4話 異世界で初めてのお買い物
馬車に乗せてもらい、街へ向かう雷牙。
今回は、この世界のお金や暮らしについて少しずつ知っていきます。
ガタゴトと規則的な音を立てながら、馬車は街道を進んでいた。
俺は荷台の端に腰を下ろし、ゆっくりと後ろへ流れていく景色を眺めていた。ついさっきまで自分の足で歩いていた草原が、今ではずいぶん遠くまで見渡せる。
歩いているときにはあまり意識していなかったが、馬車は思っていたよりも速い。
もっとも、乗り心地がいいかと聞かれれば、素直に頷くことはできないのだが。
「馬車って、こんなに揺れるんだな……」
舗装されていない道を木製の車輪で走っているのだから、当然といえば当然なのだろう。地面の凹凸を乗り越えるたびに荷台が大きく揺れ、その振動が尻へ直接伝わってくる。
遊園地にも馬車を模した乗り物はあったけれど、あれとはまるで違う。そもそも、こちらはアトラクションではなく本物なのだから、比べる方がおかしいか。
「ん? なんか言ったか?」
御者台に座っていた男が、こちらを振り返った。
「あ、いえ。何でもないです」
「そうか?」
男は不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は気にしなかった。
そういえば、俺はまだこの人の名前すら知らない。向こうも俺の名前を知らないはずだ。
「あの」
「おう?」
「まだ自己紹介してませんでしたよね。俺、一ノ瀬雷牙っていいます」
「イチノセ……ライガ?」
男は確かめるように俺の名前を繰り返した。
「変わった名前だな」
「やっぱりそうですよね」
「やっぱり?」
「あっ……いや、俺の故郷では普通なんです」
危ない。
何気なく会話していると、つい余計なことまで口にしてしまいそうになる。
「そうなのか。まあ、遠いところから来たって言ってたもんな」
「はい。ものすごく遠いところから」
「だから、どこなんだよ」
「それは……」
答えられるわけがない。
俺はこの世界の国名どころか、地名すら一つも知らないのだ。適当にそれらしい名前を考えたところで、そんな場所は存在しないと言われたら終わりだ。
だからといって、「別の世界から転生してきました」なんて正直に話して信じてもらえるとも思えない。
「……ちょっと説明するのが難しいところです」
「なんだそりゃ」
男は呆れたように笑った。
「まあ、言いたくねえ事情があるなら無理には聞かねえよ。俺はガルドだ。見ての通り、あちこちの街や村を回って商売してる」
「商人なんですね」
「行商人ってやつだな」
ガルドさんが親指で荷台を指した。
改めて見回してみれば、俺の周囲にはいくつもの木箱や麻袋が積み上げられている。何が入っているのか分からないものも多いが、食べ物らしき匂いがする袋もあった。
「食い物に日用品、村で仕入れた素材なんかもある。街で売れそうなものなら、大体なんでも扱ってるな」
「へえ……」
この世界にも商人がいて、物を仕入れ、それを別の場所で売って生活している。
考えてみれば当たり前のことだ。魔法があろうが魔物がいようが、そこで暮らしている人たちには日常がある。
そんなことを考えていると、ガルドさんがちらりとこちらを見た。
「それにしても、さっきから気になってたんだが、その服はなんなんだ?」
「これですか?」
俺は自分の制服を見下ろした。
「俺の故郷で着ていた服ですけど」
「やっぱりそうか。ずいぶん変わった服だな」
ガルドさんは馬を操りながらも、何度か俺の制服へ視線を向けている。
「生地も見たことねえし、縫い方も妙に細けえ。相当腕のいい職人が作ったんじゃねえか?」
「いや、普通に売ってる服ですけど……」
「これが普通?」
「俺の故郷では、ですけど」
「……お前の故郷、本当にどんなところなんだ?」
「俺も説明できる気がしなくなってきました」
日本では、特別珍しいものでもなかった学校指定の制服だ。俺自身、今までこの服の縫い目がどうなっているかなんて気にしたことすらない。
それがこの世界の人から見ると、かなり上等な服に見えるらしい。
「それ、売ったら結構な値段になると思うぞ」
「これが?」
「ああ。俺は服が専門じゃねえから正確な値段までは分からんが、生地だけでも欲しがる奴はいるだろうな」
「へえ……」
思わず制服を見下ろす。
売れば金になる。
今の俺にとって、その言葉はかなり魅力的だった。
なにしろ、この世界で使えるお金を一枚も持っていない。これから宿に泊まるにしても、食事をするにしても、金は必要になる。
だったら制服を売ってしまえば、当面の生活費くらいにはなるかもしれない。
そう考えたのに、不思議と「売ります」という言葉は出てこなかった。
俺は制服の袖を指でつまむ。
この制服を着て、毎日学校へ通っていた。
友達とくだらない話をしたり、授業中に眠気と戦ったり、放課後に遊びに行ったりした。朝になれば母さんに早くしなさいと急かされ、帰ってきて適当に脱いだままにして怒られたこともある。
そのときは、ただの制服だった。
毎日着るのが当たり前で、大切なものだなんて一度も思ったことがなかった。
けれど、もう二度とあの世界へ戻れない今となっては違う。
この制服は、俺があの世界で高校生として生きていた証の一つだ。
「……これは売らないです」
「ん?」
「制服は売りません」
「そうなのか? 金、持ってねえんだろ?」
「はい。でも……これは持っておきたいです」
ガルドさんは少しだけ俺の顔を見た。
「大事な服なのか?」
「……そうですね」
俺は小さく笑った。
「今となっては、かなり大事です」
「そうか」
ガルドさんはそれ以上何も聞かなかった。
「だったら売らねえ方がいい。金なんざ別の方法でも稼げるからな」
「ありがとうございます」
「俺に礼を言うことじゃねえだろ」
ガルドさんは笑いながら前を向いた。
この人は、たぶんいい人なんだろう。
異世界へ来て最初に出会ったのがガルドさんだったのは、かなり運が良かったのかもしれない。もしかすると、これも女神様からもらった加護のおかげだったりするのだろうか。
「ところでガルドさん」
「おう」
「この先にある街って、どんなところなんです?」
「リーベルのことか?」
「リーベル?」
「ああ。俺たちが今向かってる街の名前だ」
「なるほど……リーベル」
初めて知った、この世界の地名だった。
忘れないように頭の中で何度か繰り返す。
「王都ほどじゃねえが、この辺じゃ一番大きな街だな。周りの村から商人も集まるし、冒険者も多い。冒険者ギルドもあるぞ」
「冒険者ギルド!」
思わず身を乗り出した。
「うおっ! なんだよ急に!」
「あ、すみません!」
「そんなに冒険者ギルドが珍しいのか?」
「俺の故郷にはなかったので」
「冒険者もいねえのか?」
「いませんね」
「……やっぱり変わったところだな」
その評価については、もう否定しないことにした。
「冒険者って、やっぱり魔物を倒したりする人たちですよね?」
「それだけじゃねえぞ。魔物の討伐もするが、護衛や素材採取なんかもやる。金さえ払えば、ギルドを通して色んな仕事を頼める」
「へえ……」
冒険者という存在は、俺が想像していたものと大きくは違わないらしい。
魔物に冒険者、それに冒険者ギルド。
聞けば聞くほど、本当に異世界へ来たのだと実感する。
そんなことを考えていた、そのときだった。
ぐぅぅぅ……。
腹の虫が盛大に鳴いた。
俺とガルドさんの間に、なんとも言えない沈黙が流れる。
「腹減ってんのか?」
「……はい」
「飯は?」
「持ってないです」
「金は?」
「使えるものは一枚も」
「お前、本当にどうやってここまで来たんだよ……」
「俺も知りたいです」
正確には、女神様に聞きたい。
魔物に襲われたら大変だ、毒を受けたら大変だ、病気になったら大変だと、あれだけ大量のスキルをくれたというのに、食料と生活費については完全に忘れている。
女神様らしいといえば、女神様らしいのだが。
「しょうがねえな。そこの茶色い袋、開けてみろ」
「これですか?」
「ああ」
言われた通りに袋を開いてみると、中には丸いパンがいくつか入っていた。
「一個食っていいぞ」
「えっ、でもこれ、売り物じゃないんですか?」
「一個くらい構わねえよ」
「いや、お金は……」
そこまで言ってから、自分で気づいた。
俺には、この世界で使えるお金がない。
「だから食えって」
「……ありがとうございます」
ここまで言ってくれているのだから、断り続ける方が失礼だろう。
俺はパンを一つ手に取ると、ありがたく一口かじった。
「硬っ!」
「ははは! そりゃ保存用だからな」
想像していた以上に硬かった。
日本で食べていたふわふわのパンとはまるで違う。それでも噛んでいるうちに、小麦らしい素朴な甘みが口の中に広がっていった。
「でも、美味しいです」
「腹減ってりゃ大抵のもんは美味いさ」
「それはそうかもしれません」
異世界へ来て初めての食事が、行商人にもらった硬いパン。
華やかさなんてまるでないけれど、なんだか俺らしい気もした。
「そういえば」
パンを食べながら、俺はふと思ったことを尋ねる。
「この辺りのお金って、どんなものなんです?」
「本当に知らねえのか?」
「故郷とは違うので」
「そういうこともあるのかねぇ……」
ガルドさんは不思議そうな顔をしながら、腰に下げていた革袋を手に取った。
中から何枚かの硬貨を取り出して、俺に見せてくれる。
「まず、これが鉄貨。その上が銅貨で、次が銀貨だ」
見せてもらった硬貨は、それぞれ色も大きさも違っていた。鉄貨は黒っぽく、銅貨は赤茶色で、銀貨は名前の通り銀色をしている。
「鉄貨十枚で銅貨一枚。銅貨十枚で銀貨一枚だ」
「そこまでは十枚ずつなんですね」
「ああ。ただし、銀貨から上は違う。銀貨百枚で金貨一枚だ」
「百枚?」
思っていたより一気に桁が上がった。
「その上も百枚ずつだ。金貨百枚で白金貨一枚、白金貨百枚で黒金貨一枚になる」
「黒金貨……」
「まあ、普通に暮らしてる分には、まず使わねえよ。大商会や貴族が大きな取引をするときに出てくるような金だ。俺だって黒金貨なんざ滅多に見ねえ」
「なるほど」
鉄貨から銀貨までは十枚で一つ上。その先は百枚で一つ上になるらしい。
途中から桁が変わるとはいえ、規則自体は単純なので覚えるのは難しくなさそうだ。
ただ、貨幣の種類と交換比率が分かったところで、それぞれがどれくらいの価値なのかまでは分からない。
「このパンって、いくらくらいなんです?」
「保存用だから銅貨二枚くらいだな。普通のパンなら鉄貨七、八枚から銅貨一枚くらいだ」
「じゃあ、宿は?」
「安宿なら一泊銅貨八枚くらいだな。飯付きなら銀貨一枚くらい見といた方がいい」
「なるほど……」
俺はパンをかじりながら、頭の中で教えてもらった物価を整理していく。
日本とこの世界では物の価値が違う以上、そのまま日本円へ置き換えることはできない。それでも、自分の中で大まかな基準を作っておいた方が買い物をするときに困らないだろう。
普通のパンが鉄貨七、八枚から銅貨一枚程度。それなら、鉄貨一枚を十円くらいの感覚で考えておけば分かりやすそうだ。
そうすると銅貨一枚がおよそ百円、銀貨一枚が千円くらいになる。
そして、銀貨から先は一気に桁が跳ね上がる。銀貨百枚で金貨一枚なのだから、俺の感覚に無理やり当てはめれば金貨一枚は十万円。白金貨一枚なら一千万円で、黒金貨ともなれば十億円だ。
「……黒金貨って、とんでもないな」
「だから言っただろ。普通に暮らしてりゃ、まず使わねえって」
ガルドさんが呆れたように笑う。
確かに、そんな金額の硬貨を日常生活で使う場面なんて想像できない。
とはいえ、今考えた日本円での金額は、あくまで俺が理解しやすくするための目安にすぎない。この世界では物によって価値も違うだろうし、日本と同じ感覚で考えすぎない方がいいだろう。
「よし。これなら覚えられそうです」
「早いな」
「仕組み自体は単純ですから」
「まあ、それはそうだな」
問題は、仕組みを覚えたところで俺がその硬貨を一枚も持っていないことだった。
俺はポケットから財布を取り出す。
中には千円札が数枚と、小銭が入っている。日本なら普通に使えるけれど、ここではただの紙と見慣れない金属にしかならないだろう。
「……無一文か」
「それがお前の故郷の金か?」
「はい」
試しに百円玉を一枚取り出して見せると、ガルドさんは興味深そうに受け取った。
「なんだこれ。妙に綺麗な硬貨だな」
「やっぱり使えませんよね?」
「少なくとも俺は見たことねえな。しかし、こんな細かい模様をどうやって入れてるんだ?」
「どうやってって言われても……」
俺も知らない。
今まで百円玉の製造方法なんて気にしたこともなかった。
「これも物好きに見せたら買うかもしれねえぞ」
「うーん……」
返してもらった百円玉を財布へしまう。
使えないのは困るけれど、できれば日本円は残しておきたい。金としての価値がなくても、これも俺が日本にいた証の一つだからだ。
そこで、ポケットにもう一つ入っていたものを思い出した。
「あ」
「どうした?」
「じゃあ、これはどうです?」
取り出したのは一枚のハンカチだった。
特別高級なものではない。
日本ならどこにでも売っている、ごく普通のハンカチだ。
「手を拭く布か?」
「はい。ハンカチって呼んでました」
「ちょっと見せてみろ」
俺はガルドさんへハンカチを渡した。
最初は何気なく受け取ったガルドさんだったが、生地に触れた途端、その表情が少し変わった。
「……なんだ、この布」
「え?」
「ずいぶん薄いのに、しっかりしてんな。それに織り目がやけに細かい」
「そんなに珍しいですか?」
「珍しいっつうか……こんなに均一な布、俺は見たことねえぞ」
ガルドさんはハンカチを裏返し、端の縫い目まで確認している。
「ここもすげえな。縫い目がほとんど同じ間隔じゃねえか」
「俺のところだと普通なんですけど」
「お前の故郷の『普通』が、だんだん怖くなってきたぞ」
「そんなこと言われても……」
俺にとっては、本当に普通のハンカチなのだ。
「これなら売れると思います?」
「間違いなく売れる。服ほどの値は付かねえだろうが、今のお前なら十分な足しになると思うぞ」
「それなら……」
俺は少し考えてから、ハンカチを見る。
制服や財布、スマートフォンとは違う。
もちろん、これだって元の世界から持ってきたものではある。けれど、ハンカチ一枚まで何が何でも残しておきたいとは思わない。
今は、この世界で生きていくためのお金が必要なのだ。
「これ、売ってみます」
「なら、リーベルに知り合いの服屋がある。そこに持っていけばいい」
「そこまでしてもらっていいんですか?」
「ここまで乗せてきたんだ。ついでだよ」
「ガルドさん、かなり親切ですね」
「なんだよ、気持ち悪いな」
「褒めたのに!?」
ガルドさんが豪快に笑う。
俺もつられて笑ってしまった。
それからもしばらく馬車に揺られながら、この世界について色々と教えてもらった。
人間以外にも獣人やドワーフ、エルフなどが暮らしていること。魔物は街の外では決して珍しい存在ではないこと。そして魔法を使える人間も、それなりに存在しているらしい。
「ドラゴンもいるんですか?」
「いるぞ」
「本当に!?」
「なんで嬉しそうなんだよ。出会ったら普通は逃げるぞ」
「いや、さすがに戦いたくはないですけど……遠くからなら見てみたいというか」
「命知らずだな、お前」
「遠くからですよ?」
「ドラゴンの『遠く』を甘く見ない方がいいぞ」
「……覚えておきます」
どうやら俺が想像している以上に危険らしい。
それでも、一度くらいは見てみたいと思ってしまう。
そんな話をしているうちに、街道を行き交う人の数が少しずつ増えてきた。
荷物を積んだ馬車や、剣を腰に下げた人。大きな杖を持ったローブ姿の人までいる。
そして、その中に明らかに人間とは違う姿をした女性を見つけた。
「……え?」
思わず二度見する。
女性の頭には、三角形の獣のような耳が生えていた。さらに腰の辺りからは尻尾まで伸びている。
「ガルドさん、あの人……」
「ああ。猫系の獣人だな」
「獣人……」
本当にいる。
女神様から話は聞いていたけれど、実際に見るのとはまるで違う。
「お前、獣人まで珍しいのか?」
「珍しいですよ」
「本当にどんなところから来たんだよ……」
「ものすごく遠いところです」
「それはもう聞いた」
ガルドさんが呆れたように笑った。
そのときだった。
「ほら、見えてきたぞ」
「え?」
「リーベルだ」
ガルドさんが前方を指差す。
俺もそちらへ顔を向けた。
「……おお」
思わず声が漏れた。
遠くに巨大な城壁が見える。
高い石造りの壁が左右へどこまでも伸び、その中央には大きな門が設けられていた。門の前には何台もの馬車や大勢の人々が列を作っている。
「あれがリーベル……」
「ああ」
近づくにつれて、周囲がどんどん賑やかになっていく。
商人たちの声、馬の鳴き声、荷車の車輪が地面を転がる音。そして門を守る兵士たちの声。
俺が知っている街とは、何もかもが違っていた。
門で簡単な確認を受けたあと、俺はガルドさんの馬車と一緒にリーベルへ入った。
門の向こうに広がっていた光景を目にした瞬間、思わず足を止めそうになる。
「うわ……」
石造りや木造の建物が道の両側に並び、店先では商人たちが大きな声で客を呼び込んでいる。
人間だけではない。
獣人もいれば、俺よりずっと背が低いのに、やけにがっしりした体格の人もいる。剣を背負った冒険者らしき人が歩き、その隣をローブ姿の女性が歩いていた。
どこからか、肉を焼いているような美味しそうな匂いまで漂ってくる。
「すげぇ……」
「さっきからそればっかりだな」
「だって、全部初めて見るんですよ」
「どんな田舎ならリーベルでそこまで感動できるんだよ」
ガルドさんには、完全にとんでもない田舎者だと思われているらしい。
「それで、服屋だったな」
「お願いします」
「このまま馬車で行けるところまで行くぞ」
街の中をしばらく進み、ガルドさんは一軒の店の前で馬車を止めた。
店先には色々な服が並べられている。看板に書かれているのは、当然ながら見たことのない文字だった。
けれど、不思議なことに意味は分かる。
「服飾店……」
これも【言語理解】のおかげなのだろう。
「ここだ。店主とは昔からの知り合いでな」
ガルドさんと一緒に店へ入る。
「いらっしゃ――って、なんだガルドかい」
店の奥から出てきたのは、恰幅のいい中年の女性だった。
「なんだとはご挨拶だな」
「あんたが来るときは、たいてい面倒な話を持ってくるからね」
「今日は客を連れてきただけだ」
「客?」
女性の視線が俺へ向いた。
そして、その視線がすぐに制服で止まる。
「……なんだい、その服」
「ほらな」
ガルドさんが笑った。
「俺も最初は同じ反応したよ」
「この子、どこかの貴族かい?」
「違います!」
思わず即答してしまった。
「貴族じゃないです。普通の……」
高校生です、と言いかけてやめる。
「普通の人です」
「その服で普通って言われてもねぇ……」
店主は興味深そうに俺の制服を見ている。
「まあ、今日はそっちを売りに来たんじゃねえ。雷牙、さっきのを見せてやれ」
「あ、はい」
俺はポケットからハンカチを取り出し、店主へ差し出した。
「これを買い取ってもらえないかなと思って」
「どれどれ……」
店主は何気なく受け取った。
しかし、生地を指でなぞった瞬間、その表情が変わった。
「……ちょっと待ちな」
光へ透かし、今度は端の縫い目を確認する。さっきまでの気軽な雰囲気が消え、職人のような真剣な目になっていた。
「なんだい、この織り方……」
「やっぱり珍しいんですか?」
「珍しいなんてもんじゃないよ。ここまで細かく均一に織った布なんて、そうそう作れるもんじゃない。それに、この端の処理も妙に綺麗だ」
「そんなに……」
俺は改めてハンカチを見る。
どう見ても普通だ。
百貨店の高級品というわけでもない。それなのに、この世界では価値がある。
「どこの職人が作ったんだい?」
「えーっと……」
知らない。
そもそも、どこで買ったハンカチだっただろう。
「故郷で買ったものです」
「また故郷か」
横からガルドさんが笑った。
「それで、買い取ってもらえますか?」
「そうだねぇ……」
店主はしばらくハンカチを眺めていた。
布としては小さい。それでも、この世界では珍しいほど細かな織りと縫製が施されているらしい。
やがて店主はハンカチを丁寧に畳むと、俺を見た。
「銀貨二十枚でどうだい?」
「……二十枚?」
思わず聞き返した。
銀貨一枚を千円くらいの感覚で考えるなら、銀貨二十枚はおよそ二万円になる。
「これ一枚で、そんなにするんですか?」
「あたしが買うのは、ただの手拭いとしてじゃないからね」
店主はもう一度ハンカチを広げ、端の縫い目を指でなぞった。
「これと同じものを作れるとは思ってないさ。でも、布の織り方にしろ、この縫い方にしろ、腕のいい職人に見せるだけでも価値がある。見本として買うなら、そのくらい出しても惜しくないよ」
「なるほど……」
そう言われると、少しだけ納得できた。
日本ではどこにでもある普通のハンカチが、この世界では職人が研究するための見本になる。
俺にとっての価値と、この世界の人にとっての価値は同じではないのだ。
「売ります」
「決まりだね」
店主は革袋から銀貨を取り出し、数えながら俺の前へ並べていった。
十枚。そして、もう十枚。
合計二十枚の銀貨が、俺の手に渡る。
手のひらに乗せた硬貨を眺めていると、不思議な気分になった。
日本では大した値段もしなかったハンカチが、今では俺がこの世界で生活を始めるための資金になっている。
「ありがとうございます」
「こっちこそ。また変わった布があったら持ってきな」
「さすがに、もうないと思います」
「その服なら、もっと高く買うよ?」
店主が俺の制服を見る。
俺は制服の袖を軽く握った。
「これは売りません」
今度は迷わず答えられた。
「そうかい。なら、大切にしな」
「はい」
店主も、それ以上は何も言わなかった。
「あ、それと」
俺は店内に並んでいる服を見る。
「この辺りで普通に着られてる服って、いくらくらいですか?」
「男物なら上下で銀貨二枚からだね。多少まともなものなら銀貨三枚もあれば十分だよ」
「じゃあ、銀貨三枚くらいのでお願いします」
「毎度あり」
さっそく手に入れた銀貨の中から三枚を店主へ渡す。
残ったのは銀貨十七枚。
飯付きの安宿が一泊銀貨一枚くらいだと聞いたばかりだから、無駄遣いさえしなければ、すぐに路頭に迷うようなことはなさそうだ。
そう考えると、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
とはいえ、これからずっと銀貨十七枚だけで暮らしていけるわけではない。
この世界で生きていく以上、いずれは自分で金を稼ぐ方法を見つけなければならないだろう。
選んでもらった服を持ち、店の奥にある試着用の場所へ入った。
制服の上着を脱ぐ。
シャツにも手をかけたところで、俺の手が止まった。
脱いだ制服を見る。
もう、この制服を着て学校へ行くことはない。
朝のホームルームに遅れそうになって走ることも、友達と教室でくだらない話をすることもない。父さんや母さんのいる家へ、この格好で帰ることもない。
そう考えると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
俺は死んだ。
それはもう、どうしようもない。
だから新しい人生を生きると決めた。
でも、それと今までの人生を忘れることは別だ。
「……今までありがとな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
俺は制服を丁寧に畳んだ。
売らない。
捨てるつもりもない。
大切に持っていけばいい。
【無限収納】を意識すると、目の前の空間がわずかに揺らぎ、畳んだ制服がその中へ吸い込まれるように消えていった。
これなら持ち歩いている間に汚れることもない。
いつか、また見たくなったときに取り出せばいい。
俺は代わりに、この世界で買った服へ袖を通した。
日本の服と比べれば少し生地が硬く、ごわついている。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
着替えを終え、店先へ戻る。
「どうですか?」
俺の姿を見たガルドさんが、何度か頷いた。
「おお。やっと普通になったな」
「さっきまで普通じゃなかったんですか?」
「その格好で街を歩いたら、十人中十人がお前を見るぞ」
「そんなに!?」
「その服なら、少なくとも変な目では見られねえよ」
店主も俺を上から下まで確認して頷いた。
「悪くないね。サイズもちょうどよさそうだ」
「ありがとうございます」
俺は残った銀貨十七枚が入った革袋を手に取った。
この世界へ来た直後は、本当に一文無しだった。それを考えれば、当面の生活費を確保できただけでも大きな前進だろう。
けれど、これはハンカチを売って偶然手に入れた金だ。
いつまでも元の世界から持ってきた物を売って暮らすわけにはいかないし、そもそも売ってもいいと思える物がいくつもあるわけではない。
これから先、この世界で生活していくためには、俺自身が働いて金を稼がなければならない。
「ガルドさん」
「ん?」
「本当にありがとうございました。馬車にも乗せてもらって、パンまでいただいて、店まで紹介してもらって」
「気にすんな。たまたま通り道だっただけだ」
「それでもです」
俺が頭を下げると、ガルドさんは少し困ったように頭を掻いた。
「律儀な奴だな、お前」
「よく言われます」
「本当か?」
「…………たぶん」
「たぶんかよ」
二人で笑った。
知り合ってまだほんの少ししか経っていない。それでも、ガルドさんと出会えてよかったと思う。
「俺はこれから荷物を卸しに行く。ここで一旦お別れだな」
「はい」
「銀貨十七枚ありゃ、すぐに困ることはねえだろうが、それでずっと暮らせるわけでもねえ。仕事は早めに探しといた方がいいぞ」
「そうします」
「冒険者ギルドなら仕事はある。別に魔物と戦う仕事ばっかりじゃねえから、困ったら覗いてみるといい」
「分かりました」
ガルドさんは馬車へ戻り、御者台へ乗り込んだ。
「じゃあな、雷牙。またどっかで会ったら飯でも食おうや」
「はい!」
俺は笑って答える。
「そのときは、今度こそ俺が払います!」
「ははは! 期待しとくよ!」
ガルドさんの馬車が、ゆっくりと走り出した。
俺はその後ろ姿が人混みの中へ消えていくまで見送る。
やがて馬車が完全に見えなくなってから、改めて周囲を見渡した。
大勢の人が行き交う石畳の道には、見たことのない商品を並べた露店がいくつも出ている。
剣を持った冒険者が歩き、ローブ姿の魔術師らしき人がその横を通り過ぎる。獣耳と尻尾を持った獣人の子供たちが楽しそうに走っていき、どこからか肉を焼く美味しそうな匂いが漂ってきた。
見るものすべてが新しい。
財布代わりの革袋には銀貨が十七枚。
服装も、この世界で目立たないものへ変わった。
当面の生活費は確保できた。
けれど、仕事はない。住む場所だってまだ決まっていない。この世界のことも、ほとんど何も知らない。
それでも、せっかく異世界へ来たのだ。
「まずは、この街を見て回ってみるか」
知らないことなら、これから知ればいい。
俺はそう考えて、リーベルの大通りへと歩き出した。
この世界には何があって、人々がどんな暮らしをしているのか。
どんな食べ物があって、どんな魔法があって、そして、どんな楽しいものがあるのか。
そのときの俺は、ただ純粋にそれを知りたいと思っていた。
まさか、この街を見て回った先で――俺にとって到底信じられない事実を知ることになるとは、まだ想像もしていなかった。
お読みいただきありがとうございます!
無一文だった雷牙も、ようやく異世界のお金と服を手に入れることができました。
次回はリーベルの街を探索します。
そこで雷牙は、この世界の「ある事実」を知ることになります。




