第5話 黒船を測る女
翌、安政元年(1854年)春。
黒煙を噴き上げる黒船の艦隊が、再び武蔵国横浜沖にその威容を現した。
ペリー提督率いる九隻の艦船が、ぞろぞろと幕府のお膝元である江戸湾深くまで侵入してきたのだ。横浜村の浜辺には突如として幕府の応接所が設置され、村の象徴である大きな玉楠の木の周りは、武装した旗本や与力、同心たちでごった返していた。
「ひぃ、あんなでかい鉄の化け物が海に浮いてるなんて……」
「世の終わりだ、お終いなんだ……!」
村人たちは腰を抜かし、ひれ伏して拝んだり、着の身着のままで逃げ出そうとしたりの大パニックだった。そりゃそうだ。木造の小舟しか見たことがない江戸時代の人々にとって、蒸気外輪フリゲート艦なんて未知のエイリアン兵器も同然である。
だが、私の反応は違った。
(うっわ……! マジで生の外輪蒸気船じゃん! すっげぇ……っ!)
七歳の皮をかぶっていた頃からの「船乗り病」が爆発した。
村人が怯えて物陰に隠れる中、私ひとりだけが浜辺の最前線までズンズン進み出で、目を輝かせて黒船を凝視した。
(旗艦は……ポーハタンかサスケハナか? 全長はおよそ八十メートル超、幅十四メートルってところか。あの水面下の沈み具合から察するに、排水量は二千四百トン級、喫水は五メートル弱だな……)
プロのタグボート船長としての眼光が光る。
(なるほどねぇ、あの両脇の外輪で推力を稼いでるわけだ。小回りは利きそうにないが、あの巨体で風を無視して進めるんだから、当時の人間からすりゃ魔法に見えるわな。……ただ、あの喫水じゃ浅瀬の多いこの浜の奥までは入ってこれねえよ。曳航するタグボートもないのに無茶しやがって)
つい腕組みをして「ふむふむ」と深く頷いていると、ふと背後から冷たい気配を感じた。
「……おい、そこの女」
振り向くと、両刀を差した幕府の与力と、袴姿の役人たちが刀の柄に手をかけた状態で私をぎろりと睨みつけていた。
「は、はい?」
「貴様……先ほどからあの異国船を睨みつけ、なにやら『きっすい』だの『はいすいりょう』だのと怪しげな言葉を呟いていたな? なぜ一見ただけであの巨船の寸法や深さが分かるのだ!?」
「あ」
「答えよ! 貴様、異国のあやしき間者だなッ!?」
チャキッ、と刀が半分鞘から抜ける音がした。
(やべっ、職業病でスペックを目測して口に出してた……!)
「あ、いや! 間者じゃないです! ただの浜の女です! ほら、あたし魚の目利きが得意で、大きなクジラとかも見慣れてるから、ついクジラの大きさを測るノリで言っちゃって――」
「問答無用! 捕縛せよ!」
「待ってください!役人様!」
絶体絶命の危機に割り込んできたのは、二十歳になった太吉だった。
太吉は役人たちの前に平伏し、必死に頭をこすりつけた。
「申し訳ございません! この姉は、幼い頃に高熱を出して以来、船のことになると少し頭がおかしくなってしまう病持ちでして! お許しください、決して怪しい者ではございません!」
「頭がおかしく……っておい太吉、余計な尾ヒレ背ヒレを広げるな!」
「船長、黙っててください!」
太吉の必死の平伏と、村長格の弥兵衛が小判……ではなく立派な初鰹を役人に差し出して平謝りしたおかげで、なんとか「頭の可哀想な船狂いの女」としてお咎めなしで解放されたのだった。
◇
その日の夜。
波の音が静かに響く浜辺で、私と太吉は並んで座っていた。
暗い沖合には、ペリー艦隊の錨地を示す点々とした灯りが浮かんでいる。まるで海の上に小さな街が現れたかのようだった。
「……すげえや」
太吉が、ぽつりと漏らした。
その瞳には、恐怖ではなく、夜の海に浮かぶ黒船の灯りが眩しそうに映り込んでいた。
「あんなに大きくて、風がなくても煙を吐いて走る船があるんだな……。お姉ちゃん、いや、船長。世界は……俺たちの知らない海は、あんなに広いのか?」
「ああ、広いよ。あたしたちが漕いでる和船なんて、池の上のアメンボみたいなもんさ」
私は笑って、太吉の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「すごいなあ……。俺、いつかあんな大きな船に乗ってみたい。この狭い村を出て、世界の果てまで行ってみたいよ」
太吉の言葉は、幕末の志士たちが抱いた憧れそのものだった。
江戸時代の小さな漁村で生まれ育った少年が、初めて「外の世界」を目にした瞬間の輝き。
(ああ、そうか……。この港が開くことで、こういう奴らが未来へ羽ばたいていくんだな)
私は現代の知識を持つ者として、そしてこの子の「船長」として、優しく言い聞かせた。
「乗れるさ。太吉、お前なら絶対に乗れる」
「本当か?」
「ああ。この浜はな、もうすぐ世界中の船が集まる、世界一の港になるんだから」
私の言葉に、太吉は嬉しそうに「はいっ、船長!」と力強く返事をした。
――しかし、夢を膨らませる私たちに、時代の変化は容赦なく「立ち退き」という形で襲いかかることになるのだった。




