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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 中仙道の起点である江戸日本橋から2里18町。


 板橋宿は京から数えて中山道最後の宿場町である。


 この宿より内側を御朱引き内と云って江戸の町とするのが幕府の考え方であった。


 開幕の頃には人口も少なく江戸の町自体が千代田の城を中心とした一帯に限られていたものが、段々と流入する人口が増えるとともに湿地や浅い海を埋め立てて陸地としていったため、どんどんと御朱引き内という概念が外へ外へと広がって行った。


 既に南北町奉行所の行政能力を超えた面積と人口を抱えていた勘次郎の住む江戸という街も、この辺りまで来るとさすがに畑が目立っていたものの、大名家の下屋敷が散見されるなどどこか長閑な中にも江戸の面影が感じられる土地であった。


 板橋宿といって街道沿いの宿場町を思い浮かべる江戸の町人は余り居らず、どちらかといえば岡場所としての認識の方が強いきらいがあり、そのため飯盛り女を抱える旅籠が数多くあり、それだけを目当てに板橋宿を訪れる男たちの数も馬鹿にならなかった。


 懐に大金を抱えた勘次郎と美祢は、なるべく目立たぬようにと若い夫婦連れを装って飯盛り旅籠から距離を置いた木賃宿に毛が生えたほどの安宿で目を覚まし、朝飯もそこそこに勘次郎の御用の目的地である深川の伝薬寺を目指して歩き出した。


 日本橋への道筋には、二代将軍秀忠公を祀る大日堂や庚申塚、そしてとげ抜き地蔵として知られる高岩寺などがあって、信仰心に篤い庶民に人気があるところでもあった。


 巣鴨を抜けた二人は本郷から神田明神、湯島聖堂の前を通り、昌平橋で神田上水を渡って神田を抜け日本橋へと辿り着いた。


 二里余りの道のりであるから美祢の足でも一刻もあれば着くところを、勘次郎があちらこちらの神社仏閣に手を合わせて行くものだから、六つ半に宿を発った二人が日本橋に着いたのは日も高くなった五つの頃合いだった。


「なんて人が多いんだい。今日はどこかの祭礼でもあるのかい、おまえさん」


「祭礼なんぞあるもんかい。日本橋といやぁお江戸でも一番賑わう場所だからな。毎日がこんなもんだぜ」


「へぇ、こりゃ驚いた。あたいなんかが一人で歩いてたら人の流れで何処へ連れてかれるか分かったもんじゃないねぇ」


「おぉ、だから言ったろ。お前ぇなんぞがふらふら歩いてたら、そのまま岡場所へ売られちまうってよ」


「ありゃぁ本当のことだったんだねぇ。くわばらくわばら」


 夫婦の掛け合いのような話をしながら、二人は日本橋から川沿いに東へ歩き、両国橋を渡ろうとしてまた人出の多さに美祢が竦んでしまった。


「お江戸の町ってのはなんでこんなに人が多いのさ。真っ直ぐ歩けやしないじゃないか」


「お前ぇが文句を言ったところで人の数が減るわけじゃなし、こういうもんだと得心するしかねぇんだよ」


「まぁ、また信濃のお山に戻っていやらしい妖に怯えてるよりはいいけどさ」


「そういうこった。さ、はぐれんじゃねぇぞ」


 そう言って、勘次郎は美祢の手を取って歩き出した。


 いきなり手を握られて美祢は顔から火が出る思いをしながらも、この人出の中で亭主とはぐれたらもう一度探し出すのは至難の業だと観念して、おとなしくされるがままに橋を渡った。


 回向院の脇を通って一ノ橋で堅川を渡り深川の地へやって来た美祢は、先ほどまでの賑わいが噓のように静かなことにもう一度驚いた。


「お江戸にもこんな静かなところがあるんだね」


「お前ぇにゃちっとばかり難しいかもしれねぇが、ここは江戸じゃねぇ」


「江戸じゃないってどういうことだい」


「さっき渡った大川を挟んで、あっち側は江戸だけどこっちは深川って場所だ」


「へぇ、道理で人が少ないはずだよ」


「ま、お前ぇにゃこっちの方が性に合うかも知れねぇな」


 六間堀、五間堀と川を渡って、美祢はとうに自分の居場所が分からなくなっていたが、勘次郎にここだと言われて顔を上げると、いくつか並んだ寺のうちの一つが山門を開けていた。


「医王山伝薬寺。覚えときな、ここがおいらの仕事場だ」


「えぇっ、あたいもここに住み込むのかい」


「莫迦言ってんじゃねぇよ。何処の寺が女を住まわすもんか」


「だろうね。だったらあたいは何処に住みゃいいんだい」


「まぁ、おいらに任せときな。帰って来たって可縁僧都様に言ってしまえば、後はおいらの勝手だ。住むところを探しに行くから待ってな」


「あいよ。でも早くしとくれよ」


 美祢を山門脇に待たせて、勘次郎は伝薬寺の住職可縁僧都に帰着の挨拶をなした。


 その際、中山道追分宿から江戸までの間に起った出来事を簡単に話して僧都の苦笑を誘った。


「おぬしもよほど妖に好かれる質じゃのぅ」


「そいつはおいらにも何とも言えませんやね」


「ふむ。他には変わったことは無かったかな」


「えぇっと、変わった事ってわけじゃねぇんですが、訳ありの女を拾いやしてね」


「ほぉ、おぬしがのぅ。で、その女子はどうしたな」


「へぇ、山門のところに待たせてありまさぁ」


「なんと、ここまで連れて来おったか」


「へぇ。なんとなく気が合うというか…」


「所帯を持ちたいと申すかな」


「おっしゃる通りでして」


「おぬしがそう言うんじゃ。なんぞ仔細がありそうじゃな」


 勘次郎は、玃という妖に魅入られていたことから妖を感じる力が育ちすぎているところまで詳細に語り、僧都のため息を誘った。


「それで、その女子を助けるために所帯を持ちたいと申すのか」


「持ちたいと申しますか、もう夫婦の契りも済ませておりやして」


「なんとのぅ。仕事の早いおぬしらしいというか、はははははは」


「で、お許しを頂けないかと」


「許すも許さんも、既に夫婦であろう」


「おっしゃる通りなんですが、一応僧都様のお許しを頂かないと寝覚めが悪いと申しますか、その…」


「もう良いわ。その女子、庫裡へ連れて参れ」


「わかりやした。でも、いきなり信濃へ帰れってのは無しですぜ」


「当り前じゃ。そのような不人情なことが出来るか」


「ありがてぇ。ちょっくら行って、庫裡へ連れて行きまさ」


 勘次郎が慌てた様子で座敷を飛び出すのを見て、この男を慌てさせるとはどれほどの女子かと、可縁僧都は好奇心を刺激された。


「また悟りの道が遠退いたかのぅ」













 急いだ様子で勘次郎が走って来るのを見て、美祢は何やら良くないことが起こったかと不安になった。


「どうしたんだい、おまえさん。そんなに慌ててさ」


「住職の可縁僧都様がお会い下さる。黙ってついて来な」


「住職様だって。そんなのなんて挨拶すりゃいいんだよ」


「そんなもん、おいらが知るか。手前ぇで何か考えやがれ」


「まったくなんて人なんだろうね」


「可縁僧都様といやぁ、徳の高いお方だ。おかしな真似さえしなけりゃなんとかなるさ」


「そうなのかい。それじゃあたいはとりあえず挨拶だけしとくよ」


 両国橋を渡った時に手を握ったことが癖になったのか、住職の前に連れて行くというのにしっかりと手を握ったまま庫裡へ歩いて行った。


 顔を真っ赤にしてされるがままに勘次郎に手を取られ、寺の脇にある建物に連れて行かれた美祢は、引き戸を開けたところに座っていた柔和な顔をした老僧に見つめられて、不思議と気分が落ち着いてくるのを感じていた。


「仲の良いことじゃのぅ」


 住職にそう言われて、勘次郎は初めて自分が美祢の手を握ったままであることに気付いた。


 そして、顔から火が出るかと思うほど赤面した。


「いつまでそうしておるのじゃ。そちらのお方がお困りじゃぞ」


 慌てて手を離した勘次郎は、ちらっと見えた美祢の顔が落ち着き払っていることに気が付いて、自分の動悸も静まって行くのを感じていた。


「ほれ、勘次郎。早う拙僧に紹介せんか」


「へ、へぇ。こいつは美祢と申しまして、信濃の山深いところにある在所の女で…」


 黙って聞いていた美祢も、しどろもどろの勘次郎が可笑しいやら情けないやらで辛抱できなくなり、ついに口を開いてしまった。


「何を訳の分からないことをくっちゃべってんだい、このすっとこどっこい」


 美祢の啖呵を聞いて目を丸くしながらも、可縁僧都はその美貌に密かに唸っていた。


 信濃の在所の生まれとはとても思えない、鄙には稀な美形であることもそうだったが、その女の纏う不思議な気がなんとも僧都の興味を惹いた。


「これは威勢のいい女子じゃの。勘次郎の相手にはこれぐらいでないとな」


「あら、あたいったらなんてはしたない真似を…」


 住職の言葉に我に返った美祢は、恥ずかしさに身の置き所のない気分になったが、目の前で自分以上に狼狽えている勘次郎を見て嫣然と微笑んだ。


「これ、なんとか言わんか、勘次郎。それだけ言われて黙っておるおぬしでもあるまいに」


「へぇ、こいつは美祢と申しまして、その、妖に魅入られそうになっておったのを、その…」


「ほぅ、妖から女子を掠め取って参ったか。そなたらしいわ。はははは」











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