第1話 曳索が切れる夜
「おい陸斗! 遊んでんじゃねえ、一番ロープ張れ! 弛んでんだよ!」
大さん橋の夜を破る風音をつんざいて、私は怒鳴り散らしていた。
横浜港、秋の台風前夜。沖から吹き寄せる湿った風が、タグボート『はまかぜ』の操舵室を揺らす。
目と鼻の先に聳え立っているのは、全高数十メートルにおよぶ巨大な海外大型客船だ。ビル群が丸ごと海に浮かんでいるような威容。その巨体を無事に離岸させ、安全な沖合まで導くのが、私たちタグボート船長の仕事である。
「は、はいっ! 張ります、すぐ張ります船長!」
甲板で、新人の三浦陸斗(24)が濡れたキャプスタン(巻上機)にしがみつきながらパニックになっている。
ロープの手さばきはお世辞にも褒められたものじゃない。腰が引けているせいで力が伝わらず、太い太い極太ナイロン製の曳索が重たく海面を打っていた。
「もたもたするな! 船体に引っ張られたら持ってかれるぞ!」
「あ、あのっ、大丈夫です! 潮は戻るって言いますし、落ち着けばなんとかなりますからっ!」
「潮のせいにしてんじゃねえ! 自分の手元見ろ手元!」
陸斗の口癖だ。何かミスをするたび、彼の祖母譲りだとかいう「潮は戻るって言いますし」という能天気なフレーズを吐く。
要領が悪く、すぐ慌てる。腕は確かな私の船に乗せてやるには、あと三年は修業が必要なひよっこだ。
(まったく……度胸だけは買ってやりたいんだがね)
私は操舵輪を握り直し、両舷のエンジンレバーを微調整する。
御年四十二歳。この横浜港でタグボートを動かして二十年になる。腕っぷしと口の悪さなら誰にも負けない。潮の匂いとディーゼルオイルの煙の中で生きてきた自負があった。
その時だった。
ピシッ、と不吉な高音が夜の海に響く。
「――響子船長! 曳索がっ!」
陸斗の悲鳴のような声。
次の瞬間、突風が客船の船体を大きく押し煽った。膨大な重量が逆方向に引っ張り合い、張りつめていた太い曳索が一瞬で限界を迎える。
ブチィンッ!!
鞭を振るったような爆音が弾けた。
断裂した曳索の破片が狂ったように跳ね上がる。
「陸斗、伏せろっ!」
私は操舵室の扉を蹴り開け、咄嗟に甲板へ飛び出していた。パニックで固まっている陸斗の首根っこを掴み、力任せにデッキへ叩きつける。
直後、弾け飛んだロープの塊が操舵室のガラスを砕き、私の側頭部をかすめた。
視界が強烈にグラリと揺れる。
足場を失う。手すりを掴もうとした指先は虚空を切り、私の体はあっけなく『はまかぜ』の甲板を離れていた。
「船長――っ!?」
頭上で響く陸斗の叫び声。
それが、急速に遠ざかっていく。
どぶんっ。
冷たい闇が、私を飲み込んだ。
台風の荒波が容赦なく身を揉み、重い作業服が水を吸って体を底へと引きずり落ちていく。息が続かない。海水が鼻と喉を焼き、意識が急速に遠のいていく。
(……ヘボ甲板員を残して、こんなところで死ねるかよ……)
もがこうとするのに、手足に力が入らない。
四十二年の人生。横浜の港とともに生きてきた私の意識は、黒い海の底へ静かに沈んでいった。
――ざざん。
波の音が聞こえる。
だが、おかしい。
ディーゼルエンジンの重低音も、客船の汽笛も、大さん橋の喧噪も消えている。
聞こえるのは、ただただ静かな、打ち寄せては返す純粋な潮の音だけ。
聞き覚えのない、けれどどこか懐かしい波の音に包まれながら、私は深い闇の向こうへと落ちていった。
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