第36話 新しい生活 2
(1)
時間を遡り、中央棟を出た雪野は受け取った携帯を入れたポーチをしっかり抱えて歩いた。
短縮番号0と1とで繋がる回線。
雪野から連絡をすることができる番号。
時宗は、GPSが入っていると言って雪野の表情を見た。
雪野が不快に思うのではないかと気にしているようだった。
しかし、この国に来てからの雪野には、統領や小菊など一応気にかけてくれる人はいても、雪野が突然いなくなってもすぐに気付いて捜してくれる人はいなかった。
和の国にいる時、母は自分が帰った時雪野がいないと心配して大騒ぎした。
その時は、子供じゃないのだから、とむくれて反抗的な態度を取った。
しかし、誰も自分を心配してくれる人がいない心細さは思ったより雪野に孤独を感じさせた。
だから時宗が雪野の現在地を気にかけ、無事の連絡を入れるように言ってくれるのはとても嬉しいことだったのだ。
雪野はぴょんぴょん跳ねながら陽の傾きかけた家路を急いだ。
その頃、時宗はGPSが正確に作動しているかを確かめるために携帯を開いていた。
そして、走るというには遅く、歩くというには速い雪野の移動速度を見て、雪野が夕波秋光に怯えて小走りになっているのかもしれない、と思った。
―やはりアパートまで送ってやればよかったか……
しばらくしてメールが来る。
『無事帰宅。部屋確認、戸締り完了。
今日もありがとうございました。』
『了解。明日午後、中央棟に召集あり。時間は明日連絡。』
『承知しました』
そんな簡単なやり取りの後、時宗は安心して携帯を閉じた。
雪野はしばらくメールを見ていた。
文字から声が聞こえないか携帯を耳に当ててみたが、聞こえるはずもなく、さすがに自分でも恥ずかしくて、へらっと笑って、携帯を閉じた。
先ほど携帯を受け取った時、試しに数秒だが通話をした。
耳元で響いた時宗の声は直接聞く時より低く感じた。
思い出して鼓動が速くなる。
―早くご飯を食べて勉強しないと。
雪野は、朝は時宗が持たせてくれた小にぎりとおかずを、昼は食堂で日替わり定食を、それぞれガッツリ食べたので夜は少し軽めにしようと思った。
冷凍しておいたシチューを温め、同じく冷凍しておいたパンを焼いた。
ふと思い出して、買い出しに行った時にパン屋で買ってもらったりんごパンも出した。
クリームシチューにりんごパンは甘過ぎる気がしたが、わざわざ雪野が好きなパンを聞いて買ってくれたのが嬉しくて、つい袋を開けてしまった。
軽めにするはずの夕食は結構な量になり、雪野はお腹をさすりながらメモ用紙を出して、これからやらなければならないことを書き出した。
これからの勉強の予定、特に自分でやるように言われた文系の教科や外国語の進め方、時宗の講義の予習。
時宗に毎日やるように言われたストレッチや筋力トレーニング。
骨と筋肉についての勉強。
この国のことや中央棟や第二拠点のこと……
やるべきことは山積みなのに雪野の体は1体だけ、1日は24時間しかない。
母がよく、明日からでもなく、今日からでもなく、今やりなさい、と言っていたのを思い出した。
雪野はやる事を書き出したメモに優先順位をつけ、①から早速始めることにした。
今日はテキストが揃ってないものがほとんどなので、用意するテキスト、資料、ノートなどを書き出し、どのように進めていくかを決めた。
ここのアカデミーでは実習のない科目は授業を受けなくても、テストに受かれば単位が取れることになっている。
時宗に、社会科系と語学文学などは自分でやるように言われた。
雪野は半年後の前期末テストをめどに計画を立てた。
昨日時宗にテキストをもらった科目は、どんどん読んで予習をしながら計画を立てた。
結果、3時間ほどでひと通りの計画が立った。
夕食が早かったので、まだ9時過ぎだった。
次は筋トレをやってシャワー浴びて、また予習をやろう。
そう思ってふと、もう一つやることがあったのを思い出した。
雪野は風呂場に行って室内を見回す。
ある。昨日、影5がサッと取り付けた防犯カメラ。
あの時は、逆らっても無駄だろうし、気まずくなるだけなので何も言わなかったが、雪野とて、うら若き乙女。
はいそうですか、と誰が見てるか分からない風呂場に、風呂に入るべき姿で鼻歌を歌いながら飛び込む訳にはいかない。
雪野は考えた。防犯カメラを、壊さずになるべく無効にする方法を。
カメラを何かで包む。
雪野が服か、それに準ずる物を着て入る。
電気を消して真っ暗にする。
どれも、それ一つでは完璧ではなくても、三つ同時に行えば効果はあるはず。
雪野は四苦八苦しながら洗面所と風呂場の小さなカメラを、小さく切った段ボールで覆った。
そして、バスタブに熱めの湯をはりながら部屋に戻ってストレッチと筋トレをした。
時宗が作ってくれたトレーニング用の冊子。雪野は丁寧に読みながら、頑張って忠実にトレーニングをした。
最後のストレッチも終わって気がつくと11時近かった。アパートで風呂に入れる時間ギリギリだろう。
雪野は、髪は服を着たまま洗面所で洗った。
それから、あれこれ苦労しながら風呂に入って出た。
この3日間でいろいろなことをしたが、この入浴が一番疲れた。
早く自分で自分をしっかり守れるようになろう……
雪野はしばらく髪を乾かしたり、ジュースを飲んでくつろいだりした。
本当はもう少し勉強を進めておきたかったが、5時に起きて訓練に行くには1時には寝るようにしたい。
雪野は勉強はあきらめて、このところ1日1、2行しか書いてなかった日記を書くことにした。
詳しくラボでのことを書いたメモ帳は置いて来てしまった。
なので憶えている限りで、金曜に中央棟に呼ばれて時宗の弟子にしてもらったところから、時系列で書いた。
書いてはいけないことは、ぼかして。
今日の日記は10ページを超え、1時も過ぎてしまったが、雪野は少し落ち着いた気がした。
布団に入って天井を見ながら、母が言ってたことを思い出した。
―有能な人間と仕事をしていると、高級車で高速を走ってるようだ。
なめらかで速くて、さほど走った気はしないのに驚くほど遠くまで来ている。
ポンコツな車だとガタガタ揺れて、ひどく疲れるのに全然進んでいない。
時宗はこの3日間、雪野の速さに合わせて事を進めていた。それでも雪野がこれから生活、勉強、訓練をしていく準備を全て整え、安全も確保した。
しかも雪野が寝た後、3時頃まで自分の仕事をして、朝は5時に起きて自分の修行をしていた。
雪野は高校時代までは優等生で、自分が誰かの邪魔になったり足を引っ張ったりということはなかった。
もちろん跳び箱は跳べなかったり、物理は苦手だったり、万能と言うのにはほど遠かったが、努力でなんとか人並み以上と言われて来た。
今は。未熟。
そんな言葉が天井に浮かんで、タオルケットに顔を押し付けて溜め息をついた。
(2)
その頃、時宗はやっとラボに帰り着いていた。
昨日雪野の部屋に防犯カメラを設置した後、病院から急に呼び出しが入った。
外科の手術が必要な患者が運び込まれたが、当直が若い内科医で、一人では対応ができないと。
そのまま病院に泊まって、朝、雪野のクナイ練習を少し見て、アカデミーの会議、中央棟の会議、雪野に携帯を渡して、また会議。
その後、アカデミーの教務課で雪野達の時間割の変更の依頼と手伝い。
病院に寄って昨夜の患者を診て、ようやく帰って来たのだ。
遅くなった夕食を温めながら、雪野が使った部屋の点検。壊れた物、持ち出し禁止なのに持ち出された物がないか。
雪野に限って、と思ってもラボの責任者の義務だ。
部屋のドアを開けて電気を点けると、まだ雪野が居るような気がする。
今までも多くの宿泊者を迎えたが、不思議なことに帰った後の部屋を見ると、きれいに片付けてある方がそこに居た者の雰囲気が色濃く残っている。
時宗は机の前に座って、引き出しから中の物を出した。
書類入れと文房具入れ、どちらも透明で中が見える。
書類入れから、入っているメモ帳やプリント、切り取った跡があるノートなどを出した。
メモ帳は、左頁には中央棟で時宗を紹介されてから昨日の夕食を終えるまでのことが時系列で書かれている。
右頁にはそれに関する図や説明が書いてある。
―よくもまあ、こんなに細かく。
時宗は感心したと言うよりあきれた。
ラボや山全体の地図まで細かく書いてあり、これは持ち出せないと思ってメモ帳ごと置いて行くことにしたのだろう。
ノートの方は、メモ帳には書ききれない詳細な地図や、買い出しに行った商店街の並びや内容、他に時宗が話した伊賀についての歴史や現状などが書いてある。
所々切り取られているところの横に番号が書いてあり、別の紙に番号順に
"買い物時の参考に"とか、"歴史の勉強の参考に"などと持ち出した頁の内容と理由が書いてある。
点検する時宗が分かりやすいようにだろう。
前後を見ると持ち出しても問題がない部分ばかりだ。
「ここは禁域だ。」
と言っただけで、持ち出して構わない物と、そうでない物をきちんと選別して置いていく。
確かに高校拠点の中西という教師が言ったように、優秀で誠実な子だ。
実は時宗は、統領が雪野を将来中央棟のメンバーにと思っている、と聞いて少し疑問に思っていた。
武術系が全く、ということはもちろんだが、性格も素直で穏やか過ぎて、基本的に忍びの集団である伊賀の中枢に入れるのには無理がある気がした。
医学薬学を学ばせ、自分の身を守れる程度に武術も教えて、ゆくゆくはこの薬草園を任せられれば、と思っていた。
しかし、亡くなった時宗の師匠の言葉を思い出す。
「私は君に私が受け継いだ全てを教える。いつか君は次の世代の誰かにそれを伝えるように。」
師匠は時宗の父親の弟子だった。早くに亡くなった時宗の父親の代わりに時宗の面倒を見ながらいろいろなことを教えてくれた。
しかし、残念ながら師匠もあまりにも早く亡くなり、全てを伝えてくれることはできなかった。
時宗は残りの部分を親爺様や、他の高位の忍び達に教えを乞うてここまで来た。
時宗は継承ということの難しさをつくづく思った。




