穂高連峰6
登山を楽しむ人は仕事も忘れて、山の重圧感に心を静めて愛おしむ。毎日、朝から晩まで山の仕事に追われても、軽くあしらうように山を見ない、そこが違う。
「でも初めてだった去年の夏の二ヶ月は、仕事が始まるとしまったと思った。これほど大変なら来るんじゃなかったと後悔の連続だ。でも秋風が吹く頃にバイトを終えて下山すると、ケロッとした顔で、また穂高を仰ぎ見る自分が居るんだよなあ」
「あたしもそう。麻薬の禁断症状じゃあないけれど。でも我慢できるたおやかな心の痛みね」
下界と違って、広い空間に居ながら、現実には近くの岩や鎖に掴まっていなければ自由に動けず、逃げ隠れも出来ない恐怖が、足元から湧き上がる。それに打ち勝ったご褒美にあの頂上から広がる風景を一生焼き付けられる。さあ、そのご馳走にありつけに行くぞと二人は南岳小屋で取った休息をバネにした。
二人はここから北穂高までの難所で大きく切れ込んだ谷になる大キレットと、途中に有る小高い長谷川ピークを過ぎてまた谷を下る。その行程のすべてが岩に取り付けた鎖にしがみついて一気に二百メートル以上の急斜面を降りてまた登り切る。此処は気が抜けず、まして周囲の風景どころか視線は一歩先の足場を固めて登る。大キレットは、そのほとんどが設置された梯子や鎖にへばり付きながら、ひたすら次の安全な岩の角に足と手を掛けながら進む。
道なき箇所は岩に書かれた白いペンキを目印に登ると、やがて岩が瓦礫の用に重なり合う少しなだらか先に、北穂高岳の標識が見えて来た。到着した山頂の真下に小屋はある。
早速受付のフロントに行くと宿の主人が「今年も良く来てくれましたね」と迎えて、奈弥ちゃんを呼んでくれた。三人は表のテラスに出た。北穂高岳小屋のテラスはほぼ頂上から張り出すようにあり、その眺めは凄いのひと言に尽きた。




