メインクエスト8
バッサリと切り開かれたバスカヴィルの胸部から、大量の黒い靄があふれ出る。
それは、バスカヴィルが、この世界に留まるために必要な魔力だ。今のバスカヴィルにとっては、命そのものと言い換えてもいい。次から次へと噴き出すそれを、手で押さえようとするが、そこでバスカヴィルは体の異変に気が付いた。
身体が動かない。大量の電流を流し込まれたことによって、身体機能が麻痺しているのだ。
だが、それも長くは続かないだろう。傷も、深くはあるが、致命傷ではない。悪魔はこの程度では、死なない。まだまだ戦える。しかし……バスカヴィルの精神は……驚愕に支配されていた。
たいした魔力も持っていない、つまらなそうな人間に召喚され、人間界にやってきたはいいものの、相手をさせられるのは、醜い顔の子供だった。いったいこの豚野郎のどこが脅威なのか。
かつて神々とも争った大悪魔たる自分が相手をしなければいけないほどの存在なのか。自分が力を振るうにふさわしい存在なのか。この不細工にそれだけの格があるのか。そうは思えない。ただの雑魚だ。強ければ強者なりの風格が顔に出る。こいつには、それがない。
バスカヴィルにはわからないことだったが、彼の誤算は、そこだった。豚野郎の不細工度合いは、その強者の雰囲気をかき消してしまうほどの圧倒的ブサイクだった。だからバスカヴィルは豚野郎の実力を見誤った。
豚野郎は、不可思議な雷の剣で、バスカヴィルの召喚主を攻撃しようとしてきた。正直な話、召喚主自体に興味はなかったが、こいつは大事な楔だ、と思い、仕方なく守ってやる。
雷の剣だか何だか知らないが、自分に傷をつけることなどできないだろう。そう思っていた。だが僅かと言えど、その剣はバスカヴィルの爪を溶かした。
事ここに至ってバスカヴィルは豚野郎に敵意を持った。格下にダメージを負わされた。なんとか豚野郎に自分が感じた以上の屈辱を味合わせたいと思った。
名を尋ねる。
彼が名乗ったら、聞いといてなんだがお前なんかに興味ないと言ってやろうとして。しかし豚野郎は名乗らなかった。
腹の底が煮えたぎるような怒りがふつふつと湧いてくる。目で威圧し、声で誘惑のスキルを発動する。
だが豚野郎はバスカヴィルの足元に血液交じりの唾を吐きかけ、あろうことか、かつて神をも殺したバスカヴィルを駄犬と罵った。
――殺してやる。
バスカヴィルの視界が怒りで真っ赤に染まった。だが爪の攻撃は、あっさりと防がれた。ならばとブレスを使う。
たかが人間ごときにブレスを使うことなんてないと思っていたし、使うこと自体が屈辱的とさえ思っていたが、そんな思考は振り切っていた。
ブレスを放つ。
それさえも、あの不思議な剣で迎撃された。
この剣。この剣だ。自分にとっての脅威は。
豚野郎は他の手段で攻撃しようとしてこない。おそらくこの剣だけが、自分にダメージを与えられるからだ。
他の攻撃を気にする必要はない。あの剣を封じてから攻撃すれば、問題なく殺せる。
豚野郎を押し倒して拘束し、超至近距離でブレスを浴びせてやろうと思ったら、床を抜き、絶体絶命の状況から抜け出して見せた。
どこまでも忌々しい豚野郎だ、とバスカヴィルは憎悪といら立ちを募らせる。
手元から離れた剣を呼ぶ豚野郎。だが構うものか。その剣の威力は確かに脅威だが、それを上回る力でねじ伏せればいいだけのこと。
頭を二つにし、双頭のブレスを放つ。だが豚野郎は、かつてないほどの大きさと輝きを誇るその剣で、バスカヴィル渾身のブレスを切り裂いてしまった。
「――っ」
バスカヴィルは息をのんだ。
今のは、現在の自分が出せる全力の攻撃だった。まさか撃ち負けるとは思ってもいなかった。
バスカヴィルには、豚野郎の戦略が、狙いがわかっているつもりだった。バスカヴィルと戦いつつ、隙を見て召喚主を殺すという狙いが。
大悪魔と正面から戦って生き残ることなどできないのだから、間違いなくそうすると確信していた。それ以外の方法で豚野郎が生き延びる方法はない。だがこの豚野郎は、バスカヴィルの全力さえも凌ぐというのか。
『ふん。馬鹿め。誰がそんな回りくどいことをするものか。そこのゴキブリのように黒い奴もきっちり始末してから、貴様を殺す』
戦闘前の豚野郎のセリフを思い出す。
それを思い出した時、バスカヴィルの中の確信が、揺らいだ。
あれが虚勢などではなく、本心だったとしたら? そして事実、豚野郎はバスカヴィルを屠れるだけの力を持っていることを証明してみせた。
いくらバスカヴィルと言えど、あの剣の攻撃を何度も受ければ、ただでは済まない。
ならば、あの言葉は……ハッタリではない?
視界は剣とブレスの激突で巻き上がった煙で塞がれている。この中で、気配を消してあの剣でもう一度斬られたら。
ゾクリ、とした。
無事では済まない。バスカヴィルの心に暗雲がかかった。
殺される。生まれてからこの方感じたことのなかった恐怖を感じた。死の恐怖だ。
あいつは、自分を殺そうとしている。
土煙の中、あの豚野郎を探す。どこだ。どこから来る。これでは最初と立場が逆転しているではないか。
最初はバスカヴィルが狩る側だった。今はどうだ。豚野郎が狩る側に回った。自分への当てつけのように。狩られる側の気分はどうだと言わんばかりに。
怒りが湧く。そしてその怒りが、さらに冷静さを奪った。全方位の警戒をする。もし全盛時の自分ならスキルで敵のいる位置なんてすぐにわかった。
いや、それどころか、あんな豚野郎に苦戦することすらなかっただろうに。だがそれを言っても仕方がない。
バスカヴィルは、怒りと屈辱で思考を真っ赤に染め上げながら、煙の中に視線を走らせる。
まだ仕掛けてこない。どこだ、どこから来る。あの忌々しい剣は雷光を放っている。この煙の中でも近づいてくればすぐにわかるはずだ。
「……?」
と、そこでバスカヴィルは違和感を覚えた。
そうだ、剣の光が見えない。
……なぜ? 自分に近づくために、あの剣をしまったのか? いや、いや……そうではない。仮にも自分のブレスと撃ち合った後だ。もう、魔力が残っていないんじゃないか? あの撃ち合いで、剣に必要な魔力が維持できなくなったんじゃないのか?
バスカヴィルにとっての脅威はあの剣だ。あれがなくなれば豚野郎はバスカヴィルに対する攻撃手段を失う。
で、あるならば。
あの豚野郎は次に何を狙う? あいつが狙うのは……そう――。
「――――!!!」
そこでバスカヴィルはようやく気付いた。自分が嵌められたことに。
「あの、クソガキがああああああああああああああああああああああああ!!」
◇◇◇
雷鳴剣とブレスの衝突で煙が舞い上がり、視界が制限された中で、ブサメンは詠唱を開始した。この戦闘が始めってからずっと考えていた。この状況を切り抜ける方法……バスカヴィルを出し抜く方法を。
それがバスカヴィルの相手をしながら隙をついて男爵を殺す、と思わせてバスカヴィルを殺す――フリをして男爵を殺すことだ。
ブサメンは二度、バスカヴィルのブレスを防いでいる。特に最後の雷鳴剣はバスカヴィルにとっても脅威だったはずだ。だからこそ奴はこう思った。
『このブサメンは自分を殺せる存在だ』
だがそれは雷鳴剣を全力解放したときのみ。そしてそれを実行した後は、雷鳴剣が使えなくなる。だがそんなこと知る由もないバスカヴィルは、ブサメンを脅威と判断し、自分の身を守ることを考える。死の恐怖で冷静さを欠く。
バスカヴィルは、ブサメンが男爵を狙わずこのまま自分を殺しに来ると判断する……はずだ。
『ふん。馬鹿め。誰がそんな回りくどいことをするものか。そこのゴキブリのように黒い奴もきっちり始末してから、貴様を殺す』
あの言葉も、そう思わせるための布石だ。騙されてくれただろうか? 騙されてくれたことを、願うしかない。
そうなれば男爵を守るという意識は薄れるはず。もとからバスカヴィルは男爵を見下していたし、そう積極的に守りたい存在ではないことは明らかだった。
そこに隙ができる。男爵を狙う隙が。ブサメンにはもうバスカヴィルを相手取るほどの力は残っていない。だからこの魔法が、正真正銘、最後のチャンスだ。
「彼岸に誘え、閻魔の王よ」
うっすらと左手に赤い魔法陣を纏う。それと同時に穴の開いた天井へ跳び上がり、階下を覗き込んでいた男爵の前に躍り出た。
「我は死の導き手にして」
戦いの行方を見届けるつもりだったらしい男爵は、驚きの表情を隠せずに呆然としている。……さっさと逃げればいいものを。
「紅き花の運び手なり」
おそらくブサメンが確実に死んだか確認したかったのだろうが、それが裏目に出たな。
「クソガキがああああああああああああああああああああああああ!!」
バスカヴィルに気づかれた。だが、もう遅い。ブサメンの方が――
「死に逝く者に、一輪の花を――」
早い。
詠唱は、終わった。それは、男爵への死刑宣告だ。伸ばした手で男爵の顔面を鷲掴みにする。バスカヴィルはもう、すぐ後ろにいた。だが、黒い爪がブサメンに届く、その寸前で。
「紅蓮の徒花」
手のひらに浮かんだ深紅の魔法陣から紅蓮の炎が花のごとく咲き誇った。
轟く爆音。地獄の業火は容赦なく男爵の頭部を吹き飛ばした。
直後、鋭いものが、ブサメンの髪を揺らす。バスカヴィルの禍々しい爪が、ブサメンの後頭部数ミリのところでピタリと止まっていた。
だが、その爪が、これ以上進むことは、ない。
サラサラと、その爪先が赤い光の粒子と化して崩れていく。召喚主たる男爵が死んだことで、この世界で活動することができなくなり、身体が崩れ始めたようだ。
――、ギリギリ間に合った。
男爵の頭を吹っ飛ばした体勢のままで固まるブサメンと崩れていく己の身体を忌々しそうに見つめるバスカヴィル。
勝敗は、決した。
静寂。さっきまでの激しい戦闘が嘘のような静けさの中、バスカヴィルがぽつりぽつりと語る。
「忌々しい……この我をここまで虚仮にし、謀ったのは貴様が初めてだ」
「ふん、ざまぁないな」
まったく、無茶苦茶暴れやがって。ざまぁみろ。
………本当に、クソみたいなことさせやがって。
そう言い返したくなるのを我慢して、一言だけ言い返してやった。するとバスカヴィルは僅かに口元を楽しげに歪めたのが、なんとなくわかった。
「本当に忌々しいガキだ」
魔界に住むバスカヴィルは、この人間界にいることを許されていない。楔たる男爵を失った奴は、もはや動くことさえできない。
その声も、次第に掠れていく。だが、その最後の言葉だけは、確かに耳に届いた。
「だが――見事だ」
怒りと屈辱と諦観とほんの少しの敬意が込められたその声音は、いつか必ずブサメンを殺すという挑戦状だ。召喚主を失ったバスカヴィルは死ぬわけではなく、魔界に帰るだけだからな。
冗談じゃない。もう二度と会いたくない。
完全にバスカヴィルが消滅した。魔界へと強制送還された。
「――っ、はぁはぁ!」
脅威は去った。ドッと疲労を吐き出すように、荒い呼吸を繰り返す。
大惨事になった工房には、悪魔の姿はなく、頭部がなくなった恩人の死体と、座り込むブサメンが取り残されるのみ。
崩壊した壁から差し込む月光に照らし出されたブサメンは、自らの左手を見つめる。男爵を、恩人を殺した左手を。
長い長い戦いの夜が終わった。
Tips 男爵
本名、カシム・イフリート。シェヘラザード王国イフリート領を治める男爵家の当主。身寄りのない子供の多いこの国において幾つもの孤児院に支援を行っている。しかし裏では、その孤児院の子供を奴隷商に売っていた。最初から悪人だったというわけではなく、本来は妻と娘と民を想う良き父であり領主であったが、貴族社会に揉まれるうちに、悪事に手を染めるようになってしまった。柔和な顔つきで、年齢的にはまだ三十代だが、頭が禿げ上がっている。それは、魔法学校を卒業したてのシンクゥが孤児院に戻って来て、一番最初に男爵に魔法を見せようとしたところ、少し失敗して男爵の髪の毛を燃やしてしまったため。しかしその時の男爵は怒ることはしなかった。それはこれから金づるになるであろうシンクゥとの関係を考えてか、あるいは自分が送り出した孤児が、立派な魔法使いになって戻ってきたことに、少しでも想うことがあったからなのか。今となっては誰にもわからない。




