第9話 二度目の台風
「風速二十五メートル超えた! 船長、客船の巨体が風下に流されてます! このままだと埠頭に接触します!」
大さん橋の夜。暴風雨が叩きつけるタグボート『はまかぜ』の操舵室で、陸斗の悲鳴が響いた。
台風19号の接近に伴い、急遽決まった十万トン級の海外大型客船の緊急離岸作業。
三日前、私が海へ落とされたあの夜と全く同じ――いや、それ以上に凶悪な暴風域が横浜港を呑み込もうとしていた。
ビシビシと操舵室の窓を打つ横殴りの雨。
客船の横腹に押し当てた『はまかぜ』の船体が、押し寄せるうねりで狂ったように上下に揺れる。
「陸斗、落ち着け! ロープのテンションに目を光らせろ!」
「は、はいっ! ……ああっ、だめです! 一瞬の突風で一番曳索がまた限界値超えます! 切れます、切れちゃいますよ船長ぉっ!」
モニターの張力表示器が真っ赤に点滅し、警告音が甲高く鳴り響く。
三日前の惨劇が、陸斗の脳裏をよぎったのだろう。青ざめた顔でキャプスタンにしがみつき、腰が完全に引けている。
(チッ……パニックになりかけてやがる)
現代の操船計器は優秀だ。だが、数値だけに惑わされると、一瞬の状況変化に対応できなくなる。
私は操舵輪を強く握り締め、両目をカッと見開いた。
(計器を見るな……波を見ろ! 風を聴け!)
目を凝らす。
雨で霞む真っ暗な海面。白波の立ち方、波頭の砕け散る角度、そして船体を揺らす周期。
現代の操船技術に、江戸の漁師として六十年かけて骨の髄まで叩き込んだ「波の呼吸」が重なり合っていく。
(来る……! 風が息を吐き切ったあとの、わずか数秒の『凪の隙間』が……!)
「陸斗! 泣き言抜かしてんじゃねえ、腰を落とせっ! あと三秒で風の息が切れる! そこでお前が一気にロープを巻き揚げるんだ!」
「えっ!? 風の息……!?」
「三、二、一……今だっ! 巻き揚げろォッ!」
私の号令と同時に、狂ったように吹き荒れていた暴風が、ピタリと一瞬だけエアポケットに入ったように弱まった。
「巻けぇっ! 手前どもが踏ん張らねえで、誰がこのでっけえ船を出すってんだい! 気合入れねえか!」
「は、はいぃぃっ!」
私の怒号に背中を押された陸斗が、半狂乱になりながらレバーを叩き落とす。
一瞬緩んだ曳索が、見事なタイミングでぐぐっと巻き取られ、客船の巨体がわずかに埠頭から離れて向きを変えた。
「面舵いっぱい! 両舷全速! 押し切れぇっ!」
ガガガッとスロットルを押し込む。
『はまかぜ』のディーゼルエンジンが咆哮を上げ、スクリューが白波を巻き上げる。
風の隙間を完璧に突いた押し込みによって、大型客船の巨体は埠頭との接触を間一髪で回避し、静かに安全な沖合の航路へと押し出されていった。
「離岸……成功……! 客船、無事に離れていきます……!」
陸斗がへたり込み、操舵室の床に座り込んだ。
荒い息を吐きながらスロットルを戻すと、全身からドッと汗が吹き出してきた。
四十二歳のベテラン船長としての操船技術と、江戸時代のおしおとして培った潮の読み。そのふたつが奇跡的に噛み合った一瞬だった。
「ふう……なんとかなったかい」
額の汗を拭うと、床にへたり込んでいた陸斗が、呆然とした顔で私を見上げてきた。
「あの……響子船長……」
「なんだよ」
「『手前ども』とか『気合入れねえか』とか……船長、さっきから微妙に時代劇の江戸言葉になってましたよ? なんすか、マイブームですか?」
「あ……」
口の悪さが江戸時代に戻っていた。
照れ隠しにゴホンと咳払いをする。
「うるせえ! 必死だったんだよ!文句あるか!」
「いえ!ないです! めちゃくちゃ格好よかったです船長! やっぱり潮は戻る、なんとかなるもんですね!」
陸斗は相変わらずの呑気な笑顔で、濡れた髪を拭きながら言った。
「お前なぁ……またその口癖か。ほんと、どこでそんな能天気な言葉覚えてきたんだか」
呆れ顔で笑う私に、陸斗はタオルで頭をゴシゴシ拭きながら、ぽつりと答えた。
「あ、これですか? うちの婆ちゃんの口癖なんですよ。元町の古い家に住んでるんですけどね。『どんなに離れても、潮は必ず戻ってくるんだから慌てるな』って、小さい頃からずっと言われてて」
――時が、止まった。
エンジンのアイドリング音だけが響く操舵室で、私は陸斗の顔を固まったように見つめていた。
「……元町の……古い家……?」
「ええ。うちはひいおじいちゃんの、そのまた上の先祖の代から、ずっと元町に住み着いてる古い家系らしくて。先祖代々、港で船の仕事をしてたそうなんです」
背筋を、電気のような衝撃が駆け抜けた。
(元町……海の仕事……『潮は戻る』……)
埋め立てられたコンクリートの下に消え、どこにも証拠なんて残っていないと思っていたあの六十年。
太吉に手渡した、あの言葉。
目の前にいる、頼りなくて要領の悪いこのヘボ甲板員が。
(……太吉の……子孫……!?)




