第18話:麗しき歌姫の声帯疲弊と、喉を潤す極上とろとろ五目あんかけうどん
21時半。いつもなら常連客で賑わう『食事処 藤』のカウンターの一角に、深く帽子を被り、大きな大きなサングラスと大きなマスクで顔を完全に隠した女性が座っていた。
彼女の名前は、美空つばさ。圧倒的な歌唱力と表現力で世界中を魅了する、今をときめく「超人気国民的ディーヴァ(歌姫)」である。
女が圧倒的なカリスマでステージを支配し、男はそれを熱狂的に応援するのがこの世界のエンタメ界。彼女は数日後に、自身初となるスタジアム世界ツアーの大規模な初日公演を控えていた。しかし、連日の超過酷なリハーサルとプレッシャーのせいで、彼女の命とも言える「声」が完全に枯れ果て、声帯が限界を迎えていた。喉の激痛と精神的な絶望感から、ここ数日は冷たい水しか喉を通っていない。
「……私の歌が歌えないなんて。もう、すべて終わりよ」
掠れた、今にも消え入りそうな声でポツリと呟く。
「いらっしゃいませ。……って、喉、すごく辛そうですね。お喋りはしなくて大丈夫ですよ」
俺――藤崎 創が、いつもと変わらない飾らない笑顔で、冷たいお水の代わりに、はちみつを少しだけ溶かした温かい白湯をそっと差し出す。
つばさは驚いてサングラスの奥の目を見開いた。彼女の周りにいる男たちは、彼女の華やかな「歌姫」の肩書きに群がるか、機嫌を取ろうと必死に貢ぎ物をしてくるファンばかり。だが、俺の目はただ純粋に、目の前で喉を痛めて苦しんでいる一人の女の子を、心から心配していた。
白シャツの袖を捲り、静かに、だけど手際よく大根の皮を剥いている俺の腕。実直に料理と向き合ってきた男らしい逞しさと、包み込むような温もりがある。
(なんなの、この男……。私が誰かも気にしていない。ただ、私の喉を労わって、こんなに優しい目を向けてくれる……)
「……マスター。私、もう何も食べられないわ。喉が焼けるように痛くて、固形物なんてとても……。でも、明日もリハーサルがあるの。私のこの『壊れかけた喉』を優しく包んで、身体の芯から力を湧き立たせるようなものを、作れるかしら……」
歌姫が掠れた声で絞り出した、悲痛なアンコール。
俺は「よし、任せて。喉に一切負担をかけないで、元気になるやつ、今すぐ作るからね」と頼もしく笑い、厨房のコンロに優しく火をつけた。
メニューは、傷ついた喉を極上の優しさで潤し、枯渇した体力を100%回復させる、『特製・生姜香るふわとろ五目あんかけうどん定食だ。
職人の手解き:その手仕事は、どんな極上のバラードよりも優しく
つばさは、厨房で無駄なく、だけど驚くほど丁寧に動く俺の姿を、吸い寄せられるように見つめていた。
俺が取り出したのは、カツオと昆布、そして鶏ガラからじっくりと引いた極上の合わせ出汁。
そこへ、極薄にスライスした白菜、人参、椎茸、そして細切れの鶏むね肉を投入する。具材をあえて小さく、薄く切ることで、喉に引っかからずにスルリと流れるようにするための工夫だ。
出汁がひと煮立ちしたところで、みりん、薄口醤油、そしてすりおろしたばかりの新鮮な生姜をたっぷりと加える。
トントン……コトコト……じゅわああぁ……
優しい出汁の香りと、生姜の爽やかな香気が湯気とともに優しく店内に広がっていく。つばさの鼻腔を優しく包み込み、彼女の喉が自然と潤いを求めてゴクリと鳴る。
「ここから、魔法をかけるよ」
俺は水溶き片栗粉を少しずつ回し入れ、出汁を極上の「とろとろの餡」に仕上げていく。そこに、極細の柔らかめのうどんを泳がせ、最後に優しく溶いた卵を回し入れた。
ふわっとお皿に咲く黄金色の卵の花。その一切の無駄がない手つきは、彼女がステージで披露する完璧な歌唱ギミックと同じくらい、美しくて圧倒的に男らしく、格好良かっ。
熱々の器に盛り付け、仕上げに少量の三つ葉を添えて、彼女の目の前に差し出した。
「お待たせしました! 特製五目あんかけうどんです。熱いから、ゆっくりフーフーして、喉を温めながら食べてみて」
歌姫の完全解凍、そしてステージ上での「専属プロデューサー」宣言
目の前に現れたのは、優しく湯気を立ち上げ、黄金色のとろとろの餡が美しく輝く五目うどん。
つばさは震える手で蓮華を持ち、とろみのあるスープをそっと口に運んだ。
はぐっ……ツルン……じゅわあああぁ……っ!
「――ーーーっっっ!!!!」
つばさの脳内で、世界中のどのスタンディングオベーションよりも劇的な感動(癒やし)が広がった。
「美味しい……っ!! 喉が、私の身体が、極上のベールで包まれていくみたい……!!」
彼女はなりふり構わず、マスクも帽子も脱ぎ捨てて、美しい素顔を晒したまま、猛烈な勢いでうどんをすすり始めた。
「お出汁の優しい旨味の後に、生姜のポカポカとした熱量が喉をじっくりと潤していく……! 餡がとろとろだから、傷ついた喉をまったく刺激せずに、するするとお腹に入っていくわ! 小さく切られたお野菜と柔らかいお肉の旨味が、全部この一杯に凝縮されてる……! 美味しい、温かい、私の声帯が、みるみる蘇っていくのがわかるわ……! ああ、だめ、美味しすぎて涙が止まらない……っ!」
食べるごとに、孤独に戦う国民的歌姫の重い仮面がとろとろに崩れ落ちていく。
気づけば彼女の頬はポッと赤くなり、潤んだ瞳で「はぁ……」と熱く艶っぽい吐息を漏らしながら、俺のことを激しく、愛おしそうな眼差しで見つめていた。
最後の一滴まで汁を飲み干し、すっかり綺麗な、鈴の転がるような美声を取り戻したつばさは、ガタッと立ち上がり、カウンター越しに俺の手をがしっと両手で掴んだ。
「創さん……っ! 私、次のライブのステージで、貴方にプロポーズするわ……っ!」
「ええっ!? し、美空さん!? ステージでそんなことしたら大騒ぎになりますよ!」
「もう歌姫の座なんてどうでもいい! 私のこれからのこの声は、世界中のファンのためじゃない、毎日私にこんなに優しくて涙が出るほど美味しいご飯を作ってくれる、創さんへの『愛の歌』を歌うために使うの! だから……お願い、私の『専属プロデューサー(だんな様)』になって! 私のすべての利権も、何百億の資産も、これからの歌人生も、全部貴方に捧げるから! 毎日、私の隣で、その優しい笑顔を見せて……っ!」
世界を熱狂させるトップディーヴァが、一人の定食屋のあんちゃんに完全にメロメロになり、人生のすべてを賭けたプロポーズを迫ってくる。
「あはは、何百億なんて僕にはお釣りが出すぎちゃいますよ」
俺は本気で困惑して、照れくさそうに頭を掻きながら笑った。
「僕はただの定食屋ですから。美空さんみたいに、世界の中心で孤独に戦って、声が出なくなるほどボロボロになった人が、うちのご飯を食べて『よし、また世界に私の歌を届けるぞ!』って笑顔になってくれるのが、一番の幸せなんです。だから、誰か一人のものにはなれません。……でも、もしまた歌うのが怖くなったり、喉が寂しくなったら、いつでもお腹を空かせて帰ってきてください。また、最高に温かい一杯を作って待ってますからね」
俺がいつものように、飾らないナチュラルな笑顔で優しく語りかけると、つばさは「うぅ……そんな無邪気な笑顔で私の100点満点の告白を受け流すなんて、どこまで罪作りな男なの……っ!」と、胸を押さえて真っ赤になって俯いてしまった。
女が世界の中心で声を張り上げ、男はただそれを陰から優雅に支えるのが当然の世界。
だけど、どんなに孤独な世界の歌姫であっても、俺が心を込めて作った一皿と、飾らない素顔の前では、ただ一人の男の腕の中に飛び込みたい、愛らしい女の子に変えることができる。
「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」
お茶を淹れ直しながら、俺は「初日公演、応援してますね」と、すっかり喉も心も完璧に潤い、何度も愛おしそうに振り返りながら帰っていく彼女の背中を、夜の路地裏でいつまでも温かく見送るのだった。
『食事処 藤』特製・生姜香るふわとろ五目あんかけうどん(1人前)
材 料
うどん(冷凍または柔らかめの生麺):1玉
鶏むね肉(または鶏もも肉):40g(薄めのひと口大に切る)
白菜:大判1枚(葉はざく切り、芯は薄切り)
人参:2cm分(短冊切り、または極薄切り)
椎茸:1枚(薄切り)
卵:1個(よく解きほぐしておく)
三つ葉(または万能ネギ):少々(仕上げ用)
水溶き片栗粉:片栗粉大さじ1+水大さじ2
【優しさが染み渡る極上スープ】
和風出汁(カツオと昆布の合わせ出汁):400ml
薄口醤油(なければ普通の醤油):大さじ1
みりん:大さじ1
酒:大さじ1
塩:ひとつまみ
おろし生姜(命の隠し味):小さじ1(お好みで増量してね!)
作り方
1. 下準備(喉を労わる職人の優しさ)
1 鶏肉、白菜の芯、人参、椎茸は、喉をスルリと通り抜けるように、すべて「薄く・小さめ」に切り揃えます。
2 卵はボウルに割り入れ、白身を切るようにしっかり解きほぐしておきます。
3 水溶き片栗粉(片栗粉大さじ1、水大さじ2)を合わせておきます。
2. 具材を出汁でコトコト煮る
1 鍋に和風出汁400mlと、硬めの具材(鶏肉、人参、白菜の芯、椎茸)を入れて中火にかけます。
2 沸騰したらアクを丁寧に取り除き、弱火にして【極上スープ】の調味料(薄口醤油、みりん、酒、塩、おろし生姜)を加えます。
3 白菜の葉の部分を加え、野菜がクタクタに柔らかくなるまで約4〜5分コトコト煮込みます。
★マスターのこだわりポイント
おろし生姜をこの段階でスープにしっかり馴染ませることで、角が取れてまろやかになり、出汁の旨味と一体化します。これが、焼けるように痛む喉にじんわりと染み渡る優しさの秘密です。
3. とろみをつけて卵を咲かせる
1 野菜が柔らかくなったら一度火を止めます。水溶き片栗粉をもう一度よく混ぜてから、鍋に少しずつ回し入れます。
2 再び中火にかけ、お玉で優しく混ぜながらしっかりと沸騰させ、スープ全体にツヤのある綺麗なとろみをつけます。(完全に沸騰させることで、後から水っぽく戻るのを防げます)
3 スープがグツグツと沸いているところへ、解きほぐした卵液を円を描くように細く少しずつ流し込みます。
4 卵がふわっと浮き上がってきたら、大きく1〜2回お玉で混ぜて火を止めます。
4. うどんと合わせて仕上げる
1 別の鍋で茹でてしっかり湯切りした熱々のうどん(冷凍うどんならレンジ加熱でもOK)を器に盛ります。
2 その上から、鍋の熱々とろとろの五目生姜餡を贅沢にたっぷりと回しかけます。
3 仕上げに三つ葉を中央にあしらえば完成です!
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「あんかけうどんを最高に優しく仕上げるコツは、卵を入れる前に『しっかり強めのとろみ』をつけておくこと。こうすると、流し込んだ卵が出汁の底に沈まず、スープの中でふわふわの綺麗な花みたいに広がるんだよね。つばささんみたいに、喉が痛くて固形物がしんどい時でも、このとろとろの餡がお肉やお野菜を包み込んでくれるから、噛まずにするする食べられちゃうよ。熱いからゆっくり、喉を内側から温めるようにハフハフ食べてみてね!」
『食事処 藤』特製・完全手打ち絹肌うどん(1〜2人前)
材 料
中力粉(うどん用粉。なければ中力粉の代わりに、小麦粉の「薄力粉」と「強力粉」を1:1で混ぜてもOK):200g
ぬるま湯:90ml(※季節や室温によって微調整)
塩:10g(小さじ2)
打ち粉(片栗粉):適量
作り方
1. 塩水を作り、粉をまとめる
1 ぬるま湯90mlに塩10gを入れ、粒が完全になくなるまでよーく混ぜて「塩水」を作ります。
2 大きめのボウルに中力粉200gを入れます。そこへ塩水を3回に分けてまわし入れます。
3 1回入れるごとに、指先を熊手のように立てて、円を描くようにシャカシャカと混ぜます。手のひらでギュッとこねるのではなく、粉全体に水分を行き渡らせて「そぼろ状(パン粉のような状態)」にするのがポイントです。
2. 優しくこねて、しっかり寝かせる(なめらかさの秘密)
1 全体に水分が回ってポロポロしてきたら、手のひらで一まとめにギュッと凝縮するように押し固め、一つの塊にします。
2 ボウルから取り出し、まな板の上で、手の付け根を使って奥へ押し出すように5分ほどこねます。表面が少しなめらかになればOKです。
3 生地を丸めてビニール袋に入れ、袋の空気を抜いて閉じます。
4 そのまま室温で「1時間」じっくり寝かせます。
★マスターのこだわりポイント
今回は喉が痛いつばささんのためのうどんだから、足で踏んでコシを強くしすぎちゃダメ。その代わり、1時間しっかり寝かせることで、小麦粉のグルテンが自然と緩み、まるでお餅のように柔らかく、シルクのようになめらかな「絹肌」に仕上がるんだ。
3. 生地を伸ばして、細めに切る
1 寝かせ終えた生地を袋から取り出します。(驚くほどしっとり柔らかくなっているはずです)
2 まな板と生地の表面に、打ち粉(片栗粉)をたっぷりめに振ります。
3 麺棒を使い、生地を中央から外側へ向かって、均一に薄く伸ばしていきます。目標の厚さは約2〜3mm。いつもより少し薄めを意識します。
4 伸ばした生地の表面にさらに打ち粉を振り、互い違いにパタパタと3〜4重に折り畳みます。
5 包丁を使い、「幅2mm程度」の細めに切っていきます。切ったらすぐに麺を優しくほぐし、全体に打ち粉をまぶして麺同士がくっつかないようにします。
4. 茹で上げる(絶妙な柔らかさに)
1 大きめの鍋にたっぷりの湯をグラグラに沸かします。(湯が少ないと麺がドロドロになるので注意!)
2 麺についた余分な打ち粉をササッと落とし、沸騰した湯に一気に入れます。
3 麺が浮き上がってくるまで優しく箸でほぐし、少し火力を弱めて約8〜10分茹でます。
★茹で加減の妙手
いつもなら冷水で締めてコシを出すけど、今回は傷ついた声帯を温めたいから、茹で上がったうどんをザルに上げたら、冷水には通さず、そのまま熱湯でサッと表面のヌメリを洗い流す「湯だめ(釜揚げ風)」にします。
あとは前回の「五目生姜あんかけ」と合体!
熱々で、箸で持つとぷるぷると震えるくらい柔らかく打った手打ちうどんを器に盛ります。
そこへ、前回のレシピで作った「鶏肉とお野菜たっぷりの熱々とろとろ五目生姜餡」を上から贅沢にドバドバとかければ、つばささんが一口食べて涙を流した、本物の『食事処 藤』の一杯が完成です!
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「粉から自分で打ったうどんはね、市販の冷凍うどんとは香りと喉越しが全然違うんだよ。足で踏まない代わりにしっかり寝かせた麺は、口当たりがびっくりするほど優しくて、噛まなくてもお口の中でとろけちゃう。これに熱々の生姜あんかけが絡んだら、もう最高。つばささんみたいに『もう戦えない……』ってくらい心も身体もボロボロの時に、この世界で一番優しい手作りの温もりを、フーフーしながらゆっくり喉に滑り込ませてあげてね!」




