第15話:氷のフィギュア女王の焦りと、火力を宿す極上麻婆豆腐
21時。夜風に夏の匂いが混じり始めた『食事処 藤』のカウンター。
そこに、異様なまでのピンと張り詰めた空気を纏い、冷たいお茶をただ見つめている女性がいた。
彼女の名前は、白鳥麗華。世界選手権を連覇し、数日後に今シーズン最大の国際大会を控えた、世界ランク1位のトップフィギュアスケーターである。
女がリンクの上で力強く、美しく跳び、男はそれを優雅にサポートするのがこの世界のフィギュア界。彼女は「絶対女王」として完璧な演技を求められ続けていたが、ここ数日、最終ジャンプの調子がどうしても戻らず、激しい焦りとスランプに苦しんでいた。精神的なストレスから食欲も完全に減退し、スケーターとしての体型維持と、エネルギー不足の狭間で心身ともに限界を迎えていたのだ。
「……マスター。私、もう跳べないかもしれないわ」
絶対女王らしからぬ、弱々しい声がポツリと漏れる。
「いらっしゃい、白鳥さん。テレビでいつも応援してるよ」
俺――藤崎 創が、いつもと変わらない飾らない笑顔で声をかける。
麗華は少し驚いたように顔を上げた。この世界の男たちが自分に向けるのは、ミーハーな黄色い悲鳴か、自分を高く売り込むための計算高い微笑みばかり。だが、俺の目はただ純粋に、一人の疲れた客を心配する温かさに満ちていた。
白シャツの袖を捲り上げ、次の仕込みのために大きな鉄鍋をゴシゴシと力強く洗う俺の腕。実直に料理と向き合ってきた男らしい逞しさがある。
(なんなの、この人……。私の肩書きにも、容姿にも全く気後れしていない。ただ、私の心が凍りついているのを、全部見透かしているみたい……)
「……お願い、マスター。今の私、心も身体も完全に冷え切って、情熱の火が消えかかっているの。明日からのリンクに立てるような、何か強烈な刺激をちょうだい……」
氷の女王の、悲痛なSOS。
俺は「よし、任せて」と頼もしく笑い、ずしりと重い中華鍋をコンロに据えた。
メニューは、凍りついた心と身体を一瞬で沸騰させる、『特製・地獄極楽の本格麻婆豆腐定食』だ。
職人の手解き:その手際は、リンクの上のステップよりも鮮やかに
麗華は、厨房で無駄なく、しかし驚くほどダイナミックに動く俺の姿を、吸い寄せられるように見つめていた。
俺が取り出したのは、新鮮な豚ひき肉、滑らかな絹ごし豆腐、そして特製の醤の数々。
中華鍋を煙が出るまでガンガンに熱し、油を馴染ませる。そこへ粗みじんにしたニンニク、生姜、そして豆板醤、甜麺醤を投入!
ジューーーーッ!!! バチバチバチッ!
豪快な音とともに、鼻を突く唐辛子の辛みと、発酵した醤のコク深い香りがブワッと店内に広がった。麗香の喉が、自然とゴクリと鳴る。
「ここからが本番だよ」
俺は逞しい腕で重い中華鍋をガツン、ガツンとリズミカルに振り、ひき肉をカリカリになるまで炒めて旨味を凝縮させていく。その姿は、彼女が氷上で踏む完璧なステップと同じくらい、無駄がなくて圧倒的に男らしく、格好良かった。
鶏ガラスープを注ぎ、あらかじめ湯通ししてぷるぷるにした豆腐を投入。
仕上げに、本場四川の「花椒」を、これでもかとミルで挽いて振りかける。
ザバァァァッ!!!
立ち上る激しい湯気とともに、痺れるような爽快な香りが店内の空気を完全に支配した。
「お待たせしました。特製麻婆豆腐。熱いから気をつけて!」
氷の女王の解凍、そして情熱のプロポーズ
目の前に現れたのは、真っ赤なラー油の海に、黄金色のひき肉とツヤツヤの豆腐が浮かび、仕上げの花椒が黒く輝く、見るからに狂暴な麻婆豆腐。
麗華は震える手でスプーンを持ち、フーフーと息を吹きかけ、思い切り口に運んだ。
はぐっ……ぷるん……じゅわあああぁ!
「――ーーーっっっ!!!!」
麗華の脳内で、今までにないほどの熱い熱量が爆発した。
「美味しい……っ!! 身体の奥から、ドクドクとマグマが湧き上がってくるみたい……!!」
彼女はなりふり構わず、大盛りの白米の上に麻婆豆腐を豪快にぶっかけ、猛烈な勢いとかき込み始めた。
「豆板醤のガツンとした辛さの後に、甜麺醤の濃厚な甘みとひき肉の旨味が追いかけてくる! そしてこの、舌が痺れるような花椒の刺激……っ! 辛いのに、痺れるのに、スプーンが全然止まらないわ! お豆腐が驚くほど滑らかで、熱々のタレと一緒に喉をスルリと通り抜けていく……! ああ、だめ、頭の中まで真っ白に熱くなっていくわ……!」
食べるごとに、冷徹な絶対女王の仮面がとろとろに溶けていく。
気づけば彼女の白い肌はポッと上気し、潤んだ瞳でハァハァと熱い吐息を漏らしながら、俺のことを激しく、狂おしいほどの眼差しで見つめていた。
最後の一粒まで綺麗に平らげ、ぷはぁ、と熱い息を吐き出した麗華は、ガタッと立ち上がり、カウンター越しに俺の白シャツの胸元をがしっと両手で掴んだ。
「創さん……っ! 私を貴方の『専用リンク』にして……っ!」
「ええっ!? し、白鳥さん!?」
「もう点数や順位なんてどうでもいい! 私のこれからのスケートは、毎日私にこんなに熱くて情熱的なご飯を作ってくれる、創さんのためだけに捧げるわ! だから……お願い。私のお婿さんになって。私の全てのメダルも、富も、名誉も、全部貴方にあげる。だから毎日、貴方のその逞しい腕で、私を強く抱きしめて……っ!」
世界最高峰のフィギュア女王が、一人の定食屋のあんちゃんに完全にメロメロになり、人生を賭けたプロポーズを迫ってくる。
「あはは、メダルをもらっても飾る場所に困っちゃいますよ」
俺は本気で困惑して、照れくさそうに頭を掻きながら笑った。
「僕はただの定食屋ですから。白鳥さんみたいに、世界の舞台で孤独に戦って、心が凍りつきそうになった人が、うちのご飯を食べて『よっしゃ、もう一丁頑張るか!』って笑顔になってくれるのが、一番の幸せなんです。だから、誰か一人のものにはなれません。……でも、もしまたジャンプに迷ったら、いつでも熱いもの食べに帰ってきてください。また、特製の大盛りを作って待ってますからね」
俺がいつものように、飾らないナチュラルな笑顔で優しく語りかけると、麗華は「うぅ……そんな無垢な笑顔で私の情熱を受け流すなんて、どこまで罪作りな男なの……っ!」と、胸を押さえて真っ赤になって崩れ落ちてしまった。
女が世界の舞台で美しく跳び、男はそれをただ陰から見守るのが当然の世界。
だけど、どんなに冷徹な氷の絶対女王であっても、俺が心を込めて作った一皿と、飾らない素顔の前では、ただ一人の男の愛に身を焦がす、愛らしい女の子に変えることができる。
「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」
冷たいお水をおかわりしながら、俺は「金メダル、期待してますね」と、すっかり心も身体も現役トップのアスリートの輝きを取り戻し、何度も愛おしそうに振り返りながら帰っていく彼女の背中を、夏の夜風の中で、いつまでも温かく見送るのだった。
『食事処 藤』特製・地獄極楽の本格麻婆豆腐(2人前)
材 料
絹ごし豆腐(またはお好みで木綿):1丁(約300〜350g)
豚ひき肉:150g
長ネギ:1/2本(みじん切り)
万能ネギ(仕上げ用):適量(刻んでおく)
サラダ油:大さじ1
ごま油(仕上げ用):大さじ1/2
水溶き片栗粉:片栗粉大さじ1+水大さじ2
花椒(ホアジャオ・粉末):たっぷり(お好みの量)
【悪魔の旨辛ベース(薬味・醤)】
にんにく(みじん切り):1片分
生姜(みじん切り):1片分
豆板醤:大さじ1(辛味の主役)
甜麺醤:大さじ1(コクと甘みの主役)
【極楽の黄金スープ】
水:200ml
鶏ガラスープの素(顆粒):小さじ1
酒:大さじ1
醤油:大さじ1/2
作り方
1. 下準備(お豆腐をぷるぷるにする裏技)
1 豆腐は2cm角のさいの目に切ります。
2 鍋にたっぷりのお湯を沸かし、塩ひとつまみ(分量外)を加え、切った豆腐を静かに入れます。弱火で約1〜2分、豆腐が優しくお湯の中で踊るくらいまで温め、ザルに上げて水気を切っておきます。
★マスターのこだわりポイント
豆腐を塩湯で下茹でしておくことで、豆腐の余分な水分が抜けて弾力が出ます。これで、後から中華鍋で炒め合わせるときにボロボロに崩れず、口当たりが驚くほど「ぷるぷる」の極上食感になります。
2. ひき肉を育てる(肉の旨味を凝縮!)
1 フライパン(または中華鍋)にサラダ油大さじ1を熱し、豚ひき肉を入れます。
2 中火〜強火で、ひき肉をほぐしながらじっくり炒めます。肉の色が変わってもやめず、肉から出た脂が透明になり、パチパチと音がしてひき肉が少しカリッとするまでしっかり炒め焼きにします。
3 カリカリになった肉を少し脇に寄せ、空いたスペースに【悪魔の旨辛ベース】(にんにく、生姜、豆板醤、甜麺醤)を加えます。弱火にして、醤が油に溶け込んで香ばしい匂いが立つまでじっくり炒め合わせます。
3. スープを入れて煮込む
1 香りが立ったら強火に戻し、【極楽の黄金スープ】の材料(水、鶏ガラスープの素、酒、醤油)を一気に注ぎ入れ、ひと煮立ちさせます。
2 スープが沸いたら、水気を切っておいた豆腐を静かに加えます。
3 フライパンを優しく揺すりながら(お玉の背で優しく押すように)、弱火で2〜3分煮込んで、豆腐の芯まで熱と旨味を入れます。みじん切りにした長ネギを加えます。
4. 仕上げ(とろみと痺れの波状攻撃)
1 一度火を止めます。水溶き片栗粉をもう一度よく混ぜてから、鍋全体に少しずつ回し入れます。
2 再び強火にかけ、フライパンを大きく揺すりながら、全体にとろみをつけます。しっかり沸騰させて片栗粉に完全に火を通すことで、時間が経っても水っぽくなりません。
3 仕上げに鍋肌からごま油大さじ1/2を回し入れ、お皿に豪快に盛り付けます。
4 上から刻んだ万能ネギを散らし、仕上げに花椒をこれでもかとたっぷり挽いて振れば完成です!
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「麻婆豆腐をプロの味にする一番のコツは、ひき肉を『これでもか!』ってくらいカリカリになるまで炒めること。お肉の水分を飛ばして旨味を凝縮させることで、スープに入れたときに最高のダシが出るんだよね。白鳥さんみたいに、ここ一番の勝負を控えてプレッシャーでガチガチになっちゃった時は、この熱くて痺れる麻婆豆腐をフーフー言いながら白飯にぶっかけて、汗をかきながらガツガツ食べてみて。身体の奥からドカンと情熱が湧いてくるからさ!」




