第24話:深夜の勝手口と、世界を牛耳る『天領の女』
「……誰ですか、こんな時間に」
橙色の街灯すら届かない勝手口の闇の中。
突如として現れた高級スーツの女性に、俺――藤崎 創は、お茶の入ったコップを握り直して警戒を強めた。
冷徹なほどに整った顔立ち。一分の隙もない漆黒のタイトスーツ。そして、この世界の一般的な『働く女性』とは一線を画す、圧倒的な王者の風格。
大旦那のおばあちゃんを初めて見た時とも違う、国家を裏で動かしているような凄まじい威圧感が、その女性の細い身体から立ち上っていた。
女性は、俺の警戒を意に介する風でもなく、月明かりの下で妖しく目を細めた。
「自己紹介が遅れましたね。『天領大御祭』の総裁、そして――天領グループの現総帥、天領 馨です。東條の上司、と言えば分かりやすいでしょうか」
「総裁……っ!?」
俺は思わず息を呑んだ。
あの最大大手の祭典を裏で統括し、日本経済の頂点に君臨する巨大財閥のトップが、なぜこんな薄汚れた路地裏の勝手口に一人で立っているんだ。
馨さんはゆっくりと歩みを進め、俺の目の前で足を止めた。彼女の纏う高級な香水の匂いに混じり、ほんのりと、俺が昼間に揚げまくった『唐揚げ』の匂いが漂う。
「お祭りの会場で、あなたの揚げた唐揚げを一口いただきました。……驚きましたよ。フカヒレやトリュフを傲慢に並べ立てた高級店たちが、あなたの『肉汁の爆弾』一粒に、完膚なきまでに叩き潰されていた。高級食材のメッキを剥ぎ取り、女たちの野生の本能を剥き出しにさせる、恐ろしい男の料理……」
馨さんの手が、すっと伸びてくる。
俺の白い調理服の襟元に触れ、そのまま、油の熱気でほんのり上気した俺の首筋へと、冷たい指先が滑った。
「藤崎創。あなたがこの路地裏でどれだけ身を隠そうと、もう遅い。あの祭りで、世界の中心はあなたを見つけてしまった。……警告に来たのです。近いうち、あなたを『男の最高峰』として、無理やり自分のハーレムに囲い込もうとする欲深き大企業や政界の女たちが、この店に大挙して押し寄せるでしょう」
「っ……!」
貞操逆転世界の『最高権力者』からの現実味を帯びた警告に、俺の背筋に冷たいものが走る。
だが、馨さんの指先は、俺の顎をそっと持ち上げ、その冷徹な瞳の奥に、ギラリとした強烈な『独占欲』を煮立たせた。
「有象無象の泥棒猫どもに、あなたのその逞しい腕も、その美しい笑顔も、安売りされるのは我慢ならない。……どうですか? 襲われる前に、私の完全な庇護下に入りなさい。私の総資産の半分をあなたに与え、誰も手の届かない私の本邸の奥深くで、私のためだけに、その狂おしい肉汁を注ぎ続けてほしい」
一ノ瀬さんや千草さんのプロポーズとはスケールが違う。
国を買い取れるほどの財力と権力を持った女からの、有無を言わせぬ『究極の囲い込み』の要求だった。
職人の拒絶と、最高権力者の『不敵な笑み』
顎を掴まれ、逃げ場のない至近距離。
普通の男なら、その圧倒的な覇気に恐怖するか、あるいは一生遊んで暮らせる富に目が眩んで、その場で彼女の足元に跪くだろう。
だが、俺は――ゆっくりと、だけど確実に、馨さんの冷たい手を自分の手で優しく包み込み、顎から引き離した。
「……馨さん。忠告、ありがとうございます」
俺は白シャツの袖をきゅっと引き締め、まっすぐに彼女の瞳を見返した。
その目は、権力に怯える男の目ではなく、己の城を守る『一人の職人』の目だった。
「でも、お断りします。僕はどこまで行っても、この路地裏の小さな定食屋の店主なんです。大きなお祭りを経験して分かったのは、僕は世界の頂点に立ちたいわけじゃない。一ノ瀬さんや千草さん、そしてこの街のお腹を空かせた人たちが、僕の作ったご飯を食べて『美味い!』って笑顔になってくれる。それを見るのが、僕の生きがいなんです」
俺はいつものように、裏表のない、飾らないナチュラルな笑顔を馨さんに向けた。
「だから、誰か一人のものになって、奥に閉じこもるわけにはいかないんです。……あ、もしよければ、今度は勝手口じゃなくて、お昼の営業時間にお店に来てください。馨さんのために、心を込めて温かい定食を作りますから」
「――――」
馨さんは目を見張り、完全に絶句した。
世界を意のままに動かしてきた自分が、路地裏の男料理人に完璧に拒絶されたのだ。しかも、その圧倒的な包容力と無邪気な笑顔で、優しく諭されるように。
静寂が路地裏を包み込む。
やがて、馨さんの端正な顔が、見たこともないほど愉しげに、そして狂おしいほどの情熱を帯びて歪んだ。
「くっ……ふふ、あはははは!」
彼女は細い肩を震わせ、声を上げて笑った。
「素晴らしい……! 権力にも富にも屈せず、その逞しい肉体と腕前一つで、世界を等しく振るってみせる。やはりあなたは、私が一生を賭けてでも手に入れるべき『本物の大物』だ。ますます、他の女に渡したくなくなりましたよ」
馨さんは不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと闇の中へと下がっていく。
「いいでしょう。今回は引き下がります。ですが、覚えておきなさい。天領の女が、一度目をつけた獲物を諦めることはありません。あなたのその頑なな職人魂が、いつまで私の愛に耐えられるか……楽しみにしていますよ、創」
彼女の気配が完全に消えた後、俺は大きく息を吐き、夜空を見上げた。
「……はぁ。なんだか、とんでもない女の人に目をつけられちゃったな」
千草さんや一ノ瀬さんだけでも手一杯なのに、ついにこの世界の頂点に立つ大物まで動き出してしまった。
だけど、どんなに世界が狂っていようと、どんな巨万の富が押し寄せようと、俺のやるべきことはただ一つ。
「明日も早いし、さっさと寝て仕込みを頑張らないとな」
俺は勝手口の鍵を閉め、いつもの優しい厨房の灯りを消した。
世界を揺るがす大事件の後夜祭は終わり、路地裏の職人の前には、さらなる激動と熱狂に満ちた、新しい朝が近づきつつあった。




