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貞操逆転世界の孤高なる料理人「男ですが、路地裏で定食屋はじめました」  作者: たうやん


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第11話:女社長の焦燥と、優しさが染みる鉄鍋肉豆腐

21時。夜の賑わいが一段落し、涼しい夜風が暖簾を揺らす『食事処 藤』。

いつもなら神楽坂や千草が賑やかにグラスを傾けている時間だが、今夜は少し違っていた。カウンターの端で、高級なシルクのブラウスのボタンを少し緩め、眉間に深いシワを寄せながらスマホを睨みつけている女性がいた。

彼女の名前は、白金しろかね葵。このエリア一帯の商業ビルをいくつも所有する、若き不動産会社の社長だ。

常に合理的で、結果がすべて。「男は守り、養うべき資産」と割り切り、恋愛もビジネスライクにこなしてきた彼女だが、今夜は新プロジェクトの融資交渉が決裂し、激しい焦燥感と孤独感に苛まれていた。

「……はぁ。どいつもこいつも、私の肩書きしか見てないわね」

冷え切った声で呟き、スマホをカウンターに伏せる。張り詰めた神経のせいで、もう何日もまともな食事を受け付けていない。噂を聞いてふらりと入ったものの、メニューに並ぶ「定食」の文字に、彼女は自嘲気味に鼻を鳴らした。

「マスター。私に、この張り詰めた頭を限界まで麻痺させるような、強いお酒をちょうだい。食事はいらないわ。どうせ今の私の胃袋じゃ、何も受け付けないから」

エリートゆえの頑なな拒絶。

だけど、そんな彼女の指先が冷房のせいか微かに震え、顔色がひどく青ざめているのを、俺――藤崎ふじさき はじめは見逃さなかった。

俺は黙って、お酒ではなく、温かい自家製のほうじ茶を差し出した。

「お酒の前に、まずはこれ飲んで温まってください。白金さん、すごく身体が冷えてますよ。……お腹、空いてないって言いましたけど、あったかくて、お腹に負担がかからないやつ、今すぐ作りますから。ちょっとだけ僕に預けてくれませんか」

「なっ……勝手なことを言わないで。私はお酒を――」

言い返そうとした葵だったが、俺の顔を見て、言葉が喉に詰まった。

きらびやかなおもてなしの笑顔じゃない。ただ「目の前の人を放っておけない」という、嘘のつけない真っ直ぐな目。そして、注文を断られたのに、少し困ったように優しく微笑む、その飾らない温かさ。

(なんなの、この男……。私の命令に従わないなんて。それなのに……どうしてそんなに、優しい顔で私を見るのよ……)

葵が気圧されている間に、俺は「よし」と小さく頷いて調理場へ向かった。

張り詰めた頭と疲れた胃袋を、芯からじんわりと解きほぐす最高の和食――『特製・鉄鍋肉豆腐定食』だ。

職人の手解き:無骨な優しさが、心の氷を溶かしていく

葵は、厨房で無駄なく、しかしどこか手際よく動く俺の姿を、吸い寄せられるように見つめていた。

この世界の男が料理をする時は、いかに自分が小さく、可愛らしく見えるかを意識するものだ。だが、俺は違った。

大きめの木綿豆腐を、手際よく厚切りにする。あえて崩れにくい木綿を使うことで、出汁を極限まで吸わせるためだ。

合わせるのは、程よく脂ののった牛バラ肉。これをサッと湯通しして余分な脂を落とし、アクを完璧に取り除く。

小さめの鉄鍋に、カツオと昆布から引いた極上の一番出汁、醤油、みりん、そしてほんの少しの練り生姜を加える。

「ここから、一気に味を入れていきますね」

出汁がふつふつと沸いた鉄鍋に、豆腐とたっぷりの長ネギ、そして牛バラ肉を投入。

強火で一気に煮立たせ、出汁の旨味を具材の芯まで凝縮させていく。

コトコトコトコト……じゅわああぁ……

鉄鍋から立ち上る、お出汁の優しくも芳醇な香りと、甘辛い醤油の匂い。五臓六腑を刺激するその香りが、店内に優しく広がっていく。

「……っ。信じられない。ただの肉豆腐なのに、どうしてこんなに、胸が締め付けられるような匂いがするの……?」

葵の喉が、自然とゴクリと鳴った。何日も何も受け付けなかったはずの胃袋が、俺の作る料理の匂いだけで、猛烈に歓声を上げ始めている。

一煮立ちした鉄鍋に、仕上げにさっと春菊を添え、熱々のまま彼女の目の前に差し出した。

「お待たせしました。特製肉豆腐です。フーフーして、ゆっくり食べてくださいね」

完全降伏、そして社長室への「略奪宣言」

目の前でグツグツと音を立てる、薄茶色の美しい出汁に浸かった肉豆腐。

葵は震える手で箸を持ち、出汁をたっぷり吸って今にも崩れそうな豆腐を、そっと口に運んだ。

はぐっ……じゅわあああぁ……っ。

「――っっっ!!!!」

葵の目から、一筋の涙がポロリとこぼれ落ちた。

「……美味しい。美味しいわ、これ……っ!!」

彼女は、いつもなら人前で見せることのない剥き出しの感情で、今度は牛バラ肉と長ネギを白飯の上に乗せ、猛烈な勢いで口にかき込み始めた。

「お豆腐の芯まで、驚くほど濃厚なお出汁が染み込んでる……! なのに全然くどくなくて、生姜の香りがすっと身体を温めてくれるわ。お肉も柔らかくて、ネギの甘みとお出汁が絡んで、白いご飯がいくらでも入っちゃう……! ああ、だめ……張り詰めていた頭が、どんどんフニャフニャになっていく……っ!」

食べるごとに、冷徹な女社長の仮面が完全に剥ぎ取られていく。

気づけば彼女の頬はポッと赤くなり、トロンとした潤んだ瞳で、俺のことを激しく熱い眼差しで見つめていた。

「創さん……私、決めたわ。貴方を私の『最高経営責任者(だんな様)』にする」

「ええっ!? 白金さん、急に何を……!」

「私の会社も、ビルも、全財産も、すべて貴名義にしてあげる。だから……今すぐそのエプロンを脱いで、私の家に来て。毎日、私が外でいくら傷ついても、貴方がこの笑顔で、この温かい肉豆腐を作って待っていてくれるなら……私は世界中のどんなビジネスだって成功させてみせる。貴方を誰にも渡したくない……っ! 私に一生、甘えさせて……っ!」

百戦錬磨の敏腕社長が、一人の定食屋のあんちゃんに完全にメロメロになり、会社の所有権を差し出して迫ってくる。

「あはは、ビルをもらっても僕には管理できませんよ」

俺は本気で困ったように、照れくさそうに笑いながら頭を掻いた。

「僕はただの定食屋ですから。白金さんみたいに、外で一生懸命戦って、ボロボロになった人が『あー、美味しかった』って元気になれる場所を、ここで守るのが仕事なんです。だから、誰か一人のものにはなれません。……でも、またいつでも、心が寒くなったら温まりにきてください。いつでも、熱々を用意しておきますから」

俺がいつものように、飾らないナチュラルな笑顔で優しく語りかけると、葵は「うぅ……そんな風に優しく私を包み込むなんて、どこまで罪作りな男なの……っ!」と、顔を真っ赤にして両手で顔を覆ってしまった。

女が前線で戦い、男はただ愛らしく家庭に収まるのが美徳とされる世界。

だけど、どんなに孤独な戦いを続ける鉄の女社長であっても、俺の作る温かい一皿と、飾らない素顔の前では、ただ一人の男の腕の中に飛び込みたい、愛らしい女の子に変えることができる。

「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」

冷えたほうじ茶を淹れ直しながら、俺は「明日のお仕事、応援してますね」と、すっかり心も身体も温まり、何度も名残惜しそうに振り返りながら帰っていく彼女の背中を、夜の路地裏でいつまでも温かく見送るのだった。







『食事処 藤』特製・鉄鍋肉豆腐(2人前)

材 料

木綿豆腐:1丁(しっかり水切りしておく)

牛バラ薄切り肉(または豚バラ肉):150g(食べやすい大きさに切る)

長ネギ:1本(1cm幅の斜め切り)

春菊(または水菜):1/2束(5cm長さに切る)

【優しさが染みる特製出汁】

和風出汁(カツオと昆布の合わせ出汁):300ml

醤油:大さじ2.5

みりん:大さじ2.5

酒:大さじ2

砂糖:大さじ1

おろし生姜(隠し味):小さじ1/2

作り方


1. 下準備(ここでお豆腐に差が出ます!)

1 木綿豆腐はキッチンペーパーに包み、耐熱皿に乗せて電子レンジ(500W)で約2分加熱し、軽く重石をしてしっかり水切りをします。水気を抜くことで、出汁の旨味をグングン吸い込むようになります。

2 水切りした豆腐を、食べ応えのある厚めのひと口大(6〜8等分)に切ります。

3 牛バラ肉は食べやすい大きさに切った後、サッと熱湯に潜らせて冷水に取り、アクと余分な脂を抜いておきます。


★マスターのこだわりポイント

お肉を一度湯通ししておくことで、出汁が濁らず、すっきりとした上品な味に仕上がります。疲れた胃袋にも一切もたれない、優しい肉豆腐にするためのひと手間です。


2. コトコト煮込む(出汁の波状攻撃)

1 鍋(あれば小ぶりの鉄鍋や土鍋)に【優しさが染みる特製出汁】の材料(出汁、醤油、みりん、酒、砂糖、おろし生姜)をすべて入れ、中火にかけます。

2 ひと煮立ちしたら、水切りした豆腐と斜め切りにした長ネギを入れます。

3 再び沸騰したら弱火にし、落としまたはアルミホイルをして約10分じっくりコトコト煮込みます。お豆腐がほんのり薄茶色に染まるまで、出汁を吸わせてください。


3. お肉を合わせて仕上げる

1 豆腐に味が染みたら、湯通ししておいた牛バラ肉を隙間に広げるように加えます。

2 お肉に出汁が馴染むまで、弱火のままさらに2〜3分煮込みます。

3 最後に春菊を添え、サッと火が通ったらすぐに火を止めます。


店主(創)からのワンポイントアドバイス

「お豆腐は少し面倒でも、しっかりレンジで水切りをしてから煮込んでみて。これだけで、お出汁の染み込み方が全然違って、噛んだ瞬間に口の中で『じゅわぁっ』って旨味が溢れるようになるからさ。葵さんみたいに、外で肩肘張ってボロボロになるまで戦っている人にこそ、この熱々の肉豆腐をハフハフ言いながら食べて、心も身体もぽかぽかに温まってほしいな!」

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