第6話:官僚の涙と、実家直伝のほっこり肉じゃが
梅雨の晴れ間、夜になっても蒸し暑さが残る日のこと。
『食事処 藤』に、いつになく疲れ切った様子の一ノ瀬がやってきた。彼女は内閣府の若きエリート官僚。いつもはビシッとしたスーツ姿で、凛とした知性を漂わせているが、今夜は心なしか肩が落ち、表情も暗い。
「……一ノ瀬さん、お疲れ様です。ずいぶん遅くまで大変でしたね」
「あ、店主さん……。ええ、少し、ね」
カウンターに座った一ノ瀬は、力なく微笑んだ。
聞けば、国会に提出する新しい「男性保護・少子化対策法案」の作成で、連日徹夜が続いていたらしい。だが、上層部の政治的な思惑や、現場の実態を無視した利権争いに巻き込まれ、彼女が本当にやりたかった「困っている人たちを実質的に救うための改革」は、すべて修正され、骨抜きにされてしまったという。
「私は一体、誰のために、何のために戦っているのかしら……」
エリートとしてのプライド、そして現実の壁。
彼女の心は、激しい自己嫌悪と疲労で完全に折れかかっていた。そんな一ノ瀬のお腹から、ぎゅるると切ない音が響く。
「店主さん。今夜は、あまり派手なものは食べられないわ。胃も、心も、なんだかボロボロで……。何か、優しくて、ホッとするようなものを頂けるかしら」
「分かりました。少し時間をくださいね」
俺が選んだのは、この世界のどんな高級フレンチよりも、今の彼女の心に必要な料理。
前の世界で、実家の定食屋の親父から耳にタコができるほど叩き込まれた、俺の得意料理――『王道の肉じゃが定食』だ。
職人の手解き:味が染み込む「引き算」の美学
この世界において、男性が作る料理(特に家庭料理)は、「男性の繊細さをアピールするための過剰なデコレーション」になりがちだ。星型にくり抜かれた人参や、やたらと甘く味付けされた煮物など、見た目の可愛らしさばかりが重視される。
一方で、外食の煮物といえば、大量生産された既製品の濃いタレで煮詰められた、塩辛いだけのものが多い。
だが、俺が作るのは、素材の味を極限まで生かした、本物の定食屋の味だ。
まずは、新じゃがいも。皮を剥き、大きめにゴロゴロと切る。
そして、親父から教わった一番大事なポイント。
「角を丁寧に面取り(めんとり)する」。
じゃがいも同士が鍋の中でぶつかり合って、形が崩れるのを防ぐためだ。
人参、玉ねぎ、そして今回は少し奮発して、旨味の強い牛の薄切り肉を用意する。
鍋に少々の油を熱し、まずは牛肉をサッと炒めて旨味を鍋に広げる。
そこに玉ねぎ、人参、じゃがいもを投入。全体に油が回ったら、出汁を注ぐ。
味付けは「引き算」だ。
まずは砂糖とみりんを先に入れ、甘みを素材の芯まで染み込ませる。醤油を最初から入れると、塩分で素材の表面がコーティングされてしまい、中まで味が染み込まなくなるからだ。
「よし、あとは落とし蓋をして、弱火でコトコト……」
しばらくすると、醤油と出汁、そして玉ねぎの甘い香りが、湯気とともに店内に優しく広がっていく。
仕上げに火を止め、少し冷ます。
(煮物は、冷めていく過程で一番味が中まで染み込むんだ)
お皿に盛り付け、彩りにサッと茹でた絹さやを添える。
「お待たせしました。特製肉じゃが定食です」
染み渡る黄金の出汁、解けるエリートの仮面
目の前に置かれたのは、崩れることなく、しかし内側からじんわりと茶褐色に色づいた、美しい大ぶりのじゃがいも。
「肉じゃが……? 男性の手料理の定番、と言われているけれど……随分と、佇まいが静かだわね」
一ノ瀬は箸を入れ、じゃがいもを一口大に割った。
その瞬間、中から湯気とともに、出汁の優しい香りがふわっと立ち上る。彼女はそれを口に運んだ。
ほくっ……じゅわぁ……。
「――っ!?」
一ノ瀬の動きが、完全に止まった。
「何、これ……。信じられないくらい、柔らかくて、ホクホクしている……。なのに、外側は全然崩れていない。端正で美しいわ。そして……この味。甘すぎず、辛すぎず、お出汁と醤油の旨味が、じゃがいもの芯の芯まで、完璧に染み込んでいる……!」
彼女は続いて、クタクタになった玉ねぎと、旨味を吸った牛肉を一緒に口に入れた。
「あぁ……美味しい……。なんだろう、涙が出そう。派手な味じゃないのに、まるでお母さんや、優しい誰かに『大丈夫だよ』って抱きしめられているような……そんな温かさがあるわ。私が毎日食べていた、高級料亭の接待用の料理や、冷たいお弁当とは、根本的に何かが違う……」
張り詰めていた官僚としての「仮面」が、肉じゃがの温もりによって、ボロボロと剥がれ落ちていく。
「私……国を良くしたくて、みんなを幸せにしたくて、死に物狂いで勉強して、官僚になったの。でも、上司の顔色を窺って、中身のない書類ばかり作って……。今日、本当に悔しくて、自分が情けなくて……」
一ノ瀬の綺麗な目から、大粒の涙がポロポロと溢れ、カウンターに落ちた。
彼女は涙を拭おうともせず、肉じゃがを一口、長年修行を積んだ俺が炊き上げたツヤツヤの白米を一口、交互に口へと運び続けた。
食べるごとに、彼女の凍りついていた心が、じんわりと融解していく。
「……でも、気づいたわ。私が守りたかったのは、国会の中の権力闘争なんかじゃない。この、誰もが一日を終えて、温かいご飯を食べて『美味しい』って笑える、そんな当たり前の、ささやかな幸せなんだって」
彼女は肉じゃがを綺麗に完食し、残った美味しい出汁をご飯にかけて、最後の一粒まで愛おしそうに平らげた。
食後、すっかり表情の柔らかくなった一ノ瀬は、お茶を飲みながら、まっすぐな目で俺を見つめた。
「店主さん。……ありがとう。あなたの料理に、私の歪みかけていた信念を救われたわ。……ねぇ、もし私が、この先の出世争いに疲れて、官僚を辞めるようなことがあったら。……その時は、私をこの店で、一生雇ってくれないかしら? あなたの作るこの温かい世界を、私は特等席で、ずっと支えていきたいの」
「一ノ瀬さん、日本の未来がかかってるんですから、簡単に辞めないでくださいよ。ほら、明日も早いんでしょ? 元気出してください」
俺が苦笑いしながら言うと、彼女は「ふふ、そうね。明日からまた、あの泥臭い戦場へ戻るわ。でも、もう迷わない」と、いつもの凛とした、しかしどこか人間味のある美しい笑顔を取り戻した。
男は部屋で守られるだけでいい世界。女は外で戦い、すり減っていく世界。
だけど、そんな歪な社会の第一線で、孤独に戦う彼女たちの心を、俺の実家の、この一皿の肉じゃがが温められるのなら。
「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」
夜風が少し涼しくなった路地裏で、俺は「また明日も、頑張ってください」と、力強い足取りで帰っていく彼女の背中を見送るのだった。
『食事処 藤』特製・実家直伝のほっこり肉じゃが(2〜3人前)
材 料
牛薄切り肉(または豚バラ肉):150g(一口大に切る)
じゃがいも(メークインが崩れにくくておすすめ):3〜4個(大きめの乱切り)
玉ねぎ:1個(くし形切り)
人参:1/2本(乱切り)
絹さや(またはインゲン):4〜5枚(色味用:さっと塩茹でしておく)
サラダ油(または牛脂):大さじ1
【黄金比率の煮汁】
和風出汁(カツオと昆布):400ml(ひたひたになる位)
砂糖:大さじ2
みりん:大さじ2
酒:大さじ2
醤油:大さじ3(★後から入れます)
作り方
1. 野菜の下処理(見た目と食感を両立させる)
1 じゃがいもは大きめの乱切りにし、すべての角を包丁で薄く削り取るように「面取り」をします。その後、5分ほど水にさらしてアクを抜き、水気を切ります。
★劇中のプロの技!
面取りをすることで、鍋の中でじゃがいも同士がぶつかり合っても角が削れず、煮汁が濁るのを防ぎます。見た目も美しく、仕上がりの口当たりが格段になめらかになります。
2人参は小さめの乱切り、玉ねぎは1.5cm幅のくし形に切ります。
2. 肉と野菜を炒める(旨味のベース作り)
1 鍋にサラダ油(または牛脂)を熱し、強火で牛肉をサッと炒めます。
2 肉の色が少し変わったら、玉ねぎ、人参、じゃがいもを投入します。
3 全体に油がしっかりと回り、じゃがいもの表面が少し透明がかってくるまで中火でよく炒めます。これでコーティングされ、さらに煮崩れしにくくなります。
3. 「引き算」の味付けで煮込む
1 鍋に和風出汁、酒、みりん、砂糖を入れます。
2 ひと煮立ちしたら丁寧にアクをすくい取り、落とし蓋(アルミホイルでも可)をして、弱火でまず5分煮込みます。
★マスターのこだわりポイント
塩分(醤油)を先に入れると、素材の脱水が進んで中まで甘みが入りづらくなります。まずは砂糖の分子をじっくり肉やじゃがいもの芯まで染み込ませるのが、優しくて奥深い味にする秘訣です。
3 •5分経ったら醤油を加え、再び落とし蓋をして、汁気が大体1/3くらいになるまで弱火でさらに15〜20分コトコト煮込みます。
4. 【最重要】一度冷まして味を染み込ませる
1 じゃがいもに竹串がスッと通る硬さになり、汁気が少なくなったら火を止めます。
2 そのまま30分以上、一度完全に冷まします。
★親父直伝のコツ
煮物は「火が通る時」ではなく、「温度が下がっていく時」に食材の繊維が縮み、そこに煮汁がグングン吸い込まれていきます。この放置時間が、劇中の「芯まで味が染み込んだ状態」を作ります。
3 1食べる直前に再び温め直し、器に盛って塩茹でした絹さやを添えれば完成です!
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「肉じゃがってのは、男の家庭料理の定番なんて言われてるけど、本当に美味しく作ろうとすると、結構手間がかかるんだよね。でも、丁寧に角を落として、ゆっくり時間をかけて味を染み込ませたじゃがいもは、格別だよ。一ノ瀬さんみたいに心がすり減っちゃった夜は、これと白いご飯で、お腹の中から温まっていってよ」
家庭料理だねぇ〜肉じゃが良いねぇ〜




