第8話:小さな迷子と、ふわとろハチミツ醤油のたまご焼き
朝の7時。いつもは夜に営業している『食事処 藤』だが、市場への仕入れや仕込みのために、俺――藤崎 創は早朝から厨房に立っていた。
トントンと小気味よい包丁の音が響く中、ガラガラ……と、静かに店の引き戸が開く。
(おや、こんな朝早くに誰だろう。千草さんあたりが現場前に朝飯でも食いに来たか?)
そう思って振り返った俺は、思わず目を見張った。
そこに立っていたのは、大きなランドセルを背負い、涙で目を真っ赤に腫らした、小学校低学年くらいの小さな女の子だった。
「……あの、おかあさんが、いないの……」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、蚊の鳴くような声で呟く少女。名前はつむぎちゃん。
この世界の女性は、朝早くから夜遅くまで社会の第一線で働くのが当たり前だ。つむぎちゃんのお母さんも、今朝は急なトラブルで朝4時に呼び出され、朝ご飯を用意できないまま飛び出してしまったらしい。
一人で目を覚まし、寂しさと不安に耐えかねて家を飛び出したものの、道に迷ってこの路地裏に迷い込んだようだった。
「そっか、寂しかったね。もう大丈夫だよ。お母さんが見つかるまで、ここで待ってよう」
俺はカウンターから出て、彼女の目線に合わせて優しく声をかけた。
ランドセルを下ろさせて椅子に座らせると、きゅ〜う……と、彼女の小さなお腹から切ない音が響いた。
「お腹、ペコペコだね。おじさんが、世界で一番元気が出る朝ご飯を作ってあげるから、ちょっと待ってて」
泣きじゃくるつむぎちゃんの心を温め、お腹を満たすため、俺はすぐに調理場へと戻った。
朝一番の胃袋に優しく、だけど最高に笑顔になれるメニュー――『究極のふわとろハチミツ醤油たまご焼き定食』だ。
職人の手解き:お母さんの味を超える「プロの卵液」
この世界における「男のたまご焼き」は、バレンタインのチョコレートの延長線のようなものだ。ピンクやハート型のシリコン型に流し込まれ、やたらと砂糖が大量に入った、お菓子のような甘ったるいたまご焼き。
一方で、外の惣菜屋で売られているものは、効率を重視して固く焼き締められた、冷たい仕出し弁当のようなものばかりだった。
だが、俺が作るのは、実家の定食屋で毎朝何百本と焼いてきた、出汁と甘みの黄金比率が光る本物のたまご焼きだ。
まずは、新鮮な卵を3個。
ボウルに割り入れ、白身を切るように箸を動かす。ここで混ぜすぎないのがコツだ。白身のコシを残すことで、焼いたときに絶妙なふわふわ感が生まれる。
味付けの主役は、砂糖ではなく「ハチミツ」と少量の薄口醤油、そして自家製のカツオ出汁。
(ハチミツを使うことで、冷めても固くならず、奥深いコクのある上品な甘みになるんだ)
たまご焼き器を強火でガンガンに熱し、油をしっかり馴染ませる。
ジューッ! と心地よい音を立てて卵液を流し込み、空気を含ませるように素早く巻き上げていく。
トントン、と小気味よくフライパンを振り、半熟の層を幾重にも重ねていく。
焼き上がったたまご焼きをまな板に移し、包丁を入れると、湯気とともにハチミツと出汁の優しい香りがブワッと広がった。
炊きたての白米、豆腐とワカメのお味噌汁、そして黄色く輝くたまご焼き。
「お待たせ。朝ご飯、しっかり食べて元気出そうね」
笑顔の朝、最高の特等席
目の前に置かれたのは、まるでお月様のように綺麗な黄色で、見るからにぷるぷると震えている大ぶりのたまご焼き。
「……たまごやき、すごくいいにおい」
つむぎちゃんは涙を指で拭うと、小さな手で箸を持ち、たまご焼きをそっと口に運んだ。
ぱくっ……もぐ……じゅわぁあ。
「――っ!」
つむぎちゃんの顔が、一瞬でパッと明るくなった。
「あまい……っ! お口の中で、おふとんみたいにフワフワして、あったかいお汁がいっぱい出てくる……!」
彼女は小さな口をいっぱいに動かしながら、たまご焼きを頬張り、ツヤツヤの白米を大急ぎで追いかけた。
「おいしい! おかあさんが作るのより、ずっと柔らかいよ!」
「はは、お母さんには内緒にしておいてね」
さっきまでの不安そうな顔はどこへやら、彼女は夢中で箸を動かし続けた。
お味噌汁をズズッとすすり、「あふぅ」と幸せそうな吐息を漏らす。
子供の素直な「美味しい」の笑顔ほど、料理人にとって五臓六腑に染みる報酬はない。
そこへ、ガラガラッ!! と激しい音を立てて、一人の女性が飛び込んできた。
「つむぎっ……!? どこなのつむぎ……っ! ああ、よかった……っ!!」
警察からの連絡(仕込み中に俺が通報しておいた)を受け、仕事を切り上げて血相を変えて駆けつけてきたお母さんだった。
つむぎちゃんをきつく抱きしめ、ボロ泣きするお母さん。
「すみません、店主さん……! 娘を保護して、こんなに温かいご飯まで食べさせてくれて、本当に、本当にありがとうございました……っ!」
「いえ、無事で何よりです。お母さんも、朝からお仕事大変ですね。もしよかったら、お母さんの分のたまご焼きも、今すぐ焼きますよ?」
俺が優しく微笑むと、お母さんは涙を拭い、照れたように顔を真っ赤にして、小さく「……お、お願いします」と頭を下げた。
カウンターで並んで、仲良くたまご焼きを美味しい美味しいと食べる親子。
その幸せそうな朝の光景を、俺は厨房から眩しそうに見つめていた。
女は朝から夜まで戦い、男は家で待つのが美徳とされる世界。
だけど、そんな歪な社会の隙間で、寂しさに震える小さな子供の心を、この一切れのたまご焼きが温めることができるのなら。
俺はどんなに早い朝でも、喜んで厨房の火を点ける。
「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」
朝の光が差し込む路地裏で、俺は「いってらっしゃい!」と、お母さんと手を繋いで元気に学校へ向かうつむぎちゃんの小さな背中を、いつまでも優しく見送るのだった。
『食事処 藤』特製・ふわとろハチミツ醤油のたまご焼き(2人前・作りやすい分量)
材 料
卵:3個
サラダ油:適量(ペーパータオルに染み込ませておく)
【極上ふわとろ卵液】
ハチミツ:大さじ1(★砂糖の代わりに使用)
薄口醤油(なければ普通の醤油):小さじ1/2
和風出汁(カツオと昆布):大さじ3(45ml)
みりん:小さじ1
塩:ひとつまみ
作り方
1. 卵液を作る(混ぜすぎないのが最大のコツ!)
1 ボウルに卵3個を割り入れます。
2 白身を切るように、箸をまっすぐ立てて左右に10〜15回ほど往復させます。黄身を軽く潰す程度で、完全に混ぜ合わせる必要はありません。白身の塊が少し残っている状態がベストです。
★マスターのこだわりポイント
卵を泡立てるようにグルグル混ぜてしまうと、白身のコシが消えて焼き上がりが固くなってしまいます。あえて混ぜすぎないことで、焼いたときに白身の間に空気が入り、お布団のような「ふわふわ食感」が生まれます。
1 【極上ふわとろ卵液】の調味料(出汁、ハチミツ、醤油、みりん、塩)を別の小さな器であらかじめよく混ぜ合わせてから、卵のボウルに加えてサッと優しく合わせます。
2. 焼く(強火でリズミカルに!)
1 たまご焼き器を強火でしっかり熱し、油を染み込ませたペーパータオルで全体に薄く油をひきます。卵液を1滴落として「ジュッ!」とすぐに固まるくらいが適温です。
2 火力を中火〜強火にし、卵液の「1/3の量」を流し込みます。
3 大きな泡がプツプツと膨らんできたら箸で潰し、奥から手前へとトントンとリズミカルに巻き戻していきます。
4 巻き終わったら卵を奥側へ移動させ、空いた手前部分に再び油を薄くひきます。
5 残りの卵液の半量を流し込みます。この時、すでに焼いた奥のたまご焼きを少し持ち上げて、その下にも卵液を滑り込ませるのが、全体を綺麗に一体化させる技です。
6 半熟の状態になったら、再び奥から手前へとくるくると巻いていきます。
7 最後の卵液も同様に流し込み、形を整えながら優しく巻き上げます。
3. 余熱で仕上げる
1 焼き上がったらすぐに火を止め、たまご焼き器の中で1分ほど休ませるか、巻きす(またはアルミホイル)に包んで形を整えます。
2 ハチミツと出汁が入っているため、中がジュワッと半熟の状態で仕上がります。余熱で少し落ち着かせてから、食べやすい大きさに切り分けます。
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「ハチミツが入っているから、焦げ付きやすいのだけ注意してね。火加減は中火から強火をキープして、卵液が固まりきる前の『まだドロっとしてるかな?』ってくらいの半熟のタイミングで思い切って巻いていくと、劇中みたいに中からお出汁がジュワッと溢れる『ふわとろ』なたまご焼きになるよ。朝ご飯にこれと炊きたての白飯があれば、今日も一日頑張れる気がするだろ?」




