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閑話 兄ちゃんが好きだったもの

今回は少し本編を離れて、閑話となります。

ライガが異世界で遊園地を作るために動き始めている一方、彼がいなくなった元の世界では――。

今回は、一ノ瀬家のお話です。


 一ノ瀬家の二階には、もう使う人のいない部屋がある。


 だからといって、何かが大きく変わったわけではなかった。


 机の上には高校の教科書やノートが置かれ、壁際には通学用の鞄がある。ベッドも、カーテンも、本棚もそのままだ。


 学校から持ち帰ったプリントまで残っている。


 まるで、部屋の主が学校へ行っていて、夕方になれば「ただいま」と帰ってくるような部屋だった。


 けれど、その声が聞こえることはもうない。


 一ノ瀬雷牙が亡くなってから、しばらく経った。


 事故に遭ったわけではなかった。


 大きな病気を患っていたわけでもない。


 その日、雷牙は遊園地へ出かけていた。


 大好きな遊園地で一日を過ごし、あとはいつものように家へ帰ってくるはずだった。


 けれど、その帰り道で突然倒れた。


 病院へ運ばれたものの、そのまま意識を取り戻すことはなかった。


 あまりにも突然のことだった。


 昨日まで普通に話していた息子が、もう家へ帰ってくることはない。


 そんな出来事をすぐに受け入れられるはずもなく、葬儀を終え、少しずつ普段の生活が戻ってきても、雷牙の部屋だけはあの日からほとんど変わっていなかった。


「……そろそろ空気、入れ替えないとね」


 誰に言うでもなく呟いて、雷牙の母親は窓を開けた。


 夏の終わりを感じさせる風がカーテンを揺らし、閉め切られていた部屋へ入り込んでくる。


 掃除をしようと思ったわけではない。


 ましてや、部屋を片付けようと思ったわけでもなかった。


 ただ、ずっと閉め切ったままにしておくのもよくないと思っただけだ。


 それだけのつもりだった。


 けれど、一度部屋に入ってしまうと、どうしてもいろいろなものが目に入る。


 机の端に転がったシャープペンシル。


 読みかけの漫画。


 脱ぎっぱなしにしていたパーカー。


「もう……」


 母親はそれを手に取ると、小さく息を吐いた。


「ちゃんと片付けなさいって、何回言ったと思ってるのよ」


 叱る相手は、もういない。


 それでも昔と同じように言葉が出てしまった。


 パーカーを畳んでベッドの上へ置こうとして、手が止まる。


 洗濯した方がいいだろうか。


 でも、洗濯して、それからどうするのだろう。


 畳んで箪笥に戻す?


 それとも――。


「……まだ、いいわよね」


 結局、母親は畳んだパーカーをベッドの端へ置いた。


 そのときだった。


 階段を上ってくる足音が聞こえた。


「ただいまー」


「おかえり」


 少しして、開いたままの扉から少年が顔を覗かせる。


 雷牙の弟だった。


 学校帰りらしく制服姿で、肩には鞄を掛けている。


「母さん、何してんの?」


「ちょっと窓を開けてただけ」


「兄ちゃんの部屋?」


「ずっと閉め切ったままじゃよくないでしょう?」


「ふーん」


 弟はそれだけ言うと、一度は自分の部屋へ向かおうとした。


 けれど、二、三歩進んだところで止まり、引き返してくる。


「入っていい?」


 母親は思わず息子を見る。


「自分のお兄ちゃんの部屋でしょう」


「いや、そうだけどさ。兄ちゃん、勝手に入ると怒ってたし」


「ああ……そうだったわね」


「特に机触るとめっちゃ怒るんだよ」


「あなたが勝手に充電器を持っていくからでしょう」


「だって俺の壊れてたんだもん」


「だからって黙って持っていったら怒るわよ」


「あとで返したし」


「返せばいいって話じゃないでしょう?」


 そこまで話してから、二人とも黙った。


 ほんの少し前まで、何度も繰り返していた会話だった。


 母親が弟を叱り、雷牙が横から「そうだぞ」と言い、弟が「兄ちゃんだって俺のもの使うじゃん」と言い返す。


 そんなやり取りが、当たり前のようにあった。


 今は、もう二人しかいない。


「……まあ、今さら怒られないか」


 弟がそう言って部屋へ入った。


「そうね」


 母親も、それ以上は何も言わなかった。


 弟は珍しそうに兄の部屋を見回している。


 入ったことがないわけではない。


 むしろ以前は何度も勝手に入って怒られていた。


 それなのに今は、同じ部屋がどこか違う場所のように感じられた。


「これ、ずっとこのままにするの?」


「……どうしようかしらね」


「片付けないの?」


「片付けた方がいいと思う?」


「俺に聞くなよ」


「聞いたのはそっちでしょう?」


「そうだけど」


 弟は困ったように頭を掻く。


 それから本棚の前へ移動した。


 漫画や小説に混ざって、少し不自然に大きな冊子が何冊も立ててある。


「なんだ、これ」


 一冊を引き抜いてみる。


 見覚えのあるキャラクターと、大きなジェットコースターが表紙に載っていた。


「あ」


 弟の声に、母親が振り返る。


「どうしたの?」


「これ、遊園地のやつじゃん」


 昔、家族で行った遊園地のパンフレットだった。


 弟がページをめくる。


 アトラクションの紹介や園内地図、レストランの案内が載っている。


「こんなの取ってたんだ、兄ちゃん」


「雷牙はそういうの、捨てなかったから」


「パンフレットだぞ?」


「入場券だって取ってたわよ」


「マジで?」


「ほら」


 母親が棚の上にあった小さな箱を指す。


 弟が開けてみると、中には何枚ものチケットや半券が入っていた。


 そのほとんどが遊園地やテーマパークのものだった。


「うわ……」


 弟が思わず笑う。


「兄ちゃん、どんだけ好きだったんだよ」


「今さら?」


「好きなのは知ってたけどさ」


 弟は箱の中を探り、一枚のチケットを取り出した。


 しばらく眺めてから、何かを思い出したらしく顔をしかめる。


「これ、俺も行ったところだ」


「そうなの?」


「ほら、このジェットコースター」


 パンフレットを開き、大きく載っている写真を指差す。


「ああ、覚えてるわ」


「兄ちゃん、これ乗ろうってずっと言ってたよな」


「言ってたわね」


「俺、嫌だって言ったのに」


 当時の弟は、まだ小学生だった。


 対して雷牙は、すでに絶叫系の乗り物が大好きだった。


 入園する前からどのアトラクションに乗るか決めていて、園内地図を片手に家族を引っ張り回していた。


「『せっかく来たんだから乗ろうぜ』って。怖くないからとか言って」


「あなた、本気で嫌がってたじゃない」


「当たり前だろ。あんな高いところから落ちるんだぞ」


「お兄ちゃんは楽しそうだったけどね」


「兄ちゃんがおかしいんだよ」


 弟はそう言ってから、ふと首を傾げた。


「……でも、結局乗らなかったんだっけ」


「雷牙?」


「うん」


 母親も少し考える。


 やがて、その日のことを思い出した。


「あなたが泣きそうになったからじゃない?」


「泣いてない」


「泣いてたわよ」


「泣いてないって」


「お父さんに抱きついてたでしょう?」


「あれは……ちょっと怖かっただけ」


「それを泣いてたって言うのよ」


「違うから」


 弟は不満そうな顔をしたものの、パンフレットへ視線を戻した。


「兄ちゃん、めちゃくちゃ乗りたがってたのにな」


「そうね」


「父さんと母さんに俺を任せて、一人で乗ればよかったじゃん」


「雷牙もそうしようとしてたわよ」


「え?」


「でも、あなたが『兄ちゃんも一緒に来て』って言ったから」


「……俺が?」


「覚えてないの?」


「覚えてない」


 弟は眉を寄せた。


 母親は小さく笑う。


「あんなに嫌がってたくせに、お兄ちゃんだけジェットコースターに行こうとしたら怒ったのよ。『俺も一緒に遊ぶ』って」


「うわ、めんどくさ……」


「あなたがね」


「昔の俺だから」


「今もあまり変わってないわよ」


「変わってるって」


 言い返しながらも、弟は少し照れくさそうだった。


「それで?」


「雷牙も一緒に行ったでしょう。あなたが乗れるものに」


「ああ……」


 少しずつ記憶が戻ってきた。


 派手なジェットコースターではない。


 子供でも乗れる、小さな乗り物だった。


 当時の自分はそれを何度も気に入って、もう一回乗りたいと兄にねだった。


「兄ちゃん、三回くらい付き合ってくれなかった?」


「四回だったと思うけど」


「四回!?」


「雷牙、最後は『もう景色覚えた』って言ってたわよ」


「そんな乗ったのかよ……」


 今度は弟も笑った。


「そりゃ兄ちゃんも嫌になるわ」


「でも、付き合ってたでしょう?」


「……まあ」


 ジェットコースターには乗れなかったはずだ。


 それなのに、その日の兄が不機嫌だった記憶はない。


 むしろ自分より楽しそうに園内を歩いていた気がする。


 次はあれに乗ろう。


 あっちに面白そうなものがある。


 昼はここで食べよう。


 地図を広げながら、ずっとそんなことを言っていた。


「ほんと、好きだったんだな」


 弟が呟いた。


「遊園地」


「好きだったわねえ」


「友達とも行ってたんだろ?」


「そうみたいよ。一人でもよく行っていたでしょう?」


「一人で遊園地って楽しいのか?」


「雷牙なら楽しいんじゃない?」


「……確かに」


 兄なら普通に楽しんでいそうだ。


 そう思えることが、弟には少しおかしかった。


 そのとき、玄関の扉が開く音がした。


「ただいま」


「あ、お父さん帰ってきた」


 母親が部屋を出ようとすると、階段を上がってくる足音が聞こえた。


 どうやら先にこちらへ来たらしい。


「二人とも何をしてるんだ?」


 仕事から帰ってきた父親が、雷牙の部屋を覗き込んだ。


 母親が少し困ったように笑う。


「窓を開けに来ただけよ」


「そうか」


 父親は部屋の中を見回した。


 その視線が、ベッドの上に置かれたパーカーで一瞬止まる。


「……片付けていたのか?」


「ううん」


「そうか」


「まだ、いいわよね?」


 母親がそう尋ねると、父親はすぐには答えなかった。


 机や本棚を眺め、それから窓の外へ目を向ける。


「急ぐ必要はないだろう」


 それだけだった。


「父さんも片付けたくないだけじゃね?」


「お前は黙ってろ」


「図星じゃん」


「お前の部屋を先に片付けるぞ」


「なんで俺の部屋になるんだよ」


 父親の返しに、弟が慌てる。


 母親が小さく吹き出した。


 それにつられるように弟も笑った。


 父親だけは呆れた顔をしていたが、少しだけ口元が緩んでいる。


 久しぶりに、雷牙の部屋に笑い声が響いた。


 笑ってしまったことを、誰も悪いとは思わなかった。


「そうだ。父さん、これ」


 弟がパンフレットを持ち上げる。


「覚えてる?」


「なんだ?」


「昔行った遊園地」


「ああ」


 父親は表紙を見るだけで思い出したらしい。


「雷牙が朝の五時に起きたときか」


「五時!?」


「お前は覚えてないのか?」


「そんな早かったっけ?」


「普段は何度起こしても起きなかったくせにな。遊園地へ行く日だけは、俺より先に起きていた」


「雷牙ったら、前の日から準備してたものね」


「兄ちゃん、子供かよ」


「当時は子供だろう」


「いや、そうだけどさ」


 三人でパンフレットを見ていると、その隙間から一枚の写真が床へ落ちた。


「あ」


 弟が拾う。


 そこには四人が写っていた。


 父親。


 母親。


 まだ小さかった弟。


 そして、その隣に立つ雷牙。


 遊園地の入口で撮った家族写真だった。


 雷牙は今より少し幼い。


 隣にいる弟の肩へ腕を回して、カメラに向かって笑っている。


「……兄ちゃん、めっちゃ笑ってる」


「あなたも笑ってるじゃない」


「俺はいいんだよ」


「何がいいんだ」


 父親が横から写真を覗き込む。


 弟は写真を見たまま、しばらく黙っていた。


 兄がいなくなったことは分かっている。


 葬儀にも出た。


 学校へ行けば、兄とは違う学校に通っている自分にまで声をかけてくる人がいた。


 家へ帰っても、兄の声はしない。


 それでも、こうして写真を見ると妙な感じがした。


 この写真の中では、兄は当たり前のように笑っている。


 このあと何に乗ろうとか。


 腹減ったとか。


 帰りたくないとか。


 そんなことを言いそうな顔をしている。


「……もう一回くらい、行きたかっただろうな」


 弟が呟いた。


 母親は何も答えなかった。


 父親も黙って写真を見ていた。


 まだ高校生だった。


 これから先、何度でも行けたはずだった。


 友達と行くこともあっただろう。


 いつか大人になって、自分の家族を連れていったかもしれない。


 そんな先のことなんて、誰にも分からない。


 ただ一つ分かっているのは、雷牙にはまだやりたいことがたくさんあっただろうということだけだった。


「これ」


 しばらくして、弟が口を開いた。


「俺、持っててもいい?」


「写真?」


「うん」


 母親は少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。


「いいんじゃない?」


「父さんは?」


「なぜ俺に聞く」


「一応」


「お前が持っていたいなら持っていけ」


「じゃあ、もらう」


 弟は写真を大事そうに持ち、自分の制服の胸ポケットへ入れようとした。


「折れるわよ」


「あ、そっか」


「部屋に置いておきなさい」


「そうする」


 結局、パンフレットだけ棚へ戻し、写真を手に持ったまま弟は部屋を出ようとする。


 その前に、もう一度だけ振り返った。


 机も。


 ベッドも。


 本棚も。


 何も変わっていない。


 ただ、そこにいるはずの兄だけがいない。


「……兄ちゃん」


 呼んでも返事はない。


 そんなことは分かっている。


 だから弟は、その先を口にするつもりはなかった。


 けれど、手の中にある写真へ目を落とすと、自然と言葉が出た。


「ほんと、遊園地好きだったよな」


 写真の中の雷牙は、遊園地の入口で楽しそうに笑っていた。

お読みいただきありがとうございます!


今回は閑話として、ライガがいなくなったあとの元の世界と、その家族のお話でした。

本編では異世界で前へ進み続けているライガですが、元の世界には両親や弟との生活があり、家族で遊園地へ行った思い出も残っています。

家族にとって、遊園地は「雷牙が好きだったもの」。

けれど読者の皆様が知っているように、ライガは今も遊園地が大好きです。

そして今では、自分の遊園地を作るための土地まで手に入れました。

続きも楽しんでいただけたら嬉しいです!

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