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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 手代の介抱をしつつ、勘次郎と美祢は老夫婦と孫娘の足に合わせてゆっくりと歩きながら、鴻巣宿から二里足らず、隠居たちが定宿にしている旅籠のある桶川宿に辿り着いた。


 本来の行程では、隠居一行は一気にこの桶川までを歩き通しておきたかったのだろうが、手代があの様子では無理な話で、慣れぬ旅籠で病人を抱えて難儀したであろうことは簡単に推量できた。


 こうして勘次郎のおかげで常軌を逸した行動を取っていた手代の様子も落ち着きを取り戻したというので、隠居と刀自に是非にでもと乞われて桶川宿の豪華な旅籠に宿を取る仕儀になってしまった。


 桶川宿は、宿場町の規模としてはさして大きくはなかったが、全国最大の石高を誇る加賀前田家の参勤上番に際しての定宿となる府川本陣が有り、脇本陣も二軒あった。


 前田家の参勤交代には四千人ほどの随員が行列を組んで街道を行くのが常で、本陣、脇本陣に収まり切らない高級家臣たちが使う宿として、それなりの格式を持つ旅籠が櫛比していた。


 それ故、どうぞゆるりと過ごして下されと言われはしたものの、勘次郎も美祢もこんなお大尽が泊まるような旅籠にはとんと縁が無かったから、二人揃って尻の据わりが悪いことになってしまった。


「お前さん、あたしゃこんなとこに泊まることを覚えちまったら、もう善根宿にゃ泊まれないよ」


 美祢の言うことも尤もなことだが、今夜の接待はどれほどのものかと考えると勘次郎は空恐ろしくなった。


 隠居も刀自も手代の命の恩人として勘次郎と美祢を下にも置かぬ扱いで、既に濯ぎの水で足を洗うところから自分では何もしていなかった。


 特に美祢に至っては、他人に素足を洗われるという経験に顔が真っ赤になってしまっていた。


「そりゃおいらも同じだぜ。薬師如来さまの札まき風情が覚えていい贅沢じゃねぇやな」


 そろそろ夕餉の時間ともなろうかという刻限になって、倒れた手代の代わりに一人で雇い主の荷物を担いでいた手代が二人に風呂の案内にやって来た。


「お二人一緒のご入浴の方がよろしかろうと、宿の方に小さい風呂を用意させましたので、どうぞご遠慮なくお入り下さいませ」


 そう言われて、美祢は身の置き所もないほどに恥ずかしがって見悶えた。


「ありがとうございます。身に余るご接待に恐縮しております」


 代わって勘次郎がそう答えたが、思いは美祢と同じで平気ではいられなかった。


 この時代には風呂場と雖も薄暗い行灯が灯されている程度で、風呂場の隅々ですら暗くて見えないほどであったから、勘次郎としても美祢の体をじっくりと鑑賞するには些か無理があると思っていた。


 とはいえ、女の身ではそう楽観するわけにもいかないだろうと美祢の方を見ると、あれほど見悶えていたものが既にいつもの顔に戻っていた。


 なんて尼だと思いはしたものの、枕探しで生き抜いて来た女であることを考えれば、その程度の芸当は出来て当然だともいえた。


「それはご配慮痛み入ります。ご隠居様には厚くお礼を申していたとお伝え下さいませ」


 しれっとした顔でそう答えて、勘次郎に嫣然とした笑みを送って来た。


 それを眩しそうな顔で見ていた手代は、自分が恩人の内儀の顔を不躾にも見つめていることに気が付いて、慌てて頭を下げて障子を閉めた。


 そして、障子を閉めてしまってから、隠居に礼の言葉を伝えると復唱することを忘れていたことに思い至ったが、既に後の祭りであった。


 手代が退がったのを確かめた後、やおら振り返った勘次郎は美祢に向かって渋い顔で言った。


「お前ぇが女一人で生きて来たことを忘れてたぜ」


「どういう意味だい、おまえさん」


「とんだタヌキだってことだよ」


「あら、だんな様にお褒めいただいて、うれしゅうございますわ」


「こきゃあがれ。お前ぇのつんと澄ました顔はおいらだって変な気分になるってことだよ」


「あら、それは夕餉の後のお楽しみにしておくれな」


「莫迦野郎」


「さて、湯に参りましょうか、だんな様」


「芝居がかった声出すんじゃねぇや」









 帳場で風呂の案内を頼んだ勘次郎と美祢は、旅籠の番頭の先導で奥まった所にあるこじんまりとした離れに連れて行かれた。


 周りには明かりとてなく、番頭の持つ提灯だけが唯一の光源であるせいで、ひっそりとして寂しい感じが否めなかった。


 番頭が脱衣場の行灯に火を移すと、ようやく風呂場の間取りが目に入って来たが、かなり手の込んだ瀟洒な造りであることに驚いた。


「これはまた贅を凝らしておられますな。おいらたちにゃ勿体ねぇくらいだ」


「なにをおっしゃいますやら。手前どものお得意様でございます奈良屋のご隠居様の難儀をお救い下さった大恩人とうかがっております」


「そんな大層なもんじゃねぇんですがね」


「ご隠居様の大恩人のご接待に間違いがあったとなれば、手前どもがご隠居様にお叱りを頂戴します。ささ、お気を楽になされてごゆるりと湯にお入り下さいませ」


「これは番頭さんのおっしゃる通りですよお前さん。あまりに遠慮するのも無粋というもの。今日のところはご隠居様のお気持ちを有難く頂戴しましょうか」


「お内儀様のおっしゃる通りでございますとも。ささ、どうぞごゆるりと」


 そうまで言われては、とてもこの場を辞退しきることが出来ないと判断した美祢の言葉に動かされた態で、勘次郎も渋々ながら離れの中へと身を滑り込ませた。


「お帰りの際の提灯はこちらにございますので」


 番頭の言葉にそれを確認した美祢は、懐からそっと懐紙に包んだ小粒を番頭に握らせて引き戸を閉めた。


「さても大層なご接待に預かっちまったもんだぜ」


 悪態を吐く勘次郎をよそに、美祢はするすると帯を解いて着物を脱ぎ、襦袢一枚の恰好で勘次郎に向き直った。


「いつまでそんな形でいるつもりだい、おまえさん。さっさと脱いで早くあたいのも脱がせておくれな」


 襦袢一枚の美祢に真正面から見つめられて、思わずごくりと唾を飲み込んだ勘次郎は、手早く褌一丁の恰好になって美祢の襦袢の腰紐に手を掛けた。


「優しくしとくれよ。まだ誰にも見せたことのない体なんだからさ」


「莫迦野郎。お前ぇの体はおいらが一番承知だ。黙って脱いじまいな」


 襦袢を肩から滑らせて生まれたままの姿になった美祢の美しさに、勘次郎は思わず見とれてしまった。


 こいつはこんなに綺麗な女だったんだな。


 そう感想を漏らしそうになって、自分がまだ褌を着けていることを思い出した勘次郎は、視線を美祢から外さずにさっと裸になって、湯殿の中へと女房の肩を抱いたまま入って行った。


 暗い湯殿の中でも眩しいほど白い美祢の体は見分けがついたが、勘次郎としては勿体ない思いがして脱衣場の行灯の明かりを湯殿の行灯に移した。


 さっと掛湯をした勘次郎は、自分の誘導を待って黙って立っている美祢をしゃがませて、そっと肩から湯を掛けてやり、十分に体中が濡れたところでぬか袋を使って優しく背中を擦ってやった。


「あぁ、気持ちいいよお前さん」


「随分湯に入ってなかったからな。これまでの疲れもみんな流しちまいな」


「さっきから背中ばっかり擦ってるよ、お前さん。今度は前も洗っておくれな」


「ば、莫迦野郎。今度はお前ぇがおいらを流す番だろが」


「はいはい。照れちまってさ、うちの人ったら。さ、向こうを向いておくれな。背中を流せもしないよ」













 総檜造りの風呂は思った以上に心地よく、二人きりで半時以上も風呂に入っていた勘次郎と美祢は、真っ赤に茹だって部屋に戻ったところを先ほどの番頭が待ち構えていた。


「お食事の用意が出来ております。奈良屋のご隠居様もお待ちでございますので、どうぞこちらへ」


 と、広間に連れて行かれ、二人揃って腰を抜かしそうになった。


 広間には、隠居、刀自、孫娘の膳と向かい合わせに二人分の膳が用意されていたが、そこにはこれまで見たこともない大きな鯉の甘露煮が丸ごと一尾乗った大皿を筆頭に、乙姫様に誘われた浦島太郎も斯くやというばかりの山海の珍味が並んでいた。


 席に着くなり孫娘に酌をされた勘次郎は、そのまま二杯三杯と杯を重ねて勧められるままにあれこれと料理にも箸を着けていった。


 隣を見ると、美祢も嬉しそうにあれこれと珍しい料理に舌鼓を打っているようで、夫婦して二度と味わえないと思うご馳走を堪能していった。


 そのうち、座敷に入ってきた芸者衆の掻き鳴らす三味や太鼓の音に合わせて踊りなどが披露され、まさに極楽の気分を味わっていると、つと刀自が勘次郎と美祢の間に座ってきた。


「お楽しみいただけたようで何よりでございます。お二人にお力添えを頂けなければ、我らはあの晩旅籠に泊まれたかも怪しいほどでございました故な」


「何をおっしゃいますやら。こんなことをしていただいて、これからは江戸に帰っても奈良屋さんのお店のある上野には足を向けて寝られませんやね」


「その通りでございますよ、おかみさん。このご恩は決して忘れません」


「何度も申しておりますように、それはこちらの台詞でございますよ。患っておった手代も売薬さんの処置が良かったとこちらの宿場のお医者様が申しておられました」


「それは何よりでございました。いえ、おいらのしたことなんぞはただ手持ちの薬をお分けしただけのこと。却って恐縮するばかりでして」


 互いに礼を繰り返しながら座の盛り上がりも一段落した頃合いに、この宿の主という四十がらみの男が広間に入ってきた。


「奈良屋のご隠居様刀自様、毎度ありがとう存じます」


 慣れた様子で挨拶をする主の顔が、隠居と勘次郎を何度か往復した後、視線が勘次郎に据えられた。


「こちらのお方が、霊験あらたかなお力をお持ちの御行さまでございますな」


「何をおっしゃるやら。おいらはしがない薬師如来さまの札まきと売薬を生業にする身でございます。御行さまなどと言われては身の置き所がござんせんやね」









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