第2話 船霊憑きの子
「――おい、おしお! 息を吹き返したぞ! 弥兵衛さま、おしおの目が開きました!」
だみ声と、焦げ付いた藁の匂い。
次に鼻をついたのは、強烈な生の魚の生臭さだった。
(……どこだ、ここ……? 病院……じゃないな?)
まぶたが異様に重い。体を起こそうとするが、まるで手足が自分のものじゃないみたいに短く、軽い。
「おお、おしお! よかった……波にさらわれた時はどうなることかと……」
覗き込んできたのは、日に焼け、深く刻まれた皺と塩みを帯びた髭を蓄えた、四十過ぎほどの男だ。頭頂部を剃り上げた、見事なチョンマゲを結っている。
時代劇の撮影現場……なわけがない。
私が寝かされていたのは、畳すら敷かれていない土間の上の筵だった。天井を見上げれば、煤けた茅葺き屋根。柱は潮風に晒されて黒ずんでいる。
「……誰だ、あんた」
声を出して、自分の喉を疑った。
カサついた、高く甲高い幼子の声。
「何を寝ぼけておる。お前の父親代わりの弥兵衛だ。三日前に浜で波にさらわれてから、ずっと熱を出しておったのだぞ」
弥兵衛。網元。
頭の中で、自分のものではない「記憶」と、四十ニ年間タグボート船長として生きてきた「自分」が、激しく混ざり合っていく。
今の私の名は「おしお」。文政九年――西暦で言えば1826年。
ここは武蔵国橘樹郡、横浜村。
頭を抱えた。
四十二歳のタグボート船長・早瀬響子は、台風の夜に海へ落ちて死んだ。そして二百年前の、小さな貧しい漁村の七歳の少女として生まれ変わって……いや、「目を覚まして」しまったのだ。
外へ出ると、潮風が吹き抜けた。
絶句した。
そこには、私の知る横浜の姿など一欠片もなかった。
ベイブリッジも、みなとみらいの高層ビル群も、大さん橋もない。
あるのは、弓なりに続く細長い砂州と、そこに肩を寄せ合うように建つ百戸ほどの茅葺き屋根。沖には木造の押し送り船が浮かび、浜辺では着物の裾をまくり上げた男たちが地引き網を引いている。
(まじかよ……埋め立てられる前の、生の横浜浜かよ……)
「おーい! 網が重いぞ! 掛け声合わせろ!」
浜で男たちが威勢よく網を引いている。だが、息が合っていないせいで船が傾き、網が斜めに引きずられていた。
船乗りとしての職業病が、考えるより先に口を動かす。
「おいヘボ共! 何やってんだ! 右舷が下がってんだろ! 面舵いっぱい、両舷前進――じゃなくて、右をもっと引けぇ!」
幼い喉から張り上げた大音量に、浜の男たちが一斉に動きを止め、こちらを振り返った。
「……あ? いま、おしおが何か叫んだぞ?」
「りょうげん……めんかじ……? なんだそのお経みたいな言葉は」
「おいおい、あの子、高熱で船霊様にでも憑かれたんじゃねえか?」
男たちが引きつった顔でヒソヒソと囁き合う。
(しまった……っ!)
つい現代の操船用語を叫んでしまった。四十二歳のサバサバした船長癖が抜けきっていない。
「船霊憑きのおしお」
その日から、村で私はそう呼ばれるようになった。
中身はベテラン船長、見た目は七歳の女児。あまりのギャップに頭を抱えつつも、私はこの江戸時代の横浜村で生きるしかなかった。
――そして、目覚めてから数日が過ぎた、ある夕暮れ時のこと。
弥兵衛たちが明日の大漁を祈って網の手入れをしている時、私はふと空を見上げた。
西の空が、ねっとりと赤黒く濁っている。
上空の雲の流れと、下層の風向きが逆だ。沖から届く波の周期が、わずかに長くなっている。
(……嫌な雲だな)
タグボートで何百回と見てきた、強烈な局地的大荒れ――スコール、あるいは急激な低気圧の発達を示す前兆だった。




