第37話 新しい生活 3
翌朝、雪野は5時少し前に目覚めた。
少し疲れが溜まっていたから起きられないかと思っていたが、目覚ましより2分早く目が覚めたのでちょっと嬉しかった。
体は重かったが気持ちは軽かった。
この4日間で、この国に来てから混沌としていたことがスッキリしただけでなく、在るべき場所、進むべき方向がはっきりした。
あとは自分が頑張るだけだ。
スープを温めながら訓練場に行く準備をする。
ウエストポーチに入れる物が一つ増えた。
タオルと水と、携帯電話。
雪野は携帯を開いて閉じて撫でて、ふふっと怪しい笑みを浮かべながらポーチにしまった。
そして温まったスープを食べ始める。
今日はアカデミーは休みだから、時宗から呼ばれたら中央棟に行くだけだ。
しかし、そこで雪野は少し気が重くなった。
おそらく話の内容は秋湖の父親のことだろう。
時宗が小百合様と相談をして秋湖との接触が制限されることになったのだろう。
その父親については具体的なことはまだ聞いていない。
当てずっぽうに、精神に干渉する術を使うのでは?と言ったら、時宗は冗談めかして肯定したが、きちんとは説明してくれなかった。
昨日、美春達と4人で昼食を食べている時、小夏が小さな声で嬉しそうに、
「私達の名前って四季が揃ってるね。」と言った。
本当だ、と笑い合った4人の心の中には、―良い友達ができてよかった、これからも仲良くしていきたい。
そんな気持ちがあったはずだ。
それが秋湖本人に問題があったならともかく、父親とは。
しかし余程のことがない限り、時宗があんなに強く秋湖を遠ざけようとするはずがない。
秋湖の名前を出した瞬間時宗から感じた警戒感は忍具店でサソリ達と対峙した時よりずっと強かった。
時宗から連絡が来るのが待ち遠しかった。
中央棟に呼ばれて時宗に会えるのも嬉しい。
しかし……
雪野はそんな気持ちを振り払うように準備体操をして、勢いよく玄関を出た。
少量だがスープを食べて間もないので走らずにゆっくり歩いた。骨盤や脚の骨と筋肉を意識しながら。
少しずつスピードを上げながらアカデミーの正門までは歩いて、そこから走り始めた。
1番大きなグラウンドに行って、トラックの1番内側でゆっくり走る。なんとか輪のスピードについて、2周走ったところでトラックから抜けた。
アカデミーの奥に通り抜けて南側の訓練場に入る。
森の横を軽く走りながら、クナイ投げの練習場に行こうと木の切り株がたくさん並んでいる横を通ると、今日は割と空いている。
雪野はキョロキョロと周りを見回して子供がいないのを確認した。
そして自分の腰くらいの高さの切り株が続いて立っている所で、一番近い切り株に少し助走つけて近付き、両手をついて跳び越えた。
成功!
そのまま次の切り株も跳んだ。
リズムに乗って次々跳ぶ。
雪野は嬉しくて調子に乗った。
一つ高いみぞおちの高さのに挑んだ。
ガクッ…
切り株の表面は面積が狭い。跳び箱のように両手をつくのに安定した幅はない。
右手はしっかりつけたが、左手は少し外側に滑った。それを立て直す筋力が左腕にはなかった。
落ちる!
体を固くした瞬間、体勢が変わりながらゆっくり地面に下りた。
跳び箱の練習の時、危ない落ち方をしそうになると時宗がヒョイっと背中を押して尻もちをつくように下ろしてくれた。
なので時宗がその辺で見ていて助けてくれたのかと思って周りを見回した。
しかし、近くにいたのは時宗ではなく、40代後半と思われる精悍な顔の男だった。
「大丈夫か?」と聞かれて自分の体を見ると、左腕の内側が、滑った時に木で擦れて血が出ている。
雪野はポーチからタオルを出して血を拭き、
「かすり傷です。おかげさまで大きなケガをせずにすみました。」と頭を下げた。
「かすり傷でも雑菌が入ると厄介なことになる。もう少し行くと水道があるからきちんと洗っておきなさい。」
「はい。ありがとうございました。」
雪野はもう一度頭を下げて言われた方に向かって歩いた。
水道のある場所は昨日も横を通ったのですぐに分かった。
ひじの内側の血が出ているところを丁寧に水で洗って、2枚持って来たタオルのうちきれいな方を当てた。
そのまま腕を押さえてトボトボ歩いていくと、クナイ投げの的が並んでいる所に着いた。
的は結構埋まっていたが、今日はこっちも子供が少なくて、近距離の的は空いていた。
雪野はクナイを出して投げてみた。
ケガをしたのは左腕だったから十分投げられると思ったが、実際に投げてみると傷が服に擦れて思ったより痛かった。
しかも隣で投げている人は若い男性だったが、かなりの勢いで投げていて、的にクナイが刺さる度に大きな音がして少し怖かった。
雪野は気持ちが落ち込んで、今日はあきらめようかとも思った。
しかし最初の訓練の時、時宗が、
「何かに夢中になると、恥ずかしいとかカッコ悪いとかも、失敗してケガした痛みとかも全部吹っ飛ぶからな。」
と言ったのを思い出した。
あの時雪野はクナイ投げに夢中になることに決めたのだ。
時宗のように投げられるように、を目標にして。
それがちょっとケガをしたからとあきらめるのは情け無さ過ぎる……
雪野はもう一度的に向かった。
骨と筋肉の人体模型の動きを思い出して、ゆっくり丁寧になげた。
綺麗に刺さった。
そのまま集中して投げ続けた。
昨日の朝、時宗に注意されたことに気をつけながら投げると更に上手く投げられた。
しばらく無心で投げていたが、急に騒がしい声がしたので隣りを見ると、いつの間にか人が入れ替わっており、雪野と同じ年頃の男の子が2人、しゃべりながらクナイを出している。
雪野のすぐ隣りはゲジゲジ眉毛の、熊か、良く言っても絵本の中の森の木こりみたいな子だった。
その一つ向こうは、どこかで見たような知的な感じのする、整った顔の子だった。
すると、雪野の隣のゲジゲジ(眉毛以下省略)が、
「あ、こいつ!ど素人のくせに時宗先生にたくさん教えてもらってた奴だ!」
雪野は一瞬固まったが、もう1人が、
「おい、やめとけ。」と言ったのでホッとした。
しかしゲジゲジはやめる気はないようで、
「いいよな、女は。失敗しても首をすくめて笑ってりゃ親切に教えてもらえて。」と言った。
雪野は顔から血が引く気がした。
「黙れ。いい加減にしろ。」
低い、強い声がした。
いつの間にかゲジゲジの横に、さっき切り株から落ちそうになった時、助けてくれた人が立っていた。
「だって本当の事じゃん。」
「この子が失敗して首をすくめて笑ったところを見たのか?」
「いや、そういう訳じゃ……」
「いい加減な言葉で人を貶めるんじゃない。」
ゲジゲジは口を尖らせたが、黙った。
「さあ、お前達もしっかり自分の練習をしないと1年後にはこの子に負けて恥をかくことになるぞ。」と言った。
男の子2人は驚いて目を見開いて雪野を見た。
雪野は、いじめられてる所に先生が来て味方してくれた子供のように、
「そーだ、そーだ!」と言った。
ゲジゲジが何か言おうとしたが、その前に『先生』が、
「こらこら、君もつまらないケンカを買ってないで。
周りの声に気を取られてると思わぬケガをして何ヵ月も練習できなくなったりするんだぞ。」と言った。
雪野は、たしなめられてシュンとうなだれて、
「すみません。」と言った。
「君も自分の練習に戻りなさい。」
「いえ、私はそろそろ……」
「そうか。では気をつけて行きなさい。」
「はい。今日はありがとうございました。」
雪野はクナイをしまって後ろのフェンスの所まで下がった。
何気なく2人が練習を始めたのを見て驚いた。
2人とも上手くて、とても1年後に雪野に負けることなど考えられなかった。
決闘の約束などする前に止めてもらってよかった、とコソコソ立ち去ろうとした時、賢そうな子の横顔がハッキリ見えた。
―誰かに似ていると思ったら、親子だったのか……。
『先生』は精悍な感じで、男の子はのんびりした感じなので分からなかったが、顔立ちはそっくりだ。
今、クナイを構えて的を見た時の集中した表情だと父親の縮小コピーだ。
父親が息子とその友達の訓練を見てやってる、というところか。
興味がわいて、しばらく見ていると、2人の投げ方は、時宗が雪野に教えている上から下に投げる投げ方はではなく、横から投げる投げ方だった。
ブーメランのように内側から外に投げたり、外側から内に投げたり、それを交互につなげたり。
交互に連続して投げるとうねって見え、蛇みたいで雪野はゾッとした。
息子の方は正確だったが、ゲジゲジの方は力強いが雑で、的の円からは外れることも多かった。
見ていた『先生』が何か言って、ゲジゲジは横にどけた。
『先生』は何かを説明しながら連続して投げた。
すると、クナイは大蛇のようにうねって的にあたり、方向を変えてこちらに襲いかかって来た。……ように見えたが、大蛇は『先生』の腰のホルスターに吸い込まれた。
雪野は呼吸が止まって体は硬直して動けなかった。
苦しくて焦ったが、息が吸えない時は吐け、と聞いたことがあるのを思い出して、思い切りフッと吐いてみた。
何とか呼吸はできたが、膝が震えて動けない。涙が出そうになったが、急にふわっと暖かい空気に包まれた気がした。
―時宗先生のマントだ、と思って、目の前を覆った白い布を開いて顔を出すと、上に時宗の顔があった。
「なんやカンガルーの子供みたいやな」と笑っている。
「先生……」
雪野は泣きそうになるのを我慢してマントから這い出した。
体の強張りも解けて呼吸も楽にできるようになっていた。
「山野辺さんを捜しに来たんやけど君はどないしたんや?」
言われた瞬間、思い出した。
『山野辺古一郎』
伊賀の組織図の、確か中央棟の方の陽忍のリーダーの1人だった。
写真では目つきが鋭く怖い感じで、雪野は覚えるのに"ヤクザの組の若頭"と覚えたのだった。
今日の古一郎は、雪野に対しては終始優しくて、写真のイメージとは全然違ったので気付かなかったのだ。
「さっきまで隣の的で練習していたのですが、終わって帰る支度をしてたら大蛇に食われそうになって……」
雪野は都合の悪いところは全て省略して訴えた。
「山野辺さんのクナイ投げを見たんやな。」
「はい。」
「そうか、いろんな投げ方があるからな。また教えたろ。」
雪野は頷いた。
時宗が山野辺古一郎を捜しに来たと言っていたので、雪野は切り株から落ちそうになって助けてもらったことだけ伝えて帰ることにした。
「そうか。ほな、午後にな。」
雪野が出口に向かうのを見送って、時宗は山野辺古一郎に近付いた。




