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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 その夜は特に何事もなく過ぎていき、翌朝日の出前の離れでは勘次郎が妙な儀式を行っていた。


 これまでは勘次郎の法力と妖の妖力の間で力比べをすることはあっても、それを別の場所に移して保護してやるなどということはしてこなかった。


 風呂場の片隅にあった古ぼけた手桶を拾い上げた勘次郎は、それを離れの裏にある釜焚き場の隣に設えられた大きな水瓶の影に置いて何やらブツブツと呟いていた。


「何をしてたんだい、おまえさん」


 どう見ても得心のいかないことをしている亭主に、辛抱できなくなった美祢が尋ねた。


「こりゃぁ、垢舐めの寝床だ。風呂場にあっちゃ掃除しに来た女衆が片付けちまうかもしれねぇだろ。ここなら誰の目にも付きゃしねぇ」


「なんとまぁ。妖の寝床まで拵えてやったってのかい、うちの亭主は」


「力の弱ぇ妖だ。それでも垢を舐めさせてくるならこの家の守りをするってんだから、心意気に感じたってとこだな」


「ふーん、それでまぁ、おまえさんの気持ちに折り合いが付くってんなら、あたしゃ何も言わないけどねぇ」


「じゃ、朝飯を頂戴しに行くか」


「あいよ、おまえさん」


 揃って離れから昨夜大騒ぎをした広間に戻った二人は、朝のご膳を前にして何やら話し合っているご隠居と旅籠の主に、朝の挨拶をして自分たちのご膳の前に腰を落ち着けた。


「では頂きましょうかな」


 みなで手を合わせて朝飯に箸を着けるや否や、宿の主が期待の目を向けて勘次郎に話し掛けて来た。


「ご坊様、昨夜はありがとうございました」


「何もしちゃおりませんやね。ちぃとばかり風呂場の隅で薬師真言を唱えさせてもらっただけございますよ」


「何をおっしゃいますやら。それに、今朝も朝から離れの方で何やらしておられたご様子。もう感服いたしましてございますよ」


「そんなに持ち上げられちゃ尻の据わりが悪いこって…」


 二人のやり取りを見かねて、刀自が口を挟んできたから広間の中は何やら昨夜の再現をしているような様相を呈してきた。


「それで、売薬さん、離れの風呂の方は片が付きましたか」


「はぁ、取り敢えず妖に話は付けて参りました」


「で、それはどういう風な話になりましたな」


 身を乗り出してくる刀自に苦笑を浮かべながらどう説明しようか考えていると、横合いから助け船が入った。


「亭主の申しますには、あの離れの風呂場には垢舐めと申します妖が住み着いておりましたそうな」


「なんと、妖でございますか」


 幾分顔を青ざめさせた旅籠の主が問い返すところへ美祢が更に詳しく話を続ける。


「はい。しかし、亭主の申すには性悪な妖ではないそうで、たまに風呂場の垢を少しばかり舐めさせてやれば満足するとか」


「なんと、そのようなおかしな妖がおりますのか」


 心底呆れたような顔をして刀自がそう言ったが、いかにも無害なものだというように美祢が答えた。


「えぇ。わたしもチラッと見えたのですが、それはもう純朴そうな…」


 思わず笑いが出てしまった美祢を見て、顔色を戻した宿の主が心配そうに尋ねた。


「それはやはり、手前どもが風呂場の掃除を怠ったことが元で湧いて来た妖でございましょうか」


「反対でございますよ」


 勘次郎がそう言うと、さも不思議そうな顔をして主が聞き返した。


「反対と申しますと、その…」


「垢舐めという妖は、人が風呂に入った後に残った垢を舐めとるだけの至って無害な輩でございましてね」


「はぁ、やはり手前どもの掃除が」


「いえ、垢舐めというのは元々この宿場に居ついておりましたものが、こちらの離れが気に入ったと住み着いたは良いものの、あまりに綺麗に掃除をなさるもので自分が舐めとる垢が少ないと申しておりましてね」


 そこまで話すと、堪え切れないとでも言うように刀自が吹き出してしまった。


「なんと、そのようなおかしな事がありましょうか」


「それで少しは垢を残すために、三日に一度は掃除を休んでほしいと訴えておったような次第で」


「それは、その、喜ぶべきかどうか…」


「ですからね、垢舐めが申すには、舐めとる垢を残してもらえるなら、この家の守りになると」


「なんと、妖が家の守りですと」


 隠居までが驚いて声を上げたが、誰も咎める者はいなかった。


「へい。珍しいとは申せ、全くないという話でもございませんで」


「と、申されますと」


「座敷童と申します妖は、ほんの小さな童の形をしておりましてね。その家に居つくと夜中に歩き回る程度の悪さをしますが、代わりにその家は火事を逃れるとか財を成すとか申します」


「ほぉ、変わった妖も居るもんじゃ」


「まったくで。垢舐めも邪険な事さえしなければ十分守りになってくれましょう」


「そうでしょうか…」


「そう信じてやるのが一番で、ついでに妖に悩まされなくなる方法でもあります」


「なるほどな。では、掃除を少し減らせばこの家が豊かになると」


 隠居が笑いながらそう尋ねると勘次郎は困ったような笑いを浮かべた。


「豊かになるかどうかは存じませんが、悪さをしなくなることは間違いございません」


「あの、その妖を調伏するということは出来ませんので」


 藁にも縋る思いでそう訊いた主に、勘次郎は申し訳ないと思いつつ答えた。


「調伏することは出来るでしょうが、この家の守りになるとまで言った妖を無碍にするのもどうかと思います」


「ふむ、なるほど道理じゃて。掃除の手を緩めて家の守りを得るのはなんとも妙手じゃ。これ主殿、悪いことは言わん。今までもそう恐ろしい目に遭ったという者は居らんのじゃったら、売薬殿の言うことを聞いた方がいいと思わんかな」


「はぁ…」


「それで、今朝方の事なんでございますがね」


「なんぞしなすったか、お内儀さん」


「亭主が垢舐めとやらいう妖の依り代をこさえて風呂場から離しましたので、もう風呂場でイヤな気配がすることはございませんよ」


「それは重畳。さすがは売薬さんじゃ」


「ほんにほんに。仕事の早いお方でございますことなぁ」


「では、手前どもは離れの風呂場の掃除を三日に一度止めればよいと…」


「はい。それだけでよろしゅうございますよ。ねぇ、おまえさん」


「そういうこった。それで垢舐めも納得して家の守りをしてくれるはずだ」


「ということでございまして、お分かりいただけましたか」


 冗談のような話が交わされた後、皆が朝餉を摂り終えた頃合いになって女衆が膳を下げに来た時、不思議そうな顔をして宿の主に報告をし始めた。


「今朝方水瓶に水を汲んでおくのを忘れておりましたのですが、いつの間にやら一杯になっておりまして」


「宿の横手の井戸が濁っておりましたのが、今朝は綺麗に澄んでおりまして。遠いところまで水汲みに出ずに済むようになりました」


 聞いていても細やかな恩返しだと分かる不思議な事柄に笑みを浮かべて、美祢は宿の主に言った。


「守りと申しましてもこの類の細やかなものでございますよ」


「もう恩返しが始まってしまいましたか。ならば、掃除の手を緩めるといたしますかな」












 一夜の贅沢を経験させてもらった礼にと、垢舐めをこの家の守りに据えた勘次郎は、奈良屋の隠居一行と別れて旅の足を急がせるつもりだった。


 ところが、宿の前で皆と別れの挨拶を交わす勘次郎に、旅籠の主が巾着を押し付けて来たので一悶着となってしまった。


「こんなものを頂戴するほどの働きなんぞしておりません」


「何をおっしゃいますやら。既にこの家の守りに働いてもらっておりますのはご坊様のお陰ではございませんか」


「ですから、御行でも坊主でもございません。おいらはしがない薬師如来さまの札撒きでございますよ」


「いえ、世を忍ぶ仮のお姿であることは誰にも申しません。その代わりこれだけはお受け取りいただきませんと、この家の守りにも笑われてしまいますのでな」


 散々遣り取りを交わした挙句、遂に押し切られてしまった勘次郎は、重い巾着を受け取って溜息を吐いた。


「ではまた、何かのご縁がございましたらお会いすることもございましょうが、今日はここでお別れとさせていただきます」


「ほんに名残惜しいことですが、手代の具合が良くなるまでは発つことも出来ませんのでな」


「皆様もお達者でお過ごし下さいませ」


 勘次郎と美祢は二人揃って腰を折って挨拶し、中山道へと戻って行った。


 しばらく歩いて桶川宿から抜けた辺りで美祢がしきりに巾着の中身を聞きたがったので、仕方なく勘次郎は地蔵様の脇の木の根方で一服する態を装って懐から巾着を取り出した。


「何度見ても重そうだね、それ」


「おうよ。これはいくら何でもいただき過ぎだと思うがな」


「中身、当ててみようか」


「重さも分からずに中身が当てられるものか」


「あたいを誰だと思ってるんだい。それだけ膨らんでるってことは、二十両は固いね」


「一夜の豪遊をさせてもらった上に二十両なんて大金が入ってるわけがないだろ、莫迦野郎」


「ほら、開けて見せておくれよ、おまえさん」


「おう、それじゃ、中身を拝見しましょうかね」


 そう言って巾着を逆さにした勘次郎は、中から出て来た切餅に腰を抜かしそうになった。


「なんだって切餅が四つも入ってんだよ、おまえさん」


「そんなことおいらが知るかよ」


「こりゃえらいことになっちまったね」


「なんてこったい。突き返すわけにもいかねぇやな」


「お江戸で家でも買うかい、おまえさん」


「表通りに大きな家が買えちまいそうだぜ」


 慌てて巾着に切餅を入れ直すと、勘次郎と美祢は足を速めて歩き出した。


 桶川の宿を出たのは五つを回ったかといった辺りだったが、そこから上尾、大宮、浦和、蕨と過ぎて、ついにその日のうちに八里足らずを歩き通して、七つの頃合いには板橋宿に着いてしまった。









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