来客の頼み2
「あたしも、でもここは丹波の山奥の旅館なのに、ちゃんとお刺身が出るんだ」
「エッ、何だ穂高では刺身はないのか」
「お刺身処かお風呂も大変なのよ。一週間に一遍は下の横尾山荘まで行くの」
「みんなそうか」
「縦走する登山客の女性でも、五日もお風呂に入ってないもの。だから沢筋に流れる小さな川で拭くぐらい」
「何でそこまでして登るんだ。その辺が判らんなあ」
「あれは頂上に立ってみなければその良さは判らないわよ」
「だから俺が石塚には食わず嫌いだと散々言ってるんだ」
「残念ねぇ。あたしは三千メートルの頂上に立てたんだと言う自信は大きいし、生涯の困難に立ち向かう財産にもなり得るし、それだけの価値のある苦労だと思う。還暦過ぎた人も穂高に登って来るのよ。あの人達を見ると負けられないと奮い立つでしょう」
「澤村さん、この男には馬の耳に念仏に等しいから。第一、石塚はそれだけじゃあないだろう。杖を頼りにする老人ならともかく。エスカレーターやエレベーターのない場所はほとんどパスする学生なんだ」
「エッ! まあッ、そうなの。山ではそんな人が居るって訊いたけど、こうして会ってみるとそうでもないないような気がするけど……」
「気だけでは解らんだろう。昔の武家は、養子縁組みの円満を図って馬には乗ってみよ人には添うてみよ、とはよく言ったもんだ」
越村は更に石塚に追い打ちを掛けた。
「さっき澤村さんが言った芦生の原生林に行ってみてはどうだ。俺たちでもう一度、彼女を案内する気はないか?」
さっきは素面だが、今は酒が入って、案外あの足腰の苦痛も飛んでる。穂高を縦走する越村にはちょっとしたハイキングだが、石塚にすれば芦生の原生林は体力の限界に挑戦した気分なんだろう。
「ねぇ、石塚祐司さん」
ほ〜う、フルネームで女が誘うか。これには石塚も無下には出来ない。




