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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 松井田の宿の外れにあった善根宿と違って、熊谷の宿外れのものは地蔵堂の建物が善根宿になっていた。


 地元の者でも事情を知らぬ限り、裏手に回って戸を開けることはしなかったから、善根宿の中は蜘蛛の巣が張って埃が少し積もっていた。


「さてと。それじゃ、まずは掃除から始めるかね。」


 美祢が勝手知ったる場所とでも言いたげな表情で、引き戸の横に吊るしてあった箒を手に取って勘次郎に言い掛けた。


「さぁ、埃が舞うからお前さんは外で薪でも割ってておくれな。」


「あいよ。もう完全に女房の顔だな。」


 勘次郎は笑いながらそう呟くと、引き戸の脇に積まれていた割木と鉈を持って外へ出た。


 善根宿の戸を隠すように聳える榎の根方に置いてある木の根を引き切った台を据えて、一心に薪を割り始めた。


 美祢は一旦宿の外へ出てきて、勘次郎に問いかけつつ桶と雑巾を手にして立っていた。


「おまえさん、井戸は近くにあるのかい。」


「この榎の裏側に口を開けてるよ。木枠も石垣もない野井戸だから落ちるんじゃないぞ。」


「ちょいと、よしとくれよ子供じゃあるまいし。じゃ、釣瓶はないとして何で水を汲み上げるんだい。」


「おぅ、そうだった。ちょいと待ってな。」


 勘次郎は一旦鉈を置いて善根宿の中に入り、天井に渡した竹の横から長柄杓を抜き出して美祢に渡した。


「何度も行ったり来たりしなきゃなんねぇから、天井に戻すのはここを出て行く時でいい。そん時ゃも一度おいらに言いな。」


「ありがとよ、お前さん。」


 やがて薪も割れて煮炊きの支度も整った頃、勘次郎が地蔵堂の床下から米と味噌を引き上げて美祢に渡した。


 熊谷の宿をふらついてくると言って出かけた勘次郎を気にする風もなく、美祢は米を研いで釜にあけ、水を計ってから竈に据えた。


 米が炊きあがると、今度は釜を竈から外して鍋に水を張って竈にかけた。


 味噌はあったし、勘次郎が何時ぞや渡してくれた昆布の欠片で出汁も取れたから後は具だけだったが、さて何にするかと考えた時に勘次郎がウサギを片手に下げて戻って来た。


「ほら、お前ぇは捌けるかよ、このももんじ。」


「当たり前だろ。あたいだって信濃の生まれだよ。ももんじの一つも捌けなくて女はやってられないさ。」


 信濃の国は広いが地味の痩せた土地が多く、百姓が作付けしても収穫は予想の半分も取れればいい方だった。


 その上、常に冷害に怯えての生活だったから、百姓といえども蓄えがないことの方が多かった。


 そこで、山に入って食べられるものは何でも口にする暮らしが当たり前になり、江戸で『ももんじ』と呼ばれる獣の肉も日常的に食べていた。


 小は野鼠から大は熊に至るまで、様々な獲物が獲れた信濃の山は、そういう面では人々の暮らしを支える大事な存在だった。


 だから、信濃に生まれた女は、年頃になる前からももんじの捌き方を覚えて、何種類もの調理法を身に付けていた。


 飢饉の折り、雪が続く冬、彼女たちが拵えた保存食としての干し肉が家族の命を繋いでいた。


 美祢もその範疇にあって、村はずれの共同納屋の暮らしではあったが、村の祭りなどの折々に女たちから様々な技術を伝授されていた。


 やがては、村の男と所帯を持つ女として見られていたからこその待遇だったが、それがこんなところで活かされた。


 見ている間に捌き終えたウサギの肉は、骨付きのまま味噌汁の具に、残りは味噌に付け込んで、天井に渡した竹の皮を剥いで、それに何重にも包んだ。


「見事なもんだな、お前ぇの手際はよ。」


「そのうち感謝することになるよ、いい女房を貰ったなってさ。」


「こきゃぁがれ。」


 その日の夕餉は、これまでで最も豪華なものになった。


 これでは高い銭を出して旅籠に泊まる意味がないと思ってはみたが、そもそもウサギを獲る腕がなければ出来ないのはもちろん、捌く技術を持っていなければこんな食事にはありつけない。


 元々が真っ当な仕事に就いている訳ではない二人ならでは、ということになる。


 その夜は、善根宿らしく布団などの寝具はなかったが、囲炉裏に残った熾火を囲んで、ごろ寝となった。


 するとまた、美祢が勘次郎にすり寄って行って


「寒いからさ、暖めておくれな、お前さん。」


「お前ぇは痛さが残って歩けもしなかったくせに、何言ってんだよ。」


「もう大丈夫さ。明日からはしっかり一日十里だって歩けるよ。」


「・・・・・、やっぱりだめだ。お前ぇは今夜ゆっくりと体を休めな。」


「じゃぁさ、くっついてるだけでいいからさ、抱きしめておくれな、お前さん。」


「だから、来るなって。」


「なんでだよ。」


「おいらが我慢出来なくなっちまわぁ。」






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