第32話:職人の帰路と、真心詰まったひつまぶし(みなと食堂再生編・完結)
「――うん、完璧。渚さん、もう俺が教えることは何もないよ」
八重凪町に滞在して2週間。俺――藤崎 創の長い夏休みも、ついに最終日の朝を迎えていた。
厨房で並んで仕込みをする『みなと食堂』の店主・渚さんは、最初に出会った時のオドオドとした表情が嘘のように、凛とした職人の顔つきで包丁を握っている。
出汁の引き方、油の温度、そして何より「食べる人を笑顔にする」という料理人の心。彼女はその全てを、この短い期間でスポンジのように吸収してくれた。今や『みなと食堂』は、毎日開店前から大行列ができる、この沿海地方で知らない者はいない超人気店へと奇跡の復活を遂げていた。
「マスター、これ……帰りの電車の中で食べて!」
駅へ向かう直前、渚さんが顔を真っ赤にしながら、丁寧に風呂敷に包まれた竹皮のお弁当箱を俺に手渡してきた。
「えっ、お弁当? ありがとう」
「ううん、お礼を言うのは私の方! マスターに教わったことを全部詰め込んで、私なりに新しい八重凪の名物を作ってみたの。……口に合うか分からないけど、自信作だから!」
渚さんは少し潤んだ目で、だけど満面の笑顔で胸を張った。そこには、ただ守られるだけではない、一人のプロの料理人としての誇りと、俺への溢れんばかりの感謝が詰まっていた。
女帝たちの見送りと、譲れないそれぞれの野望
「ふん。まあ、今回はこのくらいで勘弁してやるかねぇ」
駅のホームには、この田舎の鄙びた駅には絶対に不釣り合いな、圧倒的なオーラを放つ二人の姿があった。
男物の着物を粋に羽織った地主のおばあちゃん(大旦那)と、一分の隙もない漆黒のタイトスーツを纏った天領グループ総帥・天領 馨だ。
「創、あんたのおかげで久しぶりに美味い夏休みが過ごせたよ。中央都に戻ったら、またすぐに私の物件(食事処 藤)に顔を出すからねぇ」
おばあちゃんが杖をトントンと突きながら、嬉しそうに笑う。
「……創」
馨さんが一歩前に進み出た。その冷徹なほどに美しい瞳の奥には、2週間、俺の料理を食べ続けたことで、より一層深く、狂おしいほどに煮詰まった『独占欲』がギラリと輝いていた。
「この2週間で、私は完全にあなたの味の奴隷になってしまった。ですが、覚えておきなさい。あなたを最後に手に入れ、私の本邸の最奥へ囲い込むのは、この私、天領馨です」
馨さんの冷たい指先が、俺の白シャツの襟元にそっと触れ、妖しく艶やかな唇を釣り上げる。
おばあちゃんとの睨み合い、そして渚さんたちのディフェンスによって今回は強奪を免れたが、彼女の『プロポーズ大戦争』への執念は、1ミリも衰えていなかった。
「はい。中央都のお店でも、いつでもお待ちしていますよ、馨さん。心を込めた定食を作りますから」
俺が全く物怖じせず、包み込むような優しい大人の笑顔で受け流すと、馨さんは「くっ……本当に、底の知れない男……っ!」と顔を真っ赤にして、悔しそうにそっぽを向くのだった。
特急列車の中、渚の『オリジナル魚弁当』が覚醒する
プルルルルル……と、都へ向かう特急列車の発車ベルがホームに鳴り響く。
窓の外で大きく手を振る渚さん、漁師たち、おばあちゃん、そして静かに見つめる馨さんの姿が、夏の終わりの青い空と海の中に小さくなっていく。
ガタゴトと揺れる車内、少し落ち着いたところで、俺は渚さんからもらったお弁当の風呂敷を解いた。竹皮の蓋を開けた瞬間――。
「――っ! これは……!」
車内に広がったのは、どこか懐かしくも、圧倒的に食欲をそそる香ばしい特製タレの匂い。
お弁当箱の中に敷き詰められていたのは、渚さんが考案したオリジナル魚料理――『八重凪黄金スズキの蒲焼きひつまぶし弁当』だった。
夏の八重凪で獲れた最高級のスズキの身を、創が教えた「霜降り」で完璧に臭みを抜き、絶妙な火入れでふっくらと焼き上げ、甘辛い特製醤油タレを何度も重ね塗りして美しく並べられている。横には、別の容器に入ったキンキンに冷えた特製和風出汁と、大葉、みょうが、ワサビの薬味まで添えられていた。
スプーンでスズキの身とご飯をすくい、まずはそのまま口へ運ぶ。
「……美味いっ!」
驚いた。ウナギやアナゴにも負けない、スズキの上質な脂の旨味が、甘辛いタレと合わさって口の中でフワホロと解けていく。皮目は香ばしく、身は驚くほどジューシーだ。
半分ほど食べたところで、添えられていた冷たいお出汁と薬味をサラサラと回しかけ、お茶漬け風にしてかき込む。
「っ……これ、最高だな……」
炙り味噌のコクが利いた冷たいお出汁が、スズキの脂を上品に包み込み、大葉とみょうがのキレが完璧な清涼感をもたらす。
それは、俺が教えた「アジの煮付け」の火入れと、「冷や汁」の応用を完璧に組み合わせた、渚さんだけの『新しい家庭の味』だった。
食べ進めるうちに、なんだか胸の奥がじんわりと熱くなる。
不味いからじゃない、本物の味を知らなかっただけの彼女が、ここまで立派な一品を作り上げた。料理人として、これほど嬉しいことはない。
「ごちそうさまでした。渚さん、最高の夏のお土産だよ」
空になったお弁当箱を愛おしそうに閉じ、俺は満足感と共にそっと目を閉じた。
数時間後。
すっかり日が落ち、いつもの喧騒とネオンが輝く中央都の路地裏。
俺は2週間ぶりに『食事処 藤』の前に立っていた。
夏休みを経て、素晴らしい食材と、渚さんの成長という最高の笑顔に出会ったことで、俺の職人としての腕も、心も、少しだけ逞しくなったような気がした。
「よし、明日からまた営業再開だな」
スマホの電源を入れた瞬間、千草さんからの「創!! 寂しくて死にそうだ!」という大量のメッセージと、一ノ瀬さんからの「店主さん、明日の一番乗りは私よ」という相変わらずの求婚混じりの連絡が画面を埋め尽くした。
都会の猛獣な女たちに、田舎でさらに化けた二大巨頭。
俺を巡る貞操逆転世界の熱狂は、これからさらに激しさを増していくのだろう。
だけど、どんなに世界が狂っていようと、俺のやるべきことはただ一つ。
「明日も早いし、さっさと仕込みを始めないとな」
俺は白シャツの袖を力強く捲り上げ、いつもの優しい厨房の灯りを灯した。
路地裏の孤高なる料理人の、さらなる激動と美味なる戦いの日々が、この中央都で再び幕を開けようとしていた。
渚の真心・黄金スズキの蒲焼きひつまぶし(2人前)
材 料
【フワホロ! スズキの香ばし蒲焼き】
スズキの切り身(またはマダイ、タラなどの白身魚):2切れ(約200g)
塩(下処理用):少々
小麦粉(薄力粉):適量
サラダ油:大さじ1
炊きたての温かい白米:2丼分
【渚の特製甘辛蒲焼きダレ】
醤油:大さじ2
みりん:大さじ2
酒:大さじ1
砂糖:大さじ1
【味を化けさせる冷たい特製お出汁】
和風合わせ出汁(昆布とカツオ、または煮干し出汁):300ml
麦味噌(または普通の味噌):小さじ1(★直火で少し炙っておく)
塩:ひとつまみ
【ひつまぶしの薬味】
大葉、みょうが、刻みネギ、ワサビ:各適量(お好みで)
作り方
1. スズキの下処理と隠し切り(タレを染み込ませる技)
1 スズキの切り身の両面に軽く塩を振り、10分置きます。にじみ出た水分(臭み)をキッチンペーパーで完全に拭き取ります。
2 スズキの皮目に、縦横に細かく格子状の切れ目(隠し切り)を入れます。
★渚の成長ポイント!
マスターから教わった下処理。さらに皮目に細かく切れ目を入れることで、焼いたときに皮が縮んで身が崩れるのを防ぎ、肉厚なスズキの奥まで特製ダレがトロリと絡んで染み込みやすくなるんだよ!
2. ふっくら香ばし蒲焼き(極上の火入れ)
1 スズキ全体に小麦粉を薄くまぶし、余分な粉はしっかりはたき落とします。
2 フライパンにサラダ油を熱し、皮目から中火でじっくり焼きます。皮がパリッと香ばしく焼けたらひっくり返し、身のほうもふっくらと焼き上げます。
3 両面が焼けたら、混ぜ合わせた【特製甘辛蒲焼きダレ】をフライパンに一気に投入します。
4 強火でお玉を使い、泡立つタレをスズキの表面に何度も何度も回しかけながら、タレがとろりとして照りが出るまで煮詰めます。
3. 特製冷やし出汁の仕込み(冷や汁の応用)
1 小さじ1の味噌をアルミホイルに薄く伸ばし、トースターや直火で少し焦げ目がつくまで炙ります。
2 温かい和風出汁に、炙った味噌と塩ひとつまみを加えて完全に溶かし、一度沸騰させたら冷蔵庫(または氷水)でキンキンに冷やしておきます。
★ここが創直伝の技!
30話でマスターが作った「冷や汁」の炙り味噌のコクを、お出汁に応用したの。ただの出汁茶漬けじゃなくて、ほんの少しの炙り味噌が、スズキの上質な脂のコクを何倍にも引き立ててくれるんだから!
4. 盛り付けと「ひつまぶし」の楽しみ方
1 お弁当箱(または丼)に温かい白米をよそい、フライパンに残った蒲焼きのタレを軽く回しかけます。
2 2の蒲焼きスズキを1.5cm幅の食べやすい大きさに切り、ご飯の上に美しく敷き詰めます。
渚からの美味しい食べ方アドバイス
『マスター、電車の席に座ったら、まずはそのままガブッと食べてみて!』
・一膳目: スズキの身のフワフワ感と、甘辛いタレ、そして皮目のパリッとした香ばしさをダイレクトに楽しんでね。
・二膳目(薬味をのせて): 大葉やみょうが、ネギをたっぷり散らして、ワサビを少し添えてみて。一気に夏らしくさっぱりした味に変わるから!
・三膳目(冷やし出汁茶漬け): 最後に、ボトルに入れたキンキンに冷えた特製お出汁をドバッと回しかけて、サラサラッとかき込んで! 炙り味噌のコクと冷たさが、蒲焼きの脂を最高に上品に洗い流してくれるの。
これが、私がマスターのおかげで見つけた『みなと食堂』の新しい味。都に戻っても、私のこの味、絶対に忘れないでね!」




