第3話 子どもの天気予報
「明日は大漁祈願で総出だな! 沖の深場まで網を打つぞ!」
弥兵衛の一声に、浜で作業していた男たちが「おうっ!」と威勢のいい声を張り上げた。
文政九年(1826年)、秋。
夕暮れの浜辺は活気に満ちていたが、私の心は冷や汗で冷え切っていた。
(正気かよ……。あの雲と波を見て、明日の早朝に沖へ出ようってのか?)
西の空の低層にはねっとりと赤黒い積乱雲。
そして何より、浜に寄せる波の「間隔」だ。普段なら五秒間隔で砕ける波が、いまは十秒以上の長い周期でゆったりと打ち寄せている。うねりの長周期化――遥か沖合で巨大な低気圧が発生し、波だけが先行して押し寄せてきている典型的なサインだ。
「おい、叔父貴たち! 明日の船出はやめときな! 沖はドカンと荒れるよ!」
我慢できずに叫ぶと、網を補修していた若い漁師たちが吹き出した。
「ハハハ! おいおい、船霊憑きのおしおちゃんがまた何か言ってるぞ」
「空はこんなに晴れてるじゃねえか。夕焼けの翌日は晴れって相場が決まってんだよ」
「子どものおままごと天気予報に付き合ってちゃ、飯の種がなくなるぜ」
(くっそ……! やっぱり七歳の子どもの言うことなんて、端から聞いちゃくれねえか!)
現代ならレーダーも雨雲アメダスもある。だが、この時代の漁師たちは経験と勘がすべてだ。いくら四十二歳のベテラン船長の知識があっても、見た目がちんちくりんの女児じゃ説得力ゼロである。
だが、このまま黙っていれば、明日の朝、村の男たちが沖で嵐に呑まれる。
私は弥兵衛の作業小屋へ走り込んだ。
「弥兵衛さん! 話を聞いてくれ!」
「おしお、どうした。息を切らせて」
「明日、沖に出ちゃダメだ! 風が急に変波する。北東から南東に回って、一気に強風が吹き荒れるんだ!」
「……風が回る? なぜそんなことが分かると言うんだ」
弥兵衛は煙管をくわえたまま、珍しく真面目な顔で私を見下ろした。
私は小屋の床に指で丸を描き、必死に説明した。
「沖のうねりのピッチ……いや、波の間隔が長くなってる! それに上空の雲と下の風向きが逆だ。沖合に強烈な……低気圧……」
「テイ……キアツ?」
「あ、いや! 『ひくい・きあつ』……じゃなくて! 空の気が重たく渦を巻いて、嵐を引き寄せてるんだよ!」
思わず現代用語を口にして誤魔化したが、弥兵衛の目は笑っていなかった。
「お前……本当にただの七歳か?」
「……あたしは、海のことなら何でも知ってるんだ。波の音を聞けば分かる。弥兵衛さん、あたしを信じて! お願いだから船を止めさせて!」
私の目をじっと見つめていた弥兵衛は、やがて紫煙をふうっと吐き出し、立ち上がった。
「……分かった。明日のうちの組の出漁は見送る」
「えっ、本当にか!?」
「ああ。だが、他の組や隣村には止めようがねえ。お前の言葉を信じるのは、わし一人の賭けだ」
翌朝。
空は嫌になるほどの快晴だった。
「弥兵衛の旦那も焼きが回ったな」「おしおの戯言に惑わされやがって」と、出漁を見合わせた弥兵衛組を嘲笑しながら、隣村の船や他の組の船団が威勢よく沖へと漕ぎ出していった。
しかし――正午を過ぎた頃だった。
急激に空が暗転した。
まるで黒墨をひっくり返したような暗雲が立ち込め、突風が浜を殴りつける。北東だった風が一瞬で南東の暴風へと跳ね上がり、海は白波を立てて荒れ狂い始めた。
「嵐だ! 大嵐が来たぞーっ!」
「沖の船を引き揚げさせろ! 急げ!」
浜は大混乱に陥った。
沖に出た船団はパニックになり、命からがら網を捨てて浜へ逃げ帰ってきた。破船や転覆こそ免れたものの、多くの船が櫓を折られ、命からがら這い上がってくる惨状となった。
ただ一組、弥兵衛の船だけが、痛手一つ負わずに浜に引き揚げられたままであった。
暴風雨が吹き荒れる中、濡れた浜辺で佇む私を、漁師たちが戦慄の眼差しで見つめていた。
「ほんとうに……嵐が来やがった……」
「おしおの言った通りだ……風が南東に回った……」
「あの子……やっぱり本物の船霊様が憑いてるんじゃ……」
嘲笑は消え去り、畏怖と感謝の入り混じった視線が私に集まる。
「船霊憑きのおしお」の言葉は、この日を境に、横浜村で絶対的な重みを持つようになったのだった。
――そして嵐が過ぎ去った、翌朝。
引き潮の浜辺を散歩していた私は、沖の砂州に引っかかっている「異物」を目にして足を止めた。
「……なんだ、あれ?」
そこには、激しい嵐でへし折れた帆柱と、ボロボロに損壊した一隻の見知らぬ難破船が打ち上げられていた。




