第10話:歌姫の極秘のサボりと、黄金出汁の限界カツ丼
「……はぁ。もう、歌いたくないなぁ……」
22時を過ぎた『食事処 藤』。夜のピークが落ち着いた店内に、大きめのキャスケット帽を目深に被り、丸眼鏡をかけた女性がポツリと座っていた。
彼女の名前は、ディーヴァ。世間では「100年に1人の歌姫」と称され、スタジアムを即完売させる超人気トップシンガーだ。
男がアイドルのように愛でられるこの世界で、彼女は「強さとカリスマ性を兼ね備えた憧れの女性」として、周囲の過剰な期待を一人で背負い続けていた。今夜はついにその重圧に耐えかね、予定されていた深夜のレコーディングを文字通り「サボって」、この路地裏の定食屋へ逃げ込んできたのだった。
「いらっしゃい。……って、もしかしてディーヴァさん?」
俺――藤崎 創が、お茶を差し出しながら尋ねる。テレビや街の看板で嫌というほど見る顔だ。気づかれた彼女は、一瞬と身構えたが、俺の顔を見てその警戒はすぐに解けた。
仕込み用の大きな寸胴鍋を軽々と持ち上げ、額の汗を実直に拭いながら、「よくうちの店見つけてくれたね、寒くない?」と、まるで普通の女の子を気遣うように、あったかい笑顔を向けてくれたからだ。
「……気づいちゃった? でも、お願いだから今は内緒にして。本当に疲れちゃったの。毎日毎日、完璧な『歌姫』を求められて……喉はカラカラ、お腹はペコペコなのに、ダイエットのためにサラダしか食べさせてもらえなくて……」
眼鏡の奥の瞳が、今にも泣き出しそうに潤んでいる。
「そっか。いつもみんなのために歌って、戦ってるんだもんね。本当にお疲れ様」
俺は変にもてなしたり、サインをねだったりもしない。ただ、頑張っている彼女を労わるために、いつもの優しい手つきで厨房へ向かった。
「お腹が減ってるなら、これしかないな。衣装のサイズなんて明日考えればいいよ。今夜は思いっきり、ガッツリいこう!」
俺が冷蔵庫から取り出したのは、程よく脂ののった上質な豚ロース肉。
今夜のメニューは、誰もが理性を失ってかき込みたくなる定食屋の最高峰、『特製・黄金出汁のふわとろカツ丼』だ。
職人の手解き:ただ、美味しいものを届けたいから
ディーヴァは、カウンター越しに俺の後ろ姿をじっと見つめていた。
この世界の男が料理を作るときは、可愛く見せるためにカメラを意識したり、か弱さをアピールしたりするものだ。だけど、俺の背中はたくましく、ただ「目の前の人を元気にしたい」という純粋な熱意に溢れている。
豚肉の筋を丁寧に切り、リズミカルに肉叩きで叩く音。
小麦粉、卵液、生パン粉の順に迷いなく纏わせ、170度の油へ静かに滑り込ませる。
サクゥゥゥゥ……シュワワワワ……!
油の心地よい音が店内に響き、香ばしい衣の匂いが広がっていく。
カラリと揚がったカツを、包丁で「ザクッ、ザクッ」と小気味よく切り分ける。
(あぁ、なんて綺麗な手つきなんだろう。あの人の手から作られるものなら、絶対に美味しい……)
彼女の喉が、自然とゴクリと鳴った。
丼鍋に、カツオと昆布が贅沢に香る特製の一番出汁、醤油、みりんを合わせ、薄切りの玉ねぎを煮る。
玉ねぎがしんなりとしたところで、主役のカツを投入。
そして、仕上げの卵。
俺は卵を完全に溶きほぐさず、白身と黄身のグラデーションを残したまま、カツの上から円を描くように優しく回し入れた。
三つ葉をあしらい、炊きたての白米の上に滑らせるように盛り付ける。
「お待たせしました! 特製カツ丼です。どんぶり熱いから気をつけてね」
解放される歌姫、狂おしいほどの恋心
目の前に現れたのは、黄金色の出汁を吸ってツヤツヤと輝く卵、その隙間から顔を出す、サクサク感を残した極厚のカツ。
ディーヴァは帽子を脱ぎ捨て、なりふり構わず箸を伸ばして、カツを一切れ口に運んだ。
ザクッ……じゅわぁぁぁあ……っ!
「――っっっ!?!?!?」
彼女の頭の中で、今までに作ったどんな楽曲よりも激しい衝撃のファンファーレが鳴り響いた。
「美味しい……っ! 何これ、信じられない……!! お肉がすごくジューシーで柔らかいのに、お出汁の優しい旨味がジュワッと溢れてくる……! 卵が信じられないくらいふわふわとろとろで、カツを優しく包み込んでるわ……!」
彼女はスプーン(スプーンの方がかき込めるからと、俺がこっそり添えておいたものだ)を掴み、タレが染みた白飯ごと、猛烈な勢いで口へ運び始めた。
「あぁ……止まらない……っ! 毎日冷たいサラダしか食べてなかった私の身体に、この温かいお米とお肉が、ダイレクトに染み渡っていく……! 生きてる……私、いま、本当に生きてる……!」
一杯のどんぶりに向かう彼女の顔は、もう作られた「歌姫」ではない。ただの、お腹を空かせた一人の愛らしい女の子だった。
最後のご飯一粒まで愛おしそうに平らげ、ぷはぁ、と幸せそうなため息を漏らす。その頬は、美味しい料理と、厨房の熱気、そして俺への高鳴る胸の鼓動のせいで、リンゴのように真っ赤に染まっていた。
ディーヴァは突然、カウンター越しに俺の両手をがしっと握りしめた。その目は潤んでいて、完全に熱を帯びている。
「創さん……っ! もう私、事務所もステージも全部捨てて、ここに居座りたい……っ!」
「えっ!? ちょっと、ディーヴァさん!?」
「私の歌は、もう世界のためになんて歌わない。これからは、毎日私にこんなに美味しくて温かいご飯を作ってくれる、創さんのためだけに歌うわ! だから……お願い。私を貴方のお嫁さんにして。毎日、貴方の隣で、貴方のご飯を食べて、貴方だけの歌姫になりたいの……っ! 年収なら何億もあるから、創さんは何もしなくていい、私が一生養うから……っ!」
国民的歌姫が、一人の定食屋のあんちゃんに完全にメロメロになり、全財産を提示してプロポーズしてくる。
「あはは、何億なんて滅相もないですよ」
俺は本気で困惑して、照れくさそうに頭を掻きながら笑った。
「俺はここで、ディーヴァさんみたいに毎日戦って疲れた人が、ふらっと立ち寄って元気になれるご飯を作るのが仕事ですから。だから、誰か一人のものにはなれません。……でも、もしまた歌うのが辛くなったら、いつでもサボりにきてください。その時は、また大盛りで作りますからね」
俺がいつものように、飾らないナチュラルな笑顔で優しく語りかけると、ディーヴァは「うぅ……そんな風に優しく諭されたら、もっと好きになっちゃうじゃない……っ!」と、胸を焦がして顔を覆ってしまった。
女が社会の看板を背負い、男はただ大人しく寄り添うのが美徳とされる世界。
だけど、どんなに眩しい光の中にいる女性であっても、俺の作る泥臭くて温かい一皿と、飾らない素顔の前では、ただ一人の男に恋を乞う、か弱い女の子に変わってしまう。
「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」
明日の仕込みを再開しながら、俺は「次の新曲、楽しみにしてますね」と、すっかり元気と輝きを取り戻し、何度もこちらを振り返って愛おしそうに手を振りながら帰っていく彼女の背中を、夜の路地裏で温かく見送るのだった。
『食事処 藤』特製・黄金出汁のふわとろ限界カツ丼(1人前)
材 料
豚ロース肉(トンカツ用・厚切り):1枚(約120〜150g)
玉ねぎ:1/4個(薄切り)
卵:2個(★混ぜすぎないのがコツ)
三つ葉(または刻み青ネギ):適量
炊きたての白米:丼1杯分
塩・コショウ:少々
小麦粉、溶き卵、生パン粉(衣用):各適量
揚げ油:適量
【限界突破の黄金出汁】
和風出汁(カツオと昆布の合わせ出汁):100ml(※顆粒出汁でも可)
醤油:大さじ1.5
みりん:大さじ1.5
砂糖:大さじ1/2
作り方
1. カツを揚げる(ジューシー&サクサク)
1 豚ロース肉は、赤身と脂身の間にある「筋」を包丁の刃先で数カ所トントンと叩いて切り全体を軽く肉叩き(または包丁の背)で叩いて柔らかくします。
2 両面に軽く塩・コショウを振ります。
3 小麦粉 ➔ 溶き卵 ➔ 生パン粉の順に、隙間なくしっかりと衣を纏わせます。
4 170〜180度に熱した油に入れ、時々ひっくり返しながら5分ほど、全体がキツネ色になるまでカラリと揚げて油を切ります。
5 揚げたてのカツを、食べやすい大きさに「ザクッ、ザクッ」と切り分けます。
2. 卵液の準備(劇中のふわとろを作る秘密)
1 卵2個をボウルに割り入れ、箸で白身を切るように、5〜6回だけ軽く往復させて混ぜます。
★マスターのこだわりポイント
黄身と白身を完全に混ぜ合わせず、マーブル状のグラニューションを残しておくのが、お店のような「ふわとろ」にする最大の秘訣です。白身のコシが残ることで、熱を入れたときに素晴らしい食感の立体感が生まれます。
3. 出汁で煮て、一気に仕上げる
1 小さめのフライパン(または丼鍋)に【黄金出汁】の調味料(出汁、醤油、みりん、砂糖)と、薄切りにした玉ねぎを入れて中火にかけます。
2 ひと煮立ちして玉ねぎがしんなりしたら、切り分けたカツを中央に並べます。
3 すぐに卵液を、カツの中心から外側へ、円を描くように優しく回し入れます。
4 すぐに蓋をして、中火〜弱火で約30秒〜45秒蒸し焼きにします。
5 周りが固まり、表面の卵が「まだ少しドロっとしてるかな?」という完璧な半熟のタイミングで火を止めます。
4. 盛り付け
1 大きめの丼に炊きたての白米をよそいます。
2 フライパンから滑らせるようにして、ご飯の上に一気に盛り付けます。
3 仕上げに三つ葉をあしらえば完成です!
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「カツ丼を美味しく作るコツは、とにかく『卵を入れてから触りすぎない、火を通しすぎない』こと。カツのサクサク感が残った衣に、お出汁がジュワッと染み込んで、それをふわとろの卵が包み込む……このバランスが最高なんだよね。ディーヴァさんみたいに毎日我慢して頑張ってる人にこそ、ダイエットなんて忘れて、スプーンで豪快にかき込んでほしいな!」




