第29話 訓練の始まり 3
(1)
「さて、次始めようか。」
時宗に言われて雪野も立ち上がった。
三重の円の的が貼られたボードから数メートル離れた所に小さな台が置いてあって、昨日買ってもらったクナイが入った箱が乗っている。
その横に時宗の背丈と同じくらいの高さの細長い物が、グレーのシートを掛けて置いてある。
形からして、よくテレビなどで射撃訓練などに使っているような黒い人型の的ではないかと雪野は思った。
しかし、時宗がシートを取ると、雪野は
「ヒィギャっ!」と叫んで飛び退った。
よく見るとそれは理科室などに置いてあるような人体模型だった。
涙目になっている雪野に、
「君の悲鳴はどれもおもろいな。
ヒィギャって何や。」と言って笑った。
「ヒィィィとキャーをくっつけるとヒィギャっになるんです。
急にこんなのが現れたらびっくりするに決まってます…」
「こんなのって、わしの骨格を模して作ってあるんやで。イケメンやろ。
だいたいそれほど驚くか?学校に人体模型は置いてなかったんか?」
「骨格だけの標本と、マネキンに赤と青の塗料みたいなので動脈と静脈が描いてあるのがあったような…でもこんなに間近で見たことは…」
「同じようなもんや。ただ、これは特注の優れ物でな、骨格に伸縮性のある筋肉が張ってあって、骨格を動かすと筋肉も収縮するようになってるんや。」
「それでクナイを投げる時の骨格と筋肉の動きを見るということですか?」
「そういうことや。」
時宗は言いながら模型の手首を持ってゆっくり上まで持ち上げ、肩から肘を床と水平にして止め、肘から先を直角に立てた。
それから、肘から先を前に払うように振って腕を真っ直ぐに伸ばした。
「先生がクナイを投げる時は先生の骨と筋肉はこのように動いているのですね。」
雪野は自称?イケメンの模型を今度はじっくりと眺めた。
「今、どこの筋肉が動いた?」
「えっと、腕のここと、ここと、肩のここも。」
「そうやな、そこが動くな。しかし、そこの筋肉を動かすために胸の筋肉と背中の筋肉も動く。そしてこの体勢がフラつかんように下半身の筋肉も動くんや。」
時宗はもう一度同じようにゆっくり動かした。
雪野は目を皿のようにしてしっかり見た。確かに胸や背中、首の筋肉まで動いていた。
「今はこうやって足は肩幅に開いて、的に向かって真っ直ぐに立って投げてる。
しかし、実践でこんな体勢で投げることはまずない。
普通は物陰に隠れながら、建物の上から、植え込みの陰に屈んで、逃げる敵を追って走りながら、とかや。
走ってる車の中から投げることもある。
距離や角度を瞬時に正確に読むだけやなくて、自分の体をクナイを投げる精密機械にするつもりでな。」
―ひえぇ
雪野は、今度は声に出さずに叫んだ……
要求されるレベルの高さにめまいがする。
確かに時宗の動きは精密機械と言える正確さだが…。
それから雪野はしばらく骨格と筋肉を意識しながらクナイを投げた。が、疲れてくるとまた忍具店の時のようにクナイが上や後ろに飛び始めた。
「こらこら、」と、止められる。
「今、どこを意識して投げてた?
肘の関節を動かすからってそっちにばっかり注意が行ったらあかんで。
クナイを持ってるのは手首から先の指や。指を動かす筋肉も意識せんとな。
しっかり持って、離すべき位置をしっかり意識して、そこに行ってから離す。」
「はい。」
今度は離すべきところを通り過ぎて下に叩きつけてしまったが、一呼吸おいてもう一度丁寧に投げるとキレイに真っ直ぐ飛んだ。
しかし、しばらく投げると今度は手が疲れて指が震えてきた。
「今日はここまでや。手を楽にして。
次はわしが投げるから少し見てて。」
雪野は目を輝かせて少し後ろに下がった。
時宗は、最初は雪野が投げていた位置から真っ直ぐに綺麗に投げ、次に横に走りながら投げたり、高く跳躍しながら投げたりもした。
そして、模型と自分の手を並べるようにしてクナイを持ち、指の開き方や、クナイを離す位置を分かりやすく見せて、ゆっくり投げた。
クナイはどこからどんな状態で投げられても全て美しい線を描いて的の中央に吸い込まれた。
「ぅわあぁ…」
「そんな口の開け方したら舌噛むで。」
雪野は慌てて口を閉じて、手で口の周りを拭った。
「さて、ヨダレを拭いたらストレッチや。」
時宗は笑いながらゆっくり体を伸ばして、雪野も倣った。
筋肉の動きを意識してくると、ストレッチも全く違うように感じられた。
「さっきの跳び箱の時も、今クナイを投げた時も、わしがやるのを見て、盛大にうわあぁって言ってくれたけど、うわあぁの後はどんなこと考えた?」
「えっと、うわあぁ凄い、なんて綺麗……」
「それから?」
「あんな風にできたらなー、とか…どうすればあんな風にできるんだろう、とか…。」
「それならよかったな。
もし、なんて綺麗、私にはとても無理、とか考えてたならそこで終わりやからな。」
雪野は頭の片隅にあった"無理"を慌てて頭の外にハタき出した。
時宗は雪野が目を泳がせたのを見て笑いながら、
「ああいう風にできるようになりたい、は目標になる。どうしたらできるのか、は目標に向かって一歩踏み出してるんや。
目標を持つことは自分を引き上げる力になるからな。
君はなかなか前途有望やな。」
雪野は思いがけない言葉に一瞬戸惑ったが、次の瞬間、嬉しくて顔がフニャッとくずれそうになって慌てて俯いた。
それから、時宗は自分が用具を片付けてる間、軽く走るように言った。
「走る時は骨盤の下で脚を動かすんやなくて、横でな。車の両輪みたいなイメージでな。」
雪野は頭の中で骨盤の周りの筋肉を思い出しながら丁寧に走った。
用具をしまった時宗は最後に自分の模型をスタンドごと担いで雪野を呼んだ。
「これは貴重品やからな、普段は部屋に置いてあるんや。さ、帰るで。」
そう言って歩き出しながら、
「君の模型も今度作ってもらうから、一度レントゲン撮るで。」と言った。
雪野が嬉しそうに、
「わぁ、ありがとうございます。」と言うと、
「驚いたな、嫌がるかと思った。」
「えっ?…そんな。あ、でも最初にシートを外された段階で言われてたら全力で辞退させていただいたかもですが…」
雪野がモゴモゴ言うと時宗は、
「君は今はもう骨格と筋肉に夢中という訳やな。」と言って笑った。
そして二人は夕焼けの中をラボに戻った。
(2)
玄関を入ると時宗は、
「後で拭くからここに立てておくけど、結構重いからぶつからんように気をつけてな。」と言った。
「はい。」
「そしたら5時半晩飯な。少し早いけど忍具店の宿舎に寄るから7時半に出るから。
ちょっとせわしないけど今のうちにシャワーして帰る用意しといてな。」
「はい。ありがとうございました。」
雪野は急いで部屋に戻り、シャワーを済ませた。
帰る用意はしてあるので、急いで持って帰る方のノートを出して、跳び箱やクナイ投げで学んだことを書いた。
雪野は、5時15分になったので持って帰るリュックやボストンバッグを扉の横に置いて食堂に行った。
―この美味しそうな香りは生姜焼き!
雪野は嬉しそうに、
「すみません、先生。」と言う。
「構わん、時間前や。飯よそってくれるか?」
「はい。」
雪野はご飯を、時宗がスープをよそって、二人は食卓に着いた。
「いただきます。」
「炭水化物とタンパク質でしっかり筋グリコーゲンの補充や。たくさん食べて。」
雪野は山のような千切りキャベツの上に山のように盛られたブタの生姜焼きに、気合いを入れて立ち向かった。
「美味しいです。」うっとりと目をつぶって味わっていると、時宗が、
「君に食べてもらうと、わしはカリスマシェフになったような気になるな。」と笑った。
二人は自分のタイミングでご飯をおかわりをしてガッツリ食べた。
食べ終えると、雪野が食器を洗っている間に時宗が、
「君がおかずを持って来てくれた入れ物に、今日ちょっと余った物を入れておくから明日の朝にでも食べてな。」と言ってタッパーにあれこれ詰めてくれた。
「わぁ、ありがとうございます。」
「君は荷物が多くなったし、アパートまではわしの荷物に入れとくから。」
「すみません、ありがとうございます。」
「そしたら7時に荷物を全部持って第二テーブル集合や。
あと、君の部屋やけど、不快に感じるかもしれんけど、わしは全部点検せなあかん。持ち出し不可の物以外で見られたくない物は持ち帰ってな。」
「はい。ですが先生のお宅に泊めていただいたのですから不快に感じることなどありません。」
「そうか。」
「あ、先生、一つお願いが。やはりお部屋は7号室をお借りしたいのですが。」
「構わんけど、6号室に何か不都合があったか?」
「いえ、あの…私、寝相が悪くてよくベッドから落ちたり、寝言を言ったりするので…うるさいかと。」
雪野が顔を赤らめて言うと、
「ほぉ、起きてる時はお行儀のええ子やのに眠ると豹変するんか!」と笑った。
「わ、私は自分ではよくわからないのですが……兄が中学生になるまでは同じ部屋で寝起きしてたのですが……よく朝起きると兄が布団にくるまって廊下に避難してて…」
時宗は声を上げて笑って、
「わかった。部屋は好きなように使って。」と言った。
「ありがとうございます。」雪野は小さな声で言って、ペコっと頭を下げた。
それから雪野は部屋に戻り、洗面所なども点検して、ゴミをまとめてボストンバッグの外ポケットに押し込んだ。
―7時半出発なのに7時集合なのはまだやることが?
雪野は身支度を整えて、7時10分前に荷物を抱えて第二テーブルに行った。
思った通り、第二テーブルには図鑑のような分厚い本と、プリントを綴じた冊子が置いてあった。
時宗が玄関に自分の荷物を置いて戻って来たところで、
「支度が大丈夫やったらそこに座って。」と言って自分も座った。
分厚い本を雪野の前に置いて、
「骨格と筋肉についての説明と、鍛え方についての図鑑や。
医学の授業が進んだらスポーツ医学の中でいろいろ習うけど、今は絵本を見る感覚で見といて。」
「はい。」
雪野はちょっと開いて見たが、大量の写真や図に、かなり細かい説明が付いている。
多分この図だけ見ても分かりづらかったかもしれないが、模型でいろいろな動きを見た後なのでとても分かりやすかった。
「そこにはそれぞれの筋肉の鍛え方が書いてあるけど、絶対勝手にやらんように。下手をすると一生回復不能な傷を負うことになるからな。」
「はい。」
「今、君がやるべき筋トレやストレッチはこっちにまとめておいた。」
そう言ってプリントの冊子を見せた。
10枚ほどの薄い冊子だが、丁寧に図と説明が書かれている。
時宗は一つづつ説明して、ところどころ実演して見せた。注意点も細かく説明した。
雪野は、返却不要の確認を取って、注意点をちまちま書き込んだ。
ざっと最後まで見たところで7時半になった。
「さて、行こうか。」
「はい。3日間ありがとうございました。」
雪野は深々と頭を下げた。
「いろいろあったけどよく頑張ったな。お疲れさん。」
二人は荷物を抱えて玄関を出た。
真っ暗な中、時宗がキーをかざすと足元の灯りが駐車場までパパパッと点いた。




