第6話 浜を追われる日
安政六年(1859年)、初夏。
横浜村に、雷が落ちたような通達が突きつけられた。
「……浜を、明け渡せだと!?」
弥兵衛の作業小屋に集まった漁師たちの間に、血を吐くような怒号が響き渡った。
幕府の役人がもたらした命は苛烈だった。日米修好通商条約に基づき、この横浜村を開港場として整備するため、村人全員を別の場所――元村(現在の元町)の開墾地へ強制移住させるというのだ。
「冗談じゃねえ! ここは俺たちが代々網を引いてきた浜だぞ!」
「先祖代々の墓も、お前たちの勝手で埋め立てる気か!?」
とりわけ激しく食ってかかったのは、二十五歳になった太吉だった。
真っ赤に顔を叩きつけ、役人の前で拳を握りしめている。
「俺は嫌だ! この浜を追い出されたら、俺たちはどこで船を出せばいいんだ! 外人のために俺たちの海を奪うなんて許せるか!」
太吉の叫びは、住み慣れた家と海を追われる村人全員の悲鳴だった。
村は一触即発の乱闘前夜のような殺気立つ空気に包まれた。
だが、役人たちが去った後、私は荒い息をつく太吉の肩を静かに叩いた。
「太吉。荷物をまとめな」
「……お姉ちゃん!? 正気かよ! あんたまで幕府の言うことを聞くのか!? この浜は俺とお姉ちゃんが出会った場所だぞ! ここで船に乗ってきたんだぞ!」
怒りと悲しみで涙を浮かべる太吉に、私はまっすぐ視線を合わせた。
「怒るな。あたしだって、この浜が愛おしいよ」
四十二歳のタグボート船長として生きていた頃、私が見ていた「横浜港」は、一面のコンクリートと巨大な埠頭だった。
だが、この六十年近くをおしおとして過ごし、泥にまみれ、網を引き、潮風を吸って暮らしてきたこの砂州こそが、私にとっても本当の「我が家」になっていたのだ。
ここが消えるのは、私だって身を切られるように辛い。
「じゃあ、なんで……!」
「立ち退くのは、海を捨てるためじゃない。この浜が、生まれ変わるためさ」
「生まれ変わる……?」
私は太吉を連れ、浜辺の小高くなった丘――後に開港資料館が建つことになる、あの玉楠の木のそばへ向かった。
風が吹き抜ける。沖合では、すでに幕府の手によって埋め立ての杭が打ち込まれ始めていた。
「よく見な、太吉。いまはただの貧しい泥浜だ。けどね、ここにあたしたちの代わりに異国の巨大な船が何百隻もやってくる。世界中の国から、見たこともない物や人が押し寄せてくるんだ」
私は現代の記憶――ベイブリッジを仰ぎ、客船が行き交い、世界中から人々が笑顔で集う未来の横浜の景色を思い浮かべていた。
「ここはな、世界一の港になる。撃てと言われた黒船を、今度は温かく迎える港になるんだ。あたしたちが浜を譲ることで、その未来が始まるんだよ」
太吉は絶句し、広大な海を見つめた。
「世界一の……港……」
「ああ。だから太吉、泣くな。船乗りなら胸を張れ」
私は懐から、ちりめんの端切れで縫った小さな袋を取り出した。中に入っているのは、私が浜の流木を削って作った、手のひらサイズの小さな木彫りの船――船霊のお守りだ。
「これを持っていきな」
「船長……これ……」
「どこへ行っても、どんな船に乗っても、お前は海の男だ。そしてね……覚えておきな。『潮は戻る』って言葉を」
「潮は、戻る……?」
私はにっこりと笑ってみせた。
「海に流し出された潮はな、地球をぐるりと回って、必ずまたこの浜に戻ってくる。引いた潮は、必ず満ちて戻るんだ。今日この浜を去っていくあたしたちも、いつか……形を変えて、巡り巡ってこの港に戻ってくるさ。だから、お別れじゃない」
太吉はお守りを両手で強く握りしめ、ボロボロと涙をこぼしながら、何度も、何度も頷いた。
「……はい! はい、船長……っ!」
◇
安政六年六月二日。横浜港が正式に開港した。
村人たちは浜を後にし、元町へと移り住んだ。
かつての静かな漁村は瞬く間に姿を消し、巨大な波止場が築かれ、蒸気船の吐き出す黒煙が空を覆うようになっていった。
時代の激流の中、太吉は元町から港へ通い、やがて開港したばかりの港で小さな運送船を動かす船乗りとなった。
そして――時の流れは、誰にも止められない。
明治の足音が、すぐそこまで近づいていた。




