」


 ルチェアの顔から血の気が引いた。


 ノーラは書簡を折りたたみ、机の上に置く。


「まだ完全に落ちたわけじゃないみたいだけど、実質は同じね。馬車が安全に通れない橋なんて、使い物にならないもの」



 言いながら、頭の中ではもう別の計算が走っていた。


 橋が止まる。

 まず青果と保存の利かない食材が遅れる。次に薬草や布、金具、雑貨が詰まる。商人は損を恐れて動きを鈍らせる。買い手は値上がりを見て財布の紐を締める。小さな商会はその皺寄せをまともに食らう。


 銀刻交易連合も、例外ではない。


 むしろ今の銀刻は小回りが利くぶん、こういう時に現場の変化を直接かぶる。昨日買い取ったやかんも絨毯も、平時なら「次にどう流すか」を考えられる品だった。だが市場が冷え込めば、買い手の目は一気に厳しくなる。良い品でも、金の巡りが悪ければ動かない。


 ノーラは奥歯を軽く噛んだ。


 動機が何であれ、クリオは商売の喉元に手をかけてきたのだ。


 それが何より腹立たしかった。


「今のままじゃ、銀刻交易連合どころかジルコール全体の経済が死ぬ」


 ぽつりと漏れたその言葉に、ソルトが小さく頷く。


「ギルドも同じ認識です。橋の付近にいた護衛たちの証言では、橋の下から召喚された魔物が一気に暴れたそうです。オーガに、ワイルドホルダー……偶発ではなく、明らかに狙ってやったと」


「でしょうね」


 ノーラは即答した。


「物を壊したいだけなら倉庫でも襲えばいい。橋を狙うのは、流れを止めたい時のやり口よ。嫌らしいけど、よく分かってる」


 ルチェアはノートを閉じ、胸の前で抱えた。


「クリオって……そこまで」


「ええ。性格が悪いだけじゃないわ。壊す場所を選んでる」


 ノーラは椅子の背に掛けていた灰色のローブを手に取る。布の重みが肩に落ちた瞬間、さっきまでの店番の空気がすっと引いた。商人の顔のままではあるが、もう「店の中の顔」ではない。


「動機はどうでもいいけど、商売の邪魔は最大の敵よ」


 それは誰に聞かせるでもない口調だったが、室内の空気を切り替えるには十分だった。


 客として雑談しに来ていたミントが奥の部屋から顔を出す。どうやらさっきのノックとソルトの声で、ただならぬ様子だけは察していたらしい。


「また面倒ごと?」


「かなりね」


「顔で分かる。あんた今、値切り交渉の時より目が据わってるわよ」


「当然でしょ。街道止められたのよ」


 ミントが肩をすくめる。


「それはまあ、怒るわね」


 ピョコマルが窓辺からぴょんと飛び降り、ルチェアの足元へ駆け寄った。何かを感じ取ったのか、丸い耳をぴんと立てて落ち着きなく尻尾を揺らしている。ルチェアはかがみ込んで抱き上げたが、その腕にもわずかな力みがあった。


 ノーラはそんな皆の顔をひとつずつ見た。


 この面子でどこまでやれるか。

 不安がないわけではない。相手はただ魔物をばら撒くだけの三流ではない。逃げ足も手口も悪辣で、しかも異典執行局がわざわざ動くほどの相手だ。


 けれど、だからこそ今回は逃がせない。


「ソルト、会議はどこ?」


「冒険者ギルドの大会議室です。異典執行局の者もすでに到着しています」


「分かった。すぐ行くわ」


 ノーラは手際よく指示を飛ばした。


「ルチェア、棚の鍵を閉めて。ミント、最低限の治療具だけ持ってきて。カルメノとジンジャーにも伝令を回したいけど……」


「それならもう呼んであります」


 ソルトが息を整えながら答える。


「ギルド側で先に動いています。二人とも会議に向かっているはずです」


「珍しく仕事が早いじゃない」


「緊急時ですから」


「毎回そうなら助かるんだけどね」


 軽口を叩いたものの、ノーラの胸の内は少しも軽くなってはいなかった。


 店を出ると、昼の街は見た目だけならいつも通りだった。石畳の上を人が行き交い、遠くで荷車の車輪が鳴り、露店の呼び込みが風に混じる。だが、耳を澄ませば空気の底にざわつきがある。立ち話をしている商人たちの声は硬く、荷受け場の方角では人の動きが妙にせわしない。まだ誰もが詳しい事情を知っているわけではない。それでも何かが起きたという気配だけは、街全体の中に漂っていた。


 角を曲がった先で、顔見知りの香辛料商が荷車の脇に立ち尽くしているのが見えた。いつもなら愛想よく手を振ってくる男が、今日は荷札を握ったまま苦い顔をしている。


「ノーラちゃん、聞いたか」


「ええ。橋でしょう」


「参ったよ。明日には入るはずの荷が宙ぶらりんだ。乾物はともかく、葉物は痛む。遅れりゃ値も崩れるし」


「まだ完全に終わったわけじゃないわ」


「そう願いたいがね」


 男はそう言って、ちらりと荷車の方を見る。

 その目に浮かぶのは怒りより先に、計算が崩れた者の疲れだった。


 ノーラは足を止めなかった。止まれば、その疲れがどこまでも伝染してきそうだったから。


 ギルドの建物に近づくにつれ、人の気配はさらに濃くなった。普段なら昼の依頼掲示板の前でたむろしている冒険者たちも、今日は妙に口数が少ない。受付の空気も張りつめていて、奥の大会議室へ続く廊下には見慣れない黒衣の人影が立っていた。


 異典執行局。


 神殿でもギルドでもない、あの独特の冷たさがある。

 装飾の少ない黒い装束、無駄のない姿勢、そして静かな圧。


 その一人が、ノーラたちを見るなり扉を開いた。


 大会議室の中は、すでに人で埋まっていた。


 ギルド関係者、護衛役、数名の商人代表。その中に、場の中心を当然のように取っている女が一人いた。異典執行局の尋語士リュシエルだ。机の上には広げられた地図、記録板、そして幾つもの印がつけられた小さな札。


 彼女が視線を上げる。


「来たわね、ノーラ」


「ええ。書簡を読んだわ。ずいぶん景気の悪い話じゃない」


「景気の話で済むうちに、片づけたいところだ」


 リュシエルは淡々と言い、地図の上に指を置いた。


「橋を襲ったのは、あなたたちも予想していた通りクリオでほぼ間違いない。魔力痕、召喚種、現場の残留ルーン、どれも一致している」


 その隣で、灰色がかった布を鼻元まで巻いた男が、机の端に置かれた石片をじっと見つめていた。目だけが異様に鋭い。虚嗅師だとノーラはすぐ分かった。


 男は唐突に口を開く。


「あの男の魔力は、焼けた血と墨の匂いがする」


 低く乾いた声だった。


「一度嗅げば忘れない。逃げても、すぐに追える」


 会議室の空気が一瞬だけ沈む。言葉の意味そのものより、その言い方が生々しかったからだ。


 リュシエルは気にした様子もなく話を続ける。


「こっちは過去の出現地点と転移痕を洗い直した。クリオは無作為に跳んでいるようでいて、実際は自分の退路を何箇所も用意している。マーキングの癖があるの」


 彼女は地図上の数点を叩いた。


「次に高確率で使うならこの辺り。峡谷手前、古い採掘場跡、南東の岩場。この三つが有力」


 ノーラは地図に身を乗り出した。


 転移の癖。退路の複数確保。どれも納得がいく。

 あの手の臆病で傲慢な手合いは、自分だけは絶対に詰まないよう盤面を作る。


「じゃあ――逃げ先ごと囲い込む、ってわけね」


「そういうこと」


 リュシエルが短く頷く。


「明日、こちらは封界杭を持ち出す。長距離転移の出口を削り、短距離転移も乱す。けれど完全に止めるには、もう一押し必要」


 そこで彼女の視線が、ノーラの後ろにいるルチェアとピョコマルへ向いた。


 ルチェアの肩がびくりと跳ねる。


 ノーラはその反応を見て、あえて軽く息を吐いた。場の空気に呑まれたままでは駄目だ。ここで必要なのは、怖がらせることではなく、自分の役割を理解させることだ。


「ルチェア」


「は、はい」


 ノーラは少しだけ声を落とし、彼女の近くへ寄った。

 ほかの者に聞こえない程度の距離で、耳打ちする。


「あなたとピョコマルが、明日の切り札になる」


「……え?」


「クリオの転移魔法は、空間情報が命綱。そこに風の乱れをぶち込む。座標を少しでも濁せれば、あいつの逃げ足は鈍る」


 ルチェアは目を丸くしたまま、腕の中のピョコマルを見る。ピョコマルも何となく話題の中心が自分だと感じたのか、「ぴゃう」と短く鳴いて耳を立てた。


 ノーラはその丸い額を指先で軽くつつく。


「前に気づいてたのよ。この子、魔力変換してただ風を起こすだけじゃない。空間魔法にも反応してる」


 言葉に合わせるように、ピョコマルがルチェアの腕からぴょんと飛び降りた。床に着地した瞬間、くるりと一回転する。するとほんの刹那、会議室の空気が薄くきしんだ。灯りの輪郭がわずかに揺れ、机上の紙がふっと震える。


 それは本当に一瞬のことで、見逃せば気のせいで終わる程度の変化だった。


 だが、ノーラは見逃さなかった。

 リュシエルも虚嗅師も、同じように目を細めている。


「……やっぱり」


 ノーラは小さく呟く。


「空間魔力にも反応するのね」


 ルチェアは不安と緊張の入り混じった顔をしていたが、その奥にごく小さな光もあった。誰かの足を引っ張らないようにではなく、自分にも出来る役目があるのだと、ようやく形になって胸へ落ちてきたような表情だった。


 ノーラはその変化を見て、少しだけ口元を和らげる。


「大丈夫。いきなり全部やれなんて言わない。けど、明日はあなたの一手が効く場面が来る」


「……はい」


「その時は、怖がる前に私の声を聞いて。いいわね?」


「はい」


 今度の返事は、さっきよりずっと芯があった。


 

 会議室のざわめきは再び地図の上へ集まっていく。討伐作戦の段取り、街道封鎖の補助、避難の伝達、橋周辺の警戒。話すべきことは山ほどある。


 それでもノーラの意識は、一度だけ窓の外へ向いた。


 穏やかな昼だった。

 雲は相変わらず山の方へ流れている。街の石畳には明るい陽が落ちている。


 なのに、その下で金の流れは今まさに詰まりかけていた。


 見えない血管に打ち込まれた楔のように、クリオという男は街の呼吸を悪くしている。


 ノーラは静かに拳を握った。


 明日は捕まえる。

 商売のためでも、街のためでも、自分の意地のためでもいい。


 あの男だけは、もう好きに跳ばせない。



閲覧いただきありがとうございます。

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