第3話:深夜の「おむすび」と、お忍び警察署長の秘
社畜OLの凛が新たな常連に加わってから、さらに数週間。
『食事処 藤』の評判は、驚くほど静かに、しかし確実に口コミで広がっていた。とはいえ、男一人で切り盛りする店だ。パトロンであるおばあちゃんの睨みも効いているため、客層は「本当に美味い飯と安らぎ」を求める、マナーの良い、だけど少し強面の働く女性ばかりになっていた。
ある日の深夜。
千草たちが引き揚げ、そろそろ暖簾を片付けようかという午前0時前。
ガラガラ、と引き戸が遠慮がちに開き、長身の女性が滑り込んできた。
キャップを深く被り、トレンチコートの襟を立てた、いかにも「お忍び」といった風体の美女だ。
コートの隙間からチラリと覗いたのは、濃紺の警察制服。それも胸元には、一般の警官にはあり得ないほどの重厚な階級章が輝いている。
(……この街の警察署長、神楽坂さんか)
実は彼女も、週に一度、深夜の閉店間際にだけやってくる隠れた常連だった。
彼女はこの管轄のトップ。日々、凶悪犯罪や組織の抗争、そして何より「希少な男性の保護(誘拐・ストーカー対策)」に頭を悩ませ、24時間気が休まらない過酷な役職に就いている。
「……藤崎さん、まだ、大丈夫かしら……?」
「神楽坂さん、お疲れ様です。ちょうど暖簾をしまうところでしたけど、大丈夫ですよ。中へどうぞ」
「すまない、助かるわ……」
彼女は深く息を吐きながら帽子を脱いだ。きりっとした美しい顔立ちには、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「今夜は……その、すまないが、いつものアレをお願いできるかしら。あまり食欲がなくてね」
「分かりました。特製のおむすびと、豚汁ですね」
職人の手解き:優しく握る「命の塊」
この世界において、男性は「愛でられ、保護される対象」だ。
そのため、男の手料理自体が超絶レアなのだが、それがもし「男性が手ずから握ったおむすび」となれば、この世界の女性たちにとっては『高嶺の花の最高級品』、あるいは『あまりに尊すぎて畏れ多い神聖な食べ物』に等しい。普段彼女たちが口にするのは、工場で機械がガチガチに圧縮した、冷たくて硬いコンビニのものばかりなのだから。
だが、俺が握るのは、そんな飾り立てられた芸術品ではなく、ただの「美味い飯」だ。
まずは、炊き立ての熱々の白米をボウルに移し、全体に軽く塩を振る。
手はあらかじめ氷水で冷やし、清潔な状態から塩を薄く馴染ませる。
「熱っ、つ、つ……」
米粒を潰さないよう、手のひらで包み込むようにして、優しく、優しく。
形を整えるためではなく、「米の間に空気を閉じ込めるため」に、たった3回だけ優しく力を加える。そうして握られたおむすびは、外側は形を保っているが、口に入れた瞬間にハラリとほどける絶妙な硬さになる。
具材は、自家製の梅干しと、醤油でじっくり煮詰めたおかか。
それを、パリッとした上質な焼き海苔でくるりと包む。
「お待たせしました。鮭と梅のおむすび。それから、根菜たっぷりの豚汁です」
目の前に並べられたのは、海苔の香ばしい香りが立ち上る、ふっくらとした特大のおむすび2個。
そして、ゴボウ、大根、人参、豚肉の旨味が溶け込んだ、アツアツの具沢山豚汁だ。
「ありがとう……いただくわ」
神楽坂は、その大きな手で「至高の宝物」を扱うかのように細心の注意を払いながらおむすびを持ち上げ、美しい口元を開いてガブッと一口齧った。
口の中でほどける、至高の癒やし
はらり……。
口に含んだ瞬間、米粒が優しく解け、お米本来の甘みと塩気、そして中からじゅわっと酸っぱい梅の旨味が広がった。
「――っ!?」
神楽坂の身体が、一瞬で弛緩していく。
張り詰めていた肩の力が完全に抜け、彼女の目から一筋の涙が頬を伝った。
「美味しい……。なんて優しいの。機械が握った冷たいおにぎりとは、完全に別物だわ。口の中でご飯がフワッと解けて、海苔の香りと具材が完璧な調和を保っている……。男の人が、こんなに力強く、かつ繊細で温かいものを握れるなんて……」
彼女は夢中で2個目のおむすび(鮭)に手を伸ばし、今度は豚汁をズズッと啜った。
「あぁ……この豚汁も素晴らしい。ゴボウの香ばしさと豚肉の甘みが、味噌のコクと合わさって、冷え切った身体に染み渡るわ。今日、男性の誘拐未遂事件の指揮を執っていてね……。男という希少な存在を暴力で奪おうとする、女たちのドス黒い強欲さに、ほとほと嫌気がさしていたの。でも……」
神楽坂は、おむすびを愛おしそうに見つめながら、俺をそっと見上げた。
「あなたのこの温かいおむすびを食べると、世界はまだ捨てたものじゃないって思えるわ。私は、この優しい味と、それを作るあなたの平和を守るために、街の治安を維持しているのかもしれない」
彼女はおむすびを綺麗に完食し、豚汁を最後の一滴まで飲み干すと、ふぅ、と深い満足の溜息を漏らした。
接着、真剣な目付きで俺を見つめ、カウンター越しにそっと手を重ねてきた。
「藤崎さん。公権力(警察)のトップとして、私はあなたに提案したい。……この店に、24時間体制で私の直属のSPを配備させてくれないかしら。もちろん、費用はすべて私持ちで。そして……できれば、私個人のプライベートな空間(自宅)で、私のためだけに、このおむすびを毎晩握ってほしいの。あなたのような尊い男性は、外に出してはいけないわ……」
「神楽坂さん、職権乱用で現行犯逮捕になっちゃいますよ? ほら、冷たいお茶です」
俺が苦笑いしながらお茶を差し出すと、彼女は「あ、あらすまない……。つい本音が」と、普段の冷徹な署長からは想像もつかないほど顔を真っ赤にして、慌ててお茶を飲み干した。
男は危険に晒されるだけの存在。男の手料理なんて滅多に拝めない奇跡。
そんな、誰もが張り詰めて生きている歪んだ世界だけど、深夜の路地裏で、ボロボロになった街の守護神の心を、この二つのおむすびが救えるのなら。
俺は今日も、火傷しそうな熱い白米に向かって、優しく手を合わせる。
「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」
そう呟きながら、俺は「お疲れ様でした」と、少しだけ元気になった彼女を笑顔で見送るのだった。
『食事処 藤』口の中でハラリとほどける『至高のおむすび』
材 料(2個分)
炊きたての白米:お茶碗2杯分(やや硬めに炊くのがおすすめ)
塩(できれば粗塩):適量
焼き海苔(上質なもの):2枚
お好みの具材:梅干し、鮭、おかかなど
作り方
1 ご飯の準備
炊きたての熱い白米をボウル(またはバット)に移し、全体に軽く塩を振ってさっくりと混ぜます。
2 手を冷やす
あらかじめ手を氷水でキンキンに冷やし、清潔なふきんで水気を拭き取ります(熱いご飯を素早く扱うためと、余計な水分を米に移さないためです)。
3 空気を包むように握る(たった3回!)
ご飯を1個分手に取り、手のひらを「くぼみ」を作るように丸めます。
• 1回目:形をなんとなく三角に整える。
• 2回目:上下をひっくり返して角を整える。
• 3回目:最後に優しく包み込んで、形をキープさせる。
4 海苔を巻く
握りたてのおむすびに、パリッとした焼き海苔をくるりと巻き、少し馴染んだら完成です。
五臓六腑にしみわたる『具沢山豚汁』
材 料(2〜3人前)
豚バラ肉(薄切り):100g(一口大に切る)
大根:3cm(いちょう切り)
人参:1/3本(半月切り)
ごぼう:1/3本(ささがきにして水にさらす)
長ネギ:1/2本(斜め薄切り)
油揚げ:1/2枚(短冊切り)
ごま油:大さじ1
和風出汁(カツオ・昆布):400ml
味噌(合わせ味噌):大さじ2〜2.5(お好みで調整)
作り方
1 野菜と肉をしっかり炒める
鍋にごま油を熱し、豚バラ肉を炒めます。肉の色が変わったら、水気を切ったごぼう、大根、人参を加え、全体に油が回って大根が少し透き通るまでじっくり炒めます。
2 出汁で煮込む
和風出汁を加え、沸騰したらアクを丁寧にすくい取ります。火を弱火にし、野菜が柔らかくなるまで10分ほどコトコト煮込みます。
3 仕上げの具材を投入
油揚げと長ネギを加え、ネギがしんなりするまでさらに2〜3分煮ます。
4 味噌を溶く
一度火を止め、味噌を網などで丁寧に溶き入れます。
5 「煮え端」で火を止める
再び弱火にかけ、鍋のフチが「ふつふつ」と小さく湧き立った瞬間(煮え端)に火を止めます。これで味噌の香りが最高に引き立ちます。
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「深夜に食べるおむすびと豚汁って、なんであんなに染みるんだろうね。おむすびをガブッと齧って、口の中でごはんがハラハラ解けたところに、熱い豚汁をズズッと流し込む。神楽坂さんみたいに、一日の疲れが全部溶けていく感覚を、ぜひ試してみてよ」
もう深夜か、お腹空いたなぁ〜
そんな時!いかがかな?




