穂高連峰9
「まあね、周囲の人から大丈夫って言われたけど、実際に小屋に通年居るベテランと行って、こりゃあ大変だと思ったのに、越村さんはほとんど縦走されたんですか?」
「そうですね〜。澤村さんからあの大キレットを難なく越えられたってさっき言ってましたけど。矢っ張り何回挑んでも怖いですよ。なんせ鋭く切れ立った狭い稜線上に、ゴツゴツした岩がニョキニョキと林立して、次の足場を何処にするか一瞬で判断して、次の岩にしがみ付いてゆくんですから凄いですよ。あれは何回挑んでも恐怖の連続で、決して慣れないどころか一瞬気を抜けば数百メートル滑落して、まあ一巻の終わりで、いつも初心であの大キレットには登ってます」
「そうよ、次に掴める岩の角がない所には鉄の取手がちゃんと打ち込んであるのよ。よくもまあこれを打ち込んだ人は大変。少しだけしか余裕のない所でも、足場がなけれは連なってる岩に鎖が取り付けて通過できたけど、あの鎖を取り付けた人はいったい何に掴まって作業をしたか考えると感謝しかなかった」
「あれ? 澤村さんは余裕ですね。そんなこと考えながらあの鎖場を通り過ぎるなんて、ぼくの場合は次の岩場をどう乗り切るかなんちゃって。それしか無かったです。なんせ岩だけで急斜面になってる絶壁の上を行くんですから。あそこに鎖や取手を取り付けるなんて、ぼくの場合はとてもそんな先人の苦労なんて考えも及ばなかった。矢っ張り女の人は着想が凄い。あの切り立った岩しかない僅かな稜線上を行く時に、恐怖よりそんな先人の苦労を思いやるなんて、別な意味で澤村さんは肝っ玉が据わってるんだ」
まあッ、大袈裟ね。と二人の女性から笑われた。
「あらッ、いつも黙って売店で飲み物しか頼まない人なのに結構、喋る人なのね、越村さんて」
「奈弥ちゃん、ずっと一緒に小屋で仕事しているけど。此の人、余り喋らないのよ。だから今日は珍しいのよ」
山の話になるとつい熱が入って口も軽くなってしまう。
「それに此の人、同じ大学に変な友達が居るの。高い所はゴンドラの頂点で満足している人に此の山の良さをどう言えば良いのか悩んでいるわよ」
別に悩んではいないが、狭い世界に閉じ籠もるなと言いたいだけだ。




