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江戸の横浜村へ転生した女船長、二百年後に現代へ帰還する ~潮は戻り、僕らはまたあの港で出会う~  作者: gachapin2223


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10/10

第10話 潮は戻る

「……船長、本当にうちの婆ちゃん家に寄っていくんですか? ほんと、何の変哲もないボロい古民家ですよ?」


台風が去り、澄み切った秋空が広がった翌日の午後。

私は非番の陸斗を半ば強引に引っ張り出し、みなとみらい線の元町・中華街駅から坂道を上っていた。


整然と並ぶオシャレな洋服店やカフェの街並みを抜け、一本裏路地へ入る。急な坂の途中に、周囲の近代的な街並みから取り残されたように、古い木造の日本家屋がひっそりと佇んでいた。


「ここです。三浦の家」


カサついた木枠の引き戸を開けると、使い込まれた畳と線香の穏やかな香りが漂ってきた。


「おや、陸斗。急に帰ってきてどうしたんだい? そちらの方は……」


奥から腰の曲がった小柄な老婦人が現れた。陸斗の祖母、三浦ツネさん(82)だ。

上品に刻まれた目元の皺と、優しく温かな眼差し。どこか見覚えのあるその面に、私の胸はどきりと跳ね上がった。


「初めまして。陸斗の職場の上司で、タグボート船長をやっている早瀬響子と申します」

「まあまあ、陸斗がいつもお世話になっております。さあ、どうぞ上がってくださいな」


通された和室の正面には、年季の入った立派な黒檀の仏壇が鎮座していた。


お茶をいただきながら、私は抑えきれない焦燥感を抱えつつ、慎重に切り出した。


「おばあさま……陸斗から聞いたんです。三浦家は、ご先祖様の代からずっと元町にお住まいだと」

「ええ、そうなんですよ」


ツネさんは穏やかに微笑み、仏壇の方を振り返った。


「うちの家系はね、江戸の昔……いまの横浜港がまだただの貧しい泥浜だった頃から、あそこで網を引いていた漁師だったそうです。幕府の命令で浜を追われて、この元町を開墾して移り住んだのが、初代の『太吉』というご先祖様でね」


――太吉。


その名を他人の口から聞いた瞬間、全身の血が逆流するような衝撃が走った。


「太吉さんは……どんな方だったのですか?」

「浜を奪われたときは、随分と悔しがったそうですよ。でもね、ご先祖様は決して海を恨まなかった。開港してからは運送船の船頭になって、死ぬまでこの横浜の海で船に乗り続けたそうです」


ツネさんはそう言うと、立ち上がり、仏壇のいちばん深い引き出しから小さな桐の箱を取り出してきた。


「実はね……我が家には、太吉さんが肌身離さず持っていたという、代々の家宝がありましてね」


そっと開けられた桐箱の中。

絹の布に包まれていたのは――すり減り、ちりめんの生地はすっかり色あせ、擦り切れた小さな錦嚢だった。


「これを見せていただけますか……?」


震える指先で、お守りを手に取る。

布越しに伝わる、確かな木片の感触。


紐をほどき、中身を手のひらに滑り出させた。


そこにあったのは、流木を拙い刃物で削って作った、手のひらサイズの小さな木彫りの船。

二〇〇年前、二十一歳のおしおが、泣きじゃくる太吉に「潮は戻る」と言って渡した――手作りの『船霊のお守り』だった。


(……太吉……っ!!)


あの日、私が手渡したお守りだ。

太吉が一生肌身離さず持ち歩き、その子孫たちが二〇〇年もの間、大切に大切に受け継いできた証が、いま私の手の中にある。


埋め立てられたコンクリートの下に消え、幻だったのかもしれないと諦めかけていたあの六十年。

私の生きてきた証は、消えてなんか孤立していなかった。

この小さな木彫りの船の中に、三浦家の血脈の中に、確かに生き続けていたのだ。


「おばあさま……このお守りには、どんな意味が……?」


声が震え、涙で視界が歪むのを必死で耐えながら尋ねた。


「太吉さんはね、小さい頃に嵐で身寄りを無くして、浜の『船長』と呼ばれる凄いお姉さんに拾われて育ったそうです。そのお姉さんが渡してくれたのが、このお守りだったと」


ツネさんは懐かしそうに目を細めた。


「『潮は戻る』という言葉もね、そのお姉さんから教わった言葉だそうです。……引いた潮は、地球を巡って必ずまたこの浜に満ちて戻ってくる。だから、去っていく者も、立ち退かされた想いも、いつか必ずこの港へ戻ってくるんだと」


「……っ」


「先祖の太吉さんは、その言葉を胸に、生涯そのお姉さんを深く尊敬し、船に乗り続けたそうです。だからうちの家ではね、代々言い聞かせるんですよ。『潮は戻る。どんなに離れても、最後は大切な場所へ戻ってくるんだ』って」


横で聞いていた陸斗が「へえ、そんな由来があったんだ……」と感心したように呟いている。


視界が、完全に涙で濡れた。

ポタリ、ポタリと、お守りを握りしめる私の膝の上に雫が落ちる。


「えっ……船長!? なんで泣いてるんですか!?」

「バカ……っ、泣いてなんかねえよ……っ!」


言葉にならない溢れる想いが、胸を突き上げて破裂しそうだった。


『あたしは太吉の先祖だよ』

『あたしが、お前が尊敬するその船長なんだよ』


そう叫び出したい衝動が口元まで込み上げた。


けれど――私は言わなかった。

言えるはずがなかった。


二〇〇年の時を超えて、太吉が遺してくれたこの温かな言葉と教えは、三浦家という家族の誇りとして美しく完結しているのだから。


私が名乗る必要なんてない。

いま、私の目の前で、太吉の血を引く陸斗がたくましい船乗りになろうとしていて、私が育てた「潮は戻る」という言葉が、この青年の背中を支えている。


それだけで――それだけで、私の二度の人生は、おしおとしての六十年は、完璧に報われたのだ。


私は手の中のお守りを愛おしそうに擦り、静かに桐箱へと戻した。


涙を袖でゴシゴシと拭い、深呼吸をする。

そして、ツネさんと陸斗に向かって、心からの満面の笑みを向けた。


「……本当に、本当に素晴らしいお話ですね。いい言葉です……『潮は戻る』」


二〇〇年遅れで、私はようやく自分のホーム港へ帰港できたのだと、胸の奥で静かに噛み締めていた。

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