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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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「ご謙遜を。奈良屋のご隠居様の難儀をお救い頂いたと伺いましたので…」


 旅籠の主は何か奥歯にものが挟まった様な物言いをした。


 ははぁ、こりゃ何かあるな、この旅籠。


 勘次郎はそう思いつつも、それが何か分からなかったが、ただ妖の類の話だろうとは想像できた。


 隠居たちの前でも薬師真言を唱えることを隠していたわけではない。


 刀自も孫娘も、薄々手代の様子がただ事ではなかったことに気付いている様子であったし、あれほど恐ろしげな声を上げていた手代が、次に見た時には正しく憑き物が落ちたかのように穏やかになっていたことに驚いていた。


 それがどのような手段でそうなったのかは分からないまでも、越中富山の売薬と名乗る目の前のこの男が何かをしたのだということだけは、信じて疑わなかった。


 そこへ、この旅籠の主の悩みをたまたま聞く機会があったので、うちの手代の命の恩人が、という話をしてみたところ、藁にも縋るような勢いで紹介してほしいと願ってきた。


 本人はたまたま持っていた薬の効き目と本人の相性が良かっただけだと、しきりに謙遜していたがそんなはずがないことは明らかだった。


 売薬の唱える真言でそれまで淀んでいた空気が一気に晴れやかになり、苦しんでいた手代も一時のこととはいえ歩けるようになったのだから、薬だけの効能でそんな風に癒えるなどと誰が信じるものかと思ってもいた。


 また一方、真言を唱えるだけで誰でもそのような効果を出せるものならば、きっと自分がそうしたとしても手代は回復したことだろう。


 しかし、現実にはあの売薬が真言を唱えた時にだけ霊験が現れたのだから、これは真言のご利益というよりやはり目の前のこの男の持つ何某かの通力が齎したと神業だと言わざるを得ない。


 ならば、と思ってこの席に旅籠の主が顔を出すことを許してみたのだが、やはりというか空とぼけている。


 内儀の方は、また厄介ごとが転がり込んできたと言わんばかりの表情だったが、決して気分を害したというわけでもなさそうだった。


「実は、手前どもの旅籠の、本日行者様とお内儀様にお入りいただいたあの内湯でございますが、あの風呂場から夜な夜な妙な気配と申しますか、声が聞こえるなどと申す奉公人がおりまして。いえ、決してウソを申すような者たちではございませんで、常日頃はまじめに仕事をしてくれております正直者なんでございますよ。それがここ最近そう申してあの離れに近づきたがりませんでして。はい。それで困っておりまして。えぇ、手前どももお客様あっての商いでございますので妙な噂が立つのもそうですが、それが人の口の端に上ってあちこちに流布されることが恐ろしいと思っておるのでございます。手前どもには加賀前田さまの御家来衆もお泊り下さるのですが、それがもうすぐそこに迫っておりまして、どうしたものかと思案に暮れておりましたところ、行者様のお泊りであると聞きつけてご無礼を承知でここに顔を出させていただいたというわけでございまして…」


 よほど溜まっていたものがあったのだろう。


 旅籠の主は一気に捲し立てると、ハッと気が付いたように勘次郎を見て平身低頭して詫びを口にした。


「これはお楽しみでございましたところをお邪魔してしまいました。重ね重ねお詫び申し上げます」


 勘次郎もさすがにこれだけ縋るような主の姿を見せられて、それを無碍にすることも出来ないと考えたところで、美祢が優し気な口調で切り出した。


「その件ならばもうご心配には及びませんよ。ねぇ、だんな様」


 いきなりそう言われて、何かあったかと考えていると、念を押すように尚も美祢が言い募った。


「ご心痛の種はこちらでお祓い申し上げますので、明日の朝もう一度お越し願えませんか」


「そ、それは誠でございますか」


「えぇ、誠も何も、だんな様にはもう薄々察しが付いておられるご様子でございますので」


「それは誠にありがとう存じます。明朝朝餉の席に今一度お邪魔させていただきますので、良しなにお願い申し上げます」


 旅籠の主はそう言うと、柏手を打って女中を呼びつけて酒と肴の追加を申し渡して、これはお支払いに含めてはなりませんよと念を押した。


 散々飲み食いをして座の者が幇間や芸者衆に至るまで良い気分になった頃、勘次郎と美祢は厠へ行くと称して座を外した。


「さっきのこの宿の主の話、お前ぇ気が付いてたのか」


「そりゃさ、あたいたちがこれから楽しもうかって時に出て来ちまったんだもの、イヤでも気が付くってもんだろ、お前さん」


「まぁな、おいらもあれを見るのは初めてだったんだけどよ、なんせあれだけ寂しそうな顔してられたんじゃ、一気に醒めちまったもんな」


「あれって、やっぱり妖なんだろ」


「そうだな」


「その割にはあんまり嫌な感じはしなかったよ」


「まぁな。ありゃ垢舐めって妖だ。風呂場に残った垢を舐めるだけの至って無害な野郎なんだがな」


「へぇ、そんな面白いのが居るんだね、妖にも」


「それにしたって、綺麗に掃除しすぎだってのには恐れ入っちまったぜ」


「ホントだね、お前さん。妖にもおこぼれを残しておけってことなんだ」


「おいらも妖の愚痴ってのを初めて聞いたんだ。驚くやら可笑しいやら」


「明日の朝、なんて言うつもりだい」


「それをこれから行って決めて来るんじゃねぇか。三日に一度は風呂掃除を休めとかってな」


 二人して笑いながら離れの内湯へ歩いて行った美祢は、本当に明かりなしですいすいと歩いて行く勘次郎に感心しながら、黙ってその袖を握っていた。


 まだ、一人で妖に相対する勇気が持てない美祢としては、勘次郎だけが頼りだったが、自分の亭主が何と言って垢舐めとかいう妖を説得するのか楽しみでもあった。


 それが人に言えない事柄だけに、自分と亭主だけの秘密が持てたような気がして、どことなく浮かれた気分でもあった。


 離れの引き戸を開け、風呂場の引き戸を開け、中に入った勘次郎はその場で合掌して薬師如来真言を静かに唱え始めた。


「決して調伏しようってんじゃないからね、安心して顔を見せとくれな」


 美祢の言葉が聞こえたのかどうか、風呂場の隅にぼうっと闇が集まったようになって、垢舐めが顔を見せた。


 自分には理解できない言葉で語り合う勘次郎と垢舐めを見て、やっぱり浮世離れした亭主だね、などと思ったがそれは黙っておいた。


「話ゃついたぜ」


 要らぬことを考えていたせいか、亭主と妖の申し合いが終わったことにも気付かず、美祢はぼうっとしたまま勘次郎の袖を握りしめていた。


「あ、あぁ。なんて言ってきたんだい」


「さっきも言った通りだ。三日に一度掃除を止めてくれれば、この家の守りを引き受けるとさ」


「そりゃまた大きなおまけが付いたもんだね」


「ま、何処までのことが出来るかは知らねぇがよ」


「そうだね。でも心意気だけは買ってやろうじゃないか」


「お前ぇもなかなか良い事言うじゃねぇか」


「あたりきしゃりきのコンコンチキさ」


「じゃ、用事も終わったし帰って寝るとするか」


「そうだね。さっきの続きもあるしさ」


「ば、莫迦野郎。そんなことでかい声で言うんじゃねぇや」


「あらあら、照れちまってさ、うちのだんな様ったらさ」













「おぉ、お帰りになられたか」


広間に顔を出して暇を告げようかとしたところ、刀自にそう言われた勘次郎と美祢は已む無くもう一度座敷に座り直して改めて礼を言った。


「本日は誠に結構なおもてなしを頂戴いたしました。女房共々酒を頂きすぎましたのでちょいと酔い覚ましにふらふらとしておりましたが、ご心配をお掛けしてしまいやしたかね」


「いえいえ、心配などとそんなこと、売薬さんには無用のことじゃでな。どこかでお内儀としっぽりと濡れて来られたかと」


「そいつは申し訳ねぇことをいたしました。いえね、ちょいとご依頼のあった風呂場を見に行っておりましただけのことでして」


「おぉ、なんと仕事の早い事。それでなんとしました」


 身を乗り出して興味津々に聞いてくる刀自の横で、孫娘が懸命に止めに入った。


「おばあさま。明日の朝になれば分かることでございましょう」


「それはそうなれど、どういう仕儀になったかと…」


「これ、婆さんや、年甲斐もなく何をしておられる」


「ほら、おじいさまもこうおっしゃっておられます。今夜はお開きにいたしましょう」


「そうですか。でも…」


「もう、言い出したらキリがないんだから、おばあさまは」


「ほんにな。ささ、売薬さんにお内儀さん、お部屋に戻ってゆっくりなさるがよろしかろう。今夜は楽しゅうござりました」


「こちらこそ、見たこともないご馳走を頂戴いたしましてありがとう存じました」


 話を聞きたがる刀自とそれを止める孫娘、そして挨拶を交わす隠居と勘次郎。


 最後までおかしな人間模様を見せながら、宴は終了した。










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