第7話 帰港
明治十七年(1884年)、冬。
元町の高台にある小さな家で、私は横たわっていた。
六十年近く生きた「おしお」としての身体はすっかり衰え、息を吸うのすら重い。
だが、私の視線の先にある窓からは、まばゆいばかりの光景が見えていた。
かつて泥と砂州しかなかったあの浜は、今や巨大な石造りの埠頭となり、無数の蒸気船が煙を上げて佇んでいる。赤レンガの倉庫が立ち並び、異国の人々が行き交い、汽笛の音が絶え間なく空へと溶けていく。
撃てと言われた海が、世界を温かく迎える港になった。
「……船長」
枕元で、私を呼ぶ声があった。
四十歳を過ぎ、髭をたくわえた立派な海の男となった太吉だった。
太吉はいま、横浜港で誰よりも腕の立つ運送船の頭として、外国船と対等に渡り合っている。あの日拾った震える孤児は、この港の復興と発展を支える逞しい大黒柱になっていた。
「太吉……港は……どうだ?」
「大繁栄ですよ、船長。今日もイギリスの大型蒸気船が無事に離岸しました。……俺が、完璧な操船で導いてやりましたよ」
太吉はそう言うと、懐からすり減った小さな木彫りの船――あの日渡した「船霊のお守り」を取り出し、愛おしそうに握りしめた。
「お姉ちゃん……船長が教えてくれた通りだった。この浜を追われた時は悔しくて死にそうだったけど……俺たちの浜は、本当に世界一の港になったよ」
太吉の瞳から、ボロボロと大きな涙がこぼれ落ちる。
「俺に海の生き方を教えてくれて……ありがとう、船長」
胸が、熱く打ち震えた。
(ああ……そうか。あたしがこの時代に送られたのは……この景色を見るため、この子を育てるためだったんだな)
四十二歳で命を落としかけた私が、二百年前の横浜で手に入れた二度目の人生。泥にまみれ、過酷な時代を泥臭く生抜いてきたすべての時間が、いま鮮やかに結びついた気がした。
満足だった。悔いは何一つない。
「……太吉……ヨーソロー……だ……」
かすれる声で最後の号令を告げると、太吉の泣き叫ぶ声を遠くに聴きながら、私の意識は温かな光の中へと溶けていった。
◇
「――船長! 響子船長! 目を覚ましてください!」
ハッと息を吹き返した。
消毒液の強い匂い。心電図の規則的な電子音。天井には蛍光灯。
視界が明瞭になるにつれ、自分の手に点滴の針が刺さっているのが見えた。
「……りく、と……?」
「船長っ! よかった……! 意識が戻ったんだ……!」
パイプ椅子から跳ね上がったのは、作業着姿の三浦陸斗だった。目元を真っ赤に腫らし、涙と鼻水で顔をグチャグチャにしている。
「あたしは……どれくらい……」
「三日です! 台風の夜、海に落ちてから……ずっと意識が戻らなくて……俺、俺……っ!」
たった三日。
あの六十年におよぶ泥臭い日々、弥兵衛さんとの暮らし、太吉を育て上げた一生は、たった三日間の夢だったというのか。
胸の中に、途方案ない喪失感と孤独が押し寄せる。あまりの落差に、言葉が出てこない。
「……船長、お腹空いてますよね!? 何か買ってきます! 何がいいですか!?」
「……シウマイ弁当」
「えっ!?」
「崎陽軒のシウマイ弁当だ……それ以外、食いたくねえ……」
「病み上がりにシウマイ弁当ですか!? 相変わらず無茶言いますね船長は!」
呆れ顔で病室を飛び出していく陸斗の背中を見送りながら、私は体を起こし、病室の窓枠に手をかけた。
カーテンを開ける。
そこに広がっていたのは――夜の横浜港だった。
巨大なベイブリッジが漆黒の海に光の橋を架け、みなとみらいのビル群が宝石箱をひっくり返したように眩しく輝いている。大さん橋には数千人が乗る超大型客船が接岸し、色とりどりの明かりを海面に映し出していた。
埋め立てられた泥浜の上にそびえ立つ、二〇二六年の横浜。
「……あはっ……」
自然と笑みがこぼれ、次の瞬間、目からポロポロと涙が溢れ出していた。
夢なんかじゃない。
あたしが太吉と一緒に見上げたあの暗い海が、あたしたちが立ち退いたあの浜が、本当にこんなにも眩しい、世界一の港になったのだ。
自分が愛し、人生を捧げた町の未来が、いま目の前で輝いている。
私は溢れる涙を濡れた袖で拭いもせず、夜の港を愛おしく見つめ続けた。




