第12話:若き天才女医の限界と、悪魔的にそそるニンニク背脂チャーハン
20時。いつもなら常連客の笑い声で賑わう『食事処 藤』だが、今夜は奇妙な静けさに包まれていた。カウンターの中央で、白衣を羽織ったまま、疲れ切った顔で虚空を見つめている女性がいたからだ。
彼女の名前は、氷室冴子。弱冠20代にして、数々の難手術を成功させてきた総合病院の「天才外科医」である。
この世界では、医療の最前線で命を救うのもすべて女性の仕事。彼女は「失敗は許されない」という冷徹なプレッシャーを毎日背負い、睡眠時間を削ってメスを握り続けていた。だが今夜は、理不尽な医療訴訟の危機と、救えなかった命への無力感に打ちのめされ、心も身体も完全に限界を迎えていた。
「……私の手は、何のためにあるのかしら」
細く美しい、だけどどこか冷え切った指先を見つめ、ポツリと呟く。張り詰めた神経のせいで、ここ数日は栄養ゼリーしか喉を通っていない。噂を頼りにふらりと入ったものの、メニューを眺める彼女の瞳には、深い諦めが滲んでいた。
「マスター。私に、何も考えなくて済むような、とにかく強いアルコールを。食べ物は結構よ。今の私の胃袋じゃ、油物はおろか、普通の食事すら受け付けないから」
エリートゆえの、頑なな自己防衛。
だけど、そんな彼女の指先がカタカタと小さく震え、顔色が透き通るほど青ざめているのを、俺――藤崎 創は見逃さなかった。
俺は黙って、お酒ではなく、温かい緑茶を彼女の前に置いた。
「お酒の前に、まずはお茶で一息ついてください。氷室さん、手がすごく冷たいですよ。……お腹、空いてないって言いましたけど、今の氷室さんの身体に必要なの、栄養ゼリーじゃないです。僕を信じて、少しだけお腹を空かせて待っててくださいね」
「なっ……私の診断を否定する気? 私は医者よ、自分の身体の管理くらい――」
反論しようとした冴子だったが、俺の顔を見て、それ以上言葉が続けられなくなった。
上辺だけの同情じゃない。ただ「お腹を空かせた人を助けたい」という、純粋で真っ直ぐな目。探りを入れるような計算もない。そして、白シャツの袖を捲り上げ、中華鍋を掴むその手元には、彼女のメスと同じくらい、職人としての誇りと温かさが宿っていたからだ。
(なんなの、この男……。私の警告を無視するなんて。それなのに……どうしてそんなに、全部を見透かしたような優しい顔で笑うのよ……)
冴子が戸惑っている間に、俺は「よし」と頷いて厨房へ向かった。
冷え切った心と疲れた胃袋に、強制的に本能の飢えを呼び覚ます悪魔のご馳走――『特製・ニンニク背脂スタミナチャーハン』だ。
職人の手解き:その手際は、メスよりも優しく
冴子は、厨房で無駄なく、しかし驚くほどダイナミックに動く俺の姿を、吸い寄せられるように見つめていた。
この世界の男が料理をするときは、いかに自分が小さく、守ってあげたい存在であるかをアピールするのが普通だ。だが、俺は違った。毎日重い中華鍋を振り、市場で仕入れをする俺の腕には、自然と男らしい、頼りがいのある筋肉がついている。
俺はカンカンに熱した中華鍋に、自家製の旨味たっぷりの背脂と、たっぷりの刻みニンニクを投入した。
ジューーーーッ!!! バチバチバチッ!
豪快な音が店内に響き渡る。ニンニクが黄金色に色づいたところで、卵とご飯を一気に投入。
俺は逞しい腕で、重い中華鍋をガツン、ガツンとリズミカルに振り始めた。米粒一つ一つがパラパラに躍動し、背脂のコクをまとっていく。
仕上げに、自家製の刻みチャーシューとネギを加え、醤油を鍋肌から一気に回し入れた。
ザバァァァッ!!!
立ち上る激しい湯気とともに、香ばしい焦がし醤油の匂いと、ニンニク背脂のガツンとパンチのある香りが、一瞬で店内の空気を支配した。
「……っ。信じられない。私、油物なんて見ただけで胃が拒絶するはずなのに……どうしてこんなに、喉が鳴ってしまうの……?」
冴子は信じられないというように自分の胸元を押さえた。何日も何も受け付けなかったはずの彼女の胃袋が、俺がチャーハンを煽る音と匂いだけで、今までにないほど猛烈に「食べたい」と自己主張を始めている。
ツヤツヤと輝く熱々のスタミナチャーハンをどんぶりに盛り付け、スープを添えて彼女の目の前に差し出した。
「お待たせしました。特製スタミナチャーハンです。冷めないうちに、フーフーしてがっついちゃってください!」
鉄壁の外科医、完全敗北の恋
目の前に置かれたのは、背脂のコクを纏って黄金色に輝く、ニンニクたっぷりのチャーハン。
冴子は震える手でスプーンを持ち、我慢できずに思い切り一口、口に運んだ。
はぐっ……ぱくっ……じゅわああぁ……っ!
「――っっっ!!!!」
冴子の身体が、雷に打たれたようにビクッと跳ね上がった。
「……美味しい。信じられない、美味しいわこれ……っ!!」
彼女は、いつもなら人前で見せることのない剥き出しのパッションで、スプーンを猛烈な勢いで動かし始めた。
「お米の一粒一粒に、ニンニクのパンチと背脂の圧倒的な旨味が染み込んでる……! なのに、大粒のチャーシューの肉汁とネギのシャキシャキ感で、全然飽きがこないわ。むしろ、食べるほどに細胞がパチパチと目覚めて、元気が湧いてくる……! ああ、だめ……頭の芯まで、美味しさでとろけていく……っ!」
食べるごとに、冷徹な天才医の仮面がバラバラに崩れ落ちていく。
気づけば彼女の白い肌はポッと上気し、潤んだ瞳でハァハァと熱い吐息を漏らしながら、俺のことを激しく、狂おしいほどの眼差しで見つめていた。
冴子は突然、カウンター越しに俺の手をがしっと両手で掴んだ。その手はさっきの冷たさが嘘のように熱く、激しく震えている。
「創さん……っ! 私、もう病院なんて辞めるわ……っ!」
「ええっ!? 氷室さん、急に何を言い出すんですか!」
「私のこの手は、他人の命を救うためにあるんじゃない。これからは、毎日私にこんなに優しくて最高にエネルギーの湧くご飯を作ってくれる、創さんの健康を一生管理するために使うの! 創さんの『専属主治医(お嫁さん)』にさせて! 病院の権利だって、私の財産だって、何千万、何億でも貴方に貢ぐわ! だから毎日、私の隣で笑って、私のためだけに料理を作って……っ!」
鉄の意志を持つ天才外科医が、一人の定食屋のあんちゃんに完全にメロメロになり、人生のすべてを投げ打って迫ってくる。
「あはは、お医者様を辞めちゃダメですよ」
俺は本気でびっくりして、照れくさそうに頭を掻きながら笑った。
「僕はただの定食屋ですから。氷室さんみたいに、外で誰かの命のために戦って、ボロボロになった人が『あー、美味しかった!』って笑顔になれる場所を、ここで守るのが仕事なんです。だから、誰か一人のものにはなれません。……でも、もしまた手が震えそうになったら、いつでもここへ逃げてきてください。その時は、また元気になるご飯を作って待ってますから」
俺がいつものように、飾らないナチュラルな笑顔で優しく語りかけると、冴子は「うぅ……そんな無邪気な笑顔で私のプロポーズを断るなんて、どこまで罪作りな男なの……っ!」と、胸を押さえて真っ赤になって俯いてしまった。
女が命の最前線で戦い、男はただか弱く庇護されるのが当然の世界。
外で戦う鉄の女医であっても、俺の心を込めた一皿と、飾らない素顔の前では、ただ一人の男の腕の中に飛び込みたい、愛らしい女の子に変えることができる。
「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」
お茶を淹れ直しながら、俺は「明日も、患者さんたちをよろしくお願いしますね」と、すっかり心も身体もエネルギーに満ち溢れ、何度も愛おしそうに振り返りながら帰っていく彼女の背中を、夜の路地裏でいつまでも温かく見送るのだった。
『食事処 藤』特製・ニンニク背脂スタミナチャーハン(1人前)
材 料
温かいご飯:大盛り1杯分(250g程度 ※少し硬めに炊いたものがベスト)
豚背脂(または市販の背脂チューブ、なければ豚身の脂身や牛脂でも可):大さじ2〜3(約30g)
にんにく:2〜3片(粗みじんでたっぷり!)
卵:1個
チャーシュー(または豚バラ肉):50g(1cmの角切り)
長ネギ:1/3本(みじん切り)
サラダ油:小さじ1(フライパンのコーティング用)
塩・コショウ:少々
【悪魔のスタミナ調味料】
醤油:大さじ1
鶏ガラスープの素(顆粒):小さじ1
みりん:小さじ1/2
黒コショウ:しっかり多めに!
作り方
1. 下準備(香りとコクを最大に引き出す)
1 にんにくは食感を残すために少し粗めのみじん切りにします。長ネギは細かめのみじん切り、チャーシューはゴロゴロ感を出すために1cm角に切ります。
2 卵はボウルに割り入れ、軽く数回だけ解きほぐしておきます。
3 【悪魔のスタミナ調味料】(醤油、鶏ガラスープの素、みりん)をあらかじめ小さな器に混ぜ合わせておきます。
2. 背脂とにんにくのベースを作る
1 フライパンにサラダ油小さじ1と、細かく刻んだ豚背脂、粗みじんにんにくを入れて弱火にかけます。
2 じっくり時間をかけて熱し、背脂から旨味のある油を溶かし出し、にんにくがキツネ色になって香りがパチパチと立つまで炒めます。
★マスターのこだわりポイント
ここで焦らず弱火で加熱することで、油全体ににんにくのパンチと背脂の甘みがガッツリ移ります。これが、スプーンが止まらなくなる悪魔的な味のベースになります。
3. 一気に煽る(強火でパラパラに!)
1 にんにくが良い色になったら、火力を強火に上げます。
2 角切りにしたチャーシューを加えてサッと炒め、脂がまわったら、溶き卵を一気に流し込みます。
3 卵が半熟の「ジュワッ」とした状態のうちに、すかさず温かいご飯を投入します。
4 木べらやレードルでご飯を切るようにほぐしながら、フライパンを大きく振って、背脂のコクを米粒一つ一つにコーティングしていきます。全体の水分を飛ばすようにガツンと煽りましょう。
4. 仕上げ(焦がし醤油の波状攻撃)
1 ご飯がパラパラに炒まったら、みじん切りの長ネギを加え、塩・コショウで味を整えます。
2 最後に、混ぜ合わせておいた【スタミナ調味料】をフライパンの鍋肌から円を描くように一気に回し入れます。
3 ジューーーッ!と醤油が焦げる香ばしい煙が立ったら、2〜3回豪快にフライパンを振って全体に味を馴染ませ、仕上げに黒コショウをたっぷり振ります。
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「チャーハンをパラパラにするコツは、冷やご飯じゃなくて『温かいご飯』を使うこと。それと、調味料を最後に入れるときは、ご飯に直接かけるんじゃなくて、鍋肌にジュワッと当てて少し焦がすのがポイント。ニンニクと焦がし醤油の香りが立って、それだけで理性がぶっ飛ぶような匂いになるからさ。冴子さんみたいに頭も身体も疲れ切っちゃった時は、カロリーなんて気にせず、これをハフハフ言いながら胃袋にかき込んで、泥のようにぐっすり眠るのが一番の特効薬だよ!」




