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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 夜毎、腹を空かせた赤子のか細い泣き声が聞こえる。


 赤子の声は、不思議なことに聞こえる者と聞こえない者とが居て、全く聞こえない者には静かでいいと評判が良かった。


 その代り、赤子のか細い泣き声が聞こえる客にはとんでもなく不評だった。


「どこの餓鬼がひーひー泣いてやがるんだ。とっとと行って静かにさせてきな。」


 昼間見ると本当に品の良さそうな大店の隠居然とした老爺が、赤子の泣き声が聞こえた途端に豹変して、泡を吹きそうな勢いで怒鳴りつけて来たこともあった。


「手前ぇ、わざと餓鬼ぃ泣かしてやがるんだろ。いい加減にしねぇと容赦しねぇぜ」


 担ぎ商いで六十余州を廻る太物問屋の番頭は、酒が入って赤子の声が聞こえると、まるで押し込み強盗の様に暴れ回って、部屋の中を滅茶苦茶に壊した。


「あんた、あたしの何を知ってるってんだい。こそこそ嗅ぎ回ってないで堂々と言やぁいいじゃないか。赤子を使うなんて卑怯だよ。」


 小女と手代を連れてよく泊まっていく婀娜な大年増は、赤子の声が聞こえる度に気も狂わんばかりに目を見開いて迫って来た。


「こんな仕打ちをされて黙ってる法眼の寅蔵様じゃねぇんだぜ。この落とし前はきっちり付けてやるから覚えてやがれ。」


 俳諧の宗匠の格好で時折泊まって行った中年の大男は、そう言って夜中に宿を飛び出して行った。


「手前ぇ、いい度胸じゃねぇか。こんな腐れ宿の亭主とつるんで俺を嵌める気か。」


「うるさいね、さっきから。なんであたしがこんな青瓢箪とつるまなきゃいけないってんだぃ。あんたこそあの赤子の母親と懇ろになってあたしを消す気だね。」


 家督を息子に譲った後、諸国を漫遊しながら悠々自適に遊び歩いていると言っていた旗本の隠居と刀自は、血相を変えて髪を掴み合い双方血塗れになっても離れなかった。


 皆が皆、この世のものではない赤子の声に怯えて騒ぎを起こしていったが、今になって思えばこんな安宿に泊まらねばならぬような身形の客は一人もいなかった。


 銭に困ってこの宿に泊まっているわけでもなく、払いの滞った者も居なかった。


 しかし、赤子の声が聞こえた時から、隠していた本性が表に現れたように慌て、騒ぎ、暴れ、泣いた。










 隣の布団で静かな寝息を立てる美祢を置いて、そっと部屋を抜け出した勘次郎は、厠へ行くふりをしながら縁側を通って裏庭の山桜の木の根方までやって来た。

 

 そして、山桜の根がうねって裏塀に届くかという辺りに目印をつけ、振り返って桜の下にひっそりと立つ若い女のようなものに語りかけた。


「ここに埋まってるんだな、お前ぇさんの大切な着物が。」


 若い女と見紛う白い影はひっそりと頷いて、また胸に抱いた赤子のような影をあやす仕草を繰り返した。


「で、掘り出したそいつは、どうすりゃいいんだ。」


 白い影は、赤子を抱く手をすっと真横に出し、明るくなれば小高い山が見える方向を指差した。


 その方向を確認した勘次郎は、小高い山から立ち昇る瑞気を見て取って、一言呟いた。


「なるほど、あれじゃお前ぇさんは近づけっこねぇな・・・。」


 それが勘次郎の承諾の印だと受け取った白い影は、赤子を泣かせるのを止めて、ともに姿を薄れさせ、消えて行った。


「さて、また厄介な頼まれごとをしちまったもんだぜ、まったく。」


 勘次郎は冷えた体を布団に潜り込ませようと、足音を忍ばせて部屋に戻り、一歩踏み出したところに美祢の声がした。


「裏庭で、誰と会ってたんだい。」


「ちょいとな。」


「女房にゃ言えない相手かぇ。」


「つまらねぇこと言ってんじゃねぇよ。」


「ま、いいけどさ。」


「なら寝な。明日も早いぜ。」


「あんたの声が聞こえちまったもの。明日はお寺だろ。」


「なんで・・・。」


「あんたが帰って来るちょっと前から、赤子の泣き声がしなくなってるよ。」


「お前ぇ、なかなか見所があるかもな。」


「そんなことはいいからさ。話はついたんだろ、産女とかいう妖と。」


「あ、あぁ。明るくなりゃ分かることだ。さっさと寝ときな。」


「ふん。妖とはいえ女房を置いて女と逢引とは心が穏やかじゃないね。」


「なに馬鹿なこと言ってる。」


「寂しくて一人じゃ寝られそうにないよ。置いてかれた女房としてはさ。」


「どうすりゃいいんだ。」


「そんなこと、女に言わせるのかい。」


「ふむ。」


 勘次郎が、潜り込んだ布団の片側に身を寄せると、その隙間に美祢が滑り込んで、二人の顔が近づいた。


「初めてなんだからね。」


「分かったから、おとなしくしろ。ったく・・・。」


「だって、だってさ。」


「あぁ、うるせぇ。おいらもう寝る。」









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