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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 顔色が変わっただけでなく、木賃宿の亭主は体が小刻みに震えだしていた。


 その様子はどう見ても勘次郎が言った言葉の意味を理解しているように見えたが、まるでいやいやをする子供のように、頑なに首を横に振り続けた。


「ご存じないわけでもなさそうだ。そこを見込んでちょいとお願いがございましてね。」


「ん、なんでしょう。」


 勘次郎が何を言い出すのか、全て承知しているかのように、全く気乗りしない返事をして、亭主は目を伏せた。


 恐らくはこれまでも同じようなことを言う客があったのだろう。


「旦那さん、おれっちも嬶も明日は朝が早いんだ。ちょいとあの赤子が泣き止むように母親に言って来てくんないかねぇ。」


「わ、わがりますた。ちと行って来るだで。」


 宿の亭主は、自分の言葉が訛りに戻っていることにも気付かずに、その場を逃げ出すように勘次郎の前から下がって行った。


「ちょいとおまえさん。こんな夜中に誰と話してんだい。」


「おいらはおめぇの亭主じゃねぇっつってんだろ。おまえさんなんて呼ぶんじゃねぇや。」


「おぉ、怖いこわい。照れちまってさぁ、うちの人ったら。」


 宿の者の気配が消えたのを確かめてから、勘次郎は美祢の布団の横に並べて敷かれた布団に潜り込んだ。


 そして小声で美祢に言った。


「なかなか堂に入った芝居が出来るじゃねぇか。」


「そりゃおまえさん、それくらいは出来ないと枕探しなんぞ出来ゃしないさ。」


「ふん。ところで、おめぇにも聞こえるか、赤子の泣き声。」


「あたいたちの他にゃ客はいないって言ってた割に赤子の泣き声がしてたからさ、あたいはてっきりこの家の子が夜泣きしてるもんだと思ってたよ。」


「まぁ、普通ならそうだがな。」


「なんだい、違うのかい。」


「あぁ、この宿にゃおれ達と亭主夫婦の他にゃ誰も居やしねぇ。」


「じゃ、なんだいあの声は。猫の盛りかい。」


「時期を考えろってんだ。これから梅雨に向かうってぇこの時期に、猫に盛りがつくもんか。」


「そりゃそうだねぇ。」


 美祢は尚も何かを思案していたが、お手上げの様に勘次郎に訊いた。


「ありゃ、まことの赤子の声かい。」


「ほぅ、気が付いたか。」


「えっ、どういうことだい。」


「ありゃ、妖よ。それもなかなか質の悪いな。」


「それじゃ、こんなとこに寝てたんじゃ危なかないかぃ。」


「心配しなくても、ありゃ、この宿の亭主と女房に言いたいことがあって出て来てるんだ。おいら達にゃ関係ねぇ。」


「なんだって、そんなことが分かるんだよ・・・。」


 美祢が拗ねたような怖がり方をしたのが可愛かったので、勘次郎は思わず小さく笑った。


「なんだよ、何が可笑しいんだよ。」


「可笑しくて笑ったんじゃねぇ。おめぇの仕草が可愛くてな。」


「あ、あんた、この真っ暗闇で目が見えるのかぃ。」


「おうさ。夜目も利かずに夜道は行けねぇからな。」


「なんか、あたいにゃ、あんたも化け物に見えるよ・・・」












 勘次郎と美祢が投宿した木曽屋という木賃宿は、高崎宿でも一番の安宿だった。


 そう大きくはない宿場町の中で、ほかの旅籠が軒を並べて建っているのに対して、木曽屋だけが何故か一軒だけぽつんと離れて建っていた。


 勘次郎にはその理由がなんとなく分かる気がした。


 木曽屋は旅籠としては新顔なのだろう。


 或いは、他所から流れて来て居着いた者の末裔すえなのかも知れなかった。


 とにかく、旅慣れた者ならばまずは通過してしまう高崎宿の、宿場の中心から離れた場所で細々と商う木賃宿では、そう多くの客が来るとは思えない。


 自然と他の旅籠に断られた訳有の旅人だけが利用する、使い勝手の悪い宿になってしまったのだろう。


 正直に商売をしていれば、それでも常連と呼べるような客が付いていただろうが、何代も続いた亭主の中にはそうではない者がいたとしても、不思議ではないだろう。


 たまたま、今の亭主の父親が、形に見合わぬ大それた夢を見て、行き倒れに近い旅人を引き込んで、そのまま死ぬのを待って持ち物全てを売り払って金にしていたことがあった。


 金が貯まれば宿場の真ん中に大きな旅籠を建ててやる、というのが父親の口癖だった。


 そして、いつの間にやら引き込んだ行き倒れを始末して、持ち物を奪うまでになってしまった。


 そんな折、父親の手に掛かった者の中に、身重の女がいた。


 宿の先で破水して、着物の裾を血で染めた女を見殺しにして、父親は路銀と持ち物すべてを金に換えた。


 産褥の血に塗れた着物だけは、足が付くのを恐れて裏庭に埋めたが、それから間もなくしてから、夜中に赤子の泣き声が聞こえるようになった。





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