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隠居の呟きは尤もなことであった。
普通の旅程では、今勘次郎と美祢がいる本庄宿から三里二町先の深谷宿で泊まれば、その先は大宮で一泊するとその翌日には余裕を持って江戸に入れる。
もちろん、本庄宿からでも十分二泊の旅程で江戸に入れはするが、それでは自分の家に戻るのに多少急がねばならないことになる。
急ぎの旅でもない勘次郎と美祢にはどうでも良いことだったが、目の前の隠居夫婦に孫娘、それと手代二人の一行にはそれなりの都合があったのだろう。
仕方なく十七町もある宿場町を、旅籠を探しながら歩き始めた。
通常、旅慣れた商人であれば街道を何度も往復しているので、自然と泊まる宿場も利用する旅籠も決まって来る。
それを定宿と称して常に利用する代わりに、他の宿場の旅籠のことはとんと知らないという事が往々にしてあった。
この隠居も恐らくはその口で、深谷まで足を延ばせるものなら勝手を知った旅籠に多少の無理も言えたのだろうが、この時ばかりは病人を抱えてそうも言っていられない状況の中、まるで縁のない旅籠に厄介になることに仕方なく決めたらしい。
病人を抱えての足取りは、到底旅を行く者とは思えないほどのんびりとした歩調に変わって、懐に余裕のある一行はまず大所の旅籠に投宿することに決めたらしい。
「とりあえず、出来るだけのことはしたんだから、おいら達はこのまま先を急ぐぜ。」
「でも、大丈夫かね、あの手代。」
「まだ何か感じるかよ、あの手代から。」
「いいや。もうなんも嫌な感じはしないね。」
「じゃ、いいじゃねぇか。深谷まで三里の道のりだ、のんびりしちゃいられねぇよ。」
「あいよ。そうと決まれば急いで深谷に着いて、のんびり風呂にでも入りたいもんだね。」
「お前ぇは江戸に来たことはないのか。」
「あるもんかい。生き馬の目を抜くって言われる恐ろしい処だって聞いてるよ、あたいは。」
「ははは、違ぇねぇ。お前ぇみてぇなお上りさんがうろついてちゃ、そのまま飯盛り女に売り飛ばされて終わりだな。」
「怖いことは言いっこなしだよ。」
息の合った掛け合いを続けながら、二人は日の高いうちに深谷の宿場に着くことができた。
深谷宿は、江戸からの里程が十七里と二晩目の泊りにちょうど良い距離にある関係で、宿場町全体で八十軒の旅籠を擁し、そのうち飯盛り女を抱えているところも三十軒を下らなかった。
江戸の人間にとっての中山道はこの深谷宿から始まる、と言う剛の者も居たほど賑わいのある場所だった。
勘次郎と美祢は、ここでも安宿を探して歩き、宿場はずれにお誂え向きの木賃宿を見つけて暖簾を潜った。
「なんだい、また木賃宿かい。あたいは風呂に入れるってんで期待してたのにさ。」
「贅沢言ってんじゃねぇ。江戸へ着いたら毎朝でも銭湯へ行かせてやらぁ。あと二晩ほど我慢しな。」
「しょうがないねぇ、まったく・・・。」
木賃宿は、煮炊きに使う薪の分だけの宿賃で泊まれるのでそう言ったのだが、天下が太平になった今時では、それなりの料金を取ることの方が多い。
特に深谷宿のような大きな宿場町では、それも仕方のないことだった。
江戸からの旅人は、ここで遊び納めのつもりで飯盛り女を買っていくのだから、自分で煮炊きして飯の用意をしようなどと考える殊勝な者など居ないのだ。
勘次郎が平旅籠といえども旅籠に泊まりたがらないのは、それだけの料金が掛かるからだが、大よそ一泊二食付きで一人二百文が相場だから、それは高価なものだった。
江戸の銭湯が大人一人八文、夜泣き蕎麦が一杯十六文のご時世である。
それが木賃宿なら薪代として十二文ほど払えば済むのだから、当然と言えば当然であろう。
宿場全体が、岡場所と言ってもいいくらいの賑わいを見せる中での木賃宿だから、どうしても他と比べて見劣りがする。
畳なども茶色く変色しているのは当たり前で、障子は穴が目立つし、襖なども元は何の絵が描いてあったのか分からないほど黒ずんでいて、部屋全体に饐えた臭いが籠っていた。
元来が護摩の灰を生業としてきた美祢ですら、これには驚いた。
「今時、こんな凄い宿屋があるなんて思いもしなかったよ・・・。」
「へっ、これで驚いてちゃ江戸になんぞ住めるもんかい。」
「花のお江戸っていうけど、本当はそんなに酷い町なのかい、江戸ってさ。」
「金さえありゃ天井知らずの贅沢も出来る処だがな、おいらみてぇな貧乏人にゃこれくらいが相場ってことよ。」
「じゃ、あたいが住める長屋なんてあるのかね。」
「おぅ、もちろんじゃねぇか。お前ぇは立派なおいらの女房だろ、心配しなくてもちゃんと雨露が凌げる長屋を探してやるぜ。」
「なんだかねぇ・・・。頭が痛くなってきたよ。」
文句を言いながらも、晩飯の材料を探しに街道裏の畑へ入って、食べられそうな物を持って帰ってきた美祢は、そのまま勝手を借りて簡単な雑炊を拵えた。




