湖岸に向かう2
「現地の山を知り尽くしたシェルパが必要なんですよ。それで彼らの心情を汲むにはその底辺に流れるチベット密教やヒマラヤ密教が彼らの生きざまに繁栄している。彼らの協力がなければ登頂は出来ないように、密に接して必要な荷物を彼らに委ねないとヒマラヤに登るのはたいへんなんです」
「ヒマラヤはそこまでして登りたい山なんですか?」
「箔が違う。なんせ世界の最高峰ですから極めたいでしょう」
「越村さんもそうなの」
「いや、僕は登山家じゃない。ただ夏のバイトとしては一番実入りがいいんです」
「それだけ」
「あとは優越感、俺はみんなの天辺に居るんだと言う優越感、人生に劣等感を抱いてる人間ほど強いんですよ」
「あら、なら弟は打って付けなのに……」
「多分澤村さんはそれを見越していると思う」
世間の波をもろに受けて萎縮した精神の置き場所として、槍ヶ岳三千百八十メートルから百メートル直下の山荘は最高の居場所だ。しかも最低限の食と住を賄うためだけの限られた生活空間でみんな黙々と働いている。
「我々には苦になっても乗り越えられる環境ですが、今まで何の苦労もなく育った石塚には極めて過酷な生活環境ですよ」
「それじゃあ今頃は、音を上げてるのかしら」
あの狭い曲がりくねった獣道のような御室八十八カ所のお遍路に汗を掻きながら登る石塚の顔を浮かべた。それに引き換え軽快に走り続ける車のエンジン音だけが鳴り響く車内のシートに身を委ねると笑えてくる。
「彼奴はどうして車の免許を取らないのだろう」
「無理。運転テクニック以前の問題。行き先だけを入力すれば勝手に行く完全に自動化された車なら別だけど」
独り瞑想に耽るように講義室に居る石塚を思い浮かべると納得できる。彼奴は何しに大学へ来ているのか掴みきれない男だ。ただそんな男ほど澤村さんが話す密教の教義には乗りやすい。それを察したように、
「あそこはあなたの謂う真言密教の空海が祀られているのでしよう。深入りしなければいいけれどね」




