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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 入り鉄砲に出女の例えの逆の道順を行く勘次郎と美祢にとっては、横川の関所もさして障害にはならなかった。


 江戸へ入って来る者には、無宿人や手配書の回っている悪人でも無い限り悪辣な詮議は行われなかった。


 江戸という町は特殊な生い立ちと宿命を背負ったところであった。


 神君様のご開府以来百五十年を過ぎた今でも、地方からの流入者がいないと人口を維持できなかった。


 計画都市であった性格上、建設に携わる男達が主に住み着いたが、女はついぞ住みたがらない不思議な場所だった。


 海や湿地帯を埋め立てて無理矢理陸地を造成した結果が、日がな一日羽虫が飛び回り、夕暮れ時ともなれば蚊柱が立って前が見えないほどの様相を呈した。


 蚊やりといって、何かを燃やした煙で一時的に蚊を追い払ったとしても、煙が消えるとすぐに大量の蚊に体中を刺されて、一晩中眠れないのは当たり前であった。


 また、諸国からの食い詰め浪人たちも多く流れ込んだため、治安は褒められたものではなく、女が一人で暗くなってから出歩くなどは正に自殺行為以外の何物でもなかった。


 江戸がそこに住む人間を次々に受け入れたことで、町は外へ外へと拡張されていき、さらに町奉行所の目が届かぬ闇が生まれ続けてもいた。


 江戸に住む者達がたがいに身を寄せ合って人情が厚い町だと喧伝したのは、偏にいつ櫛の歯が欠ける様に長屋の住人が消えるか分からない現実と、次から次へと入って来る地方出身者に、三代住めば江戸っ子だということで夢を抱かせる目的もあった。


 実際のところ、江戸の町の人口の約半分を占める町人たちのうち、男の占める割合は六割五分を切ることはなく、女は生まれたばかりの赤子から棺桶に足を突っ込んだような婆さんまで合わせても、男の半分しかいなかった。


 この事からも分かるように、江戸に三代続けて住むというのは、実は至難の業でしかなかったわけだ。


 裏長屋で一人ひっそりと息を引き取った者がある反面、在所を食い詰めた者達が毎日のようにやって来て、それでやっと江戸という町は成り立っていた。


 基本的にそのことに気付いていた幕府の官僚たちは、だから江戸に入って来る者には寛容であった。


 女には特にその傾向が強かったが、だからこそ女が江戸を出ることに神経を尖らせた。


 こういうことは知らないまでも、勘次郎と美祢はごく簡単な取り調べを受けて横川の関所を通過した。


 道中手形は名主の発行する場合と、代官が発行する場合と、奉行所が発行する場合と、大名家が発行する場合に大きく分けられたが、中に大寺院が発行する手形という物もあった。


  寺男 勘次郎 御用附越中医王山大薬寺より江戸へ下向之事有之。

     女房 美祢 勘次郎に同道。

  明和三年丙戌 越中医王山大薬寺門主 大谷薬堂 記之。


 勘次郎は、持っていた道中手形に美祢のくだりの一文を書き加えて、素知らぬ顔で関所を通ったのである。


 手形に決まった形式などはなく、発行者と所持者の関係が証明されればそれで充分であった。


 また、女房連れの薬売りの寺男も怪しいとは見なかった。


 2人は無事安中の関所を通過して、板鼻の宿を過ぎ、高崎の宿へと入った。


 板鼻宿は、中山道でも最大級の宿場の一つで、常に碓氷川の川止めに備えていたから、五十軒を超える旅籠が櫛比していた。


 勘次郎は、大きな宿場を常に避けていて、わざわざ板鼻宿の隣の辺鄙と言っても過言ではない高崎宿に宿を取ることに決めていた。


 高崎宿は、脇本陣一つない鄙びた宿場で、街道に面してわずか十軒あまりの旅籠が並んでいるだけだった。


 十軒ほどしかない旅籠のうちの、江戸に一番近い宿場外れの木賃宿に入り込んだ二人は、持ってきた握り飯とうぐいの塩焼きで夕餉を済ませ、早々に床に就いた。


 宿の主人は、わざわざこんな宿に、鄙には稀な美形を連れて投宿した男に興味を持って、真夜中になると二人の痴態を覗き見ようと、部屋を区切る襖を少しだけ開けて、事が始まるのを待っていた。


 そのうち、女のものと思われる囁きが聞こえて来て、いざこれからと思ったその時に、後ろからぽんと肩を叩かれて大声を上げてしまった。


「旦那さん、何か言い置くことをお忘れでしたか。」


 勘次郎のすっ呆けた口調に腹を立てながらも、亭主はなんとか平静を装って厳かに答えた。


「布団に臭いが染みついておって、寝難かろうかと案じて来てみたが、どうも杞憂じゃったようだの。」


「へい。おかげさまで女房共々ぐっすり眠っておりやした。」


「それは何よりじゃ。」


「時に旦那さん、この宿にゃ赤子を連れたお女中でもお泊りですかい。」


 勘次郎の一言に、亭主の顔色がさっと青くなったのが、暗がりの中でも分かった。




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