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彼の国(かのくに)  作者: 春の雪
 第二章 彼の国にて

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第26話 ラボでの生活 4

(1)

 時宗は部屋に戻ると、携帯から1通のメールを打った。

 ―今、少し通話できますか?緊急ではありませんが。


 5秒ほどで電話がはいる。


 「どうした?雪野のことか?」


 「忙しいところ、すんません。

 いきなりやけど雪野がこっちに来るきっかけになった件、スパイ容疑の女を尋問してるところを見られた、としか聞いてないですけど、もう少し詳しく聞けませんか?

 必要なら暗号でも。」


 「うむ…個別情報無しでよければこの通話でいい。」


 「では今は、雪野が見て、消去された、"場面"だけでも。

 詳細は明日そちらで。」


 「高校拠点に教師として潜入して来た敵スパイの女が体育教員室を伺っていた。 

 

 捕まえて中に引っ張りこもうとしたら右足の靴のかかとに仕込んでいた毒針を自分の左足に刺して自決しようとした。


 取り押さえて毒針の付いた靴を脱がせていたところを雪野に目撃された。


 最初は扉の外に人影を感じただけで、生徒かどうかは分からなかったが、誰にせよ見られてよい場面ではなかったので閃光を放った。


 スパイの女の意識を奪ってカーテンで仕切られた更衣室に移動させてから扉の外にいた雪野を部屋に入れた。


 何を見たか聞いたが、閃光のせいで思い出せないようだったのでその日は一旦帰らせた。


 翌日もう一度確認したが、閃光を見たことは覚えていたが、中の様子は全く思い出せないとのことだった。」


 「その後の女スパイの処分は?」


 「医療拠点で尋問の後、捉えられていたこちらの仲間と交換。」


 「分かりました。ありがとうございました。」

 時宗は電話を切った。


 電話の向こうで、

 「雪野の様子も聞きたかったんじゃが相変わらず自分の必要なことだけじゃな。」

 統領が口を尖らせてブツブツ言っていた。


 

 時宗は椅子にもたれて腕を組んだ。

 ―とりあえず殺害場面を見たのではなかった。

 安心した。この場合、見たのが殺害かどうかは大きい。


 しかし……情景はあまり良くない。女を倒して靴を脱がせていれば、おそらくほとんどの者は誤解するだろう。


 ただ、雪野がどの程度見たのかはわからない。

 

 教師達の影になって、数人が床の上で争っていた、という認識しかなかったかもしれない。


 だとしたら突然思い出してもさして問題はない。


 むしろ…先に何があったのか教えた方が良いか。

 

 映像として思い出してからスパイ云々と言っても言い訳に聞こえるかもしれないが、先に説明を受けていれば、見た場面を思い出しても納得しやすい。


 それに関しては明日、定例会議の後にでも統領と話そう。

 

 とりあえず今日の午後、あの訓練場を使う時、思い出さなければいい。


 ―だいたい雪野をわしに預けるということもいきなりやったしな。必要なことも何も知らせずに。

 

 もう少しいろいろ調べておかんとな。



 そんなことを考えていると今度は別の電話が入った。

 忍具店の影5からだ。


 「通話で大丈夫や。」先に言うと、

 「柳生雪野の宿舎の部屋の準備ができました。」


 「今日の夜、寄ってもええか?」


 「大丈夫です。19時以降だと助かります。」


 「20時に第3ゲートから入る。」


 「承知しました。その後、学生アパートにご一緒して防犯カメラを取り付けるのは難しいでしょうか。」


 「大丈夫や。やってしまお。」


 「ありがとうございます。よろしくお願いします。」




(2)

 一方雪野は、部屋に戻って急いでノートと文具を揃えた。


 それから昨日もらった伊賀の組織図を出した。


 今朝確認したが、主だった役職名とその責任者の顔は完璧に覚えた。

 しかし、責任者の顔写真が付いていない細かい部署名は自信がない。


 組織図が書いてあって重要な部分が空欄になっていて、そこを埋めるならほぼ大丈夫だ。


 しかし、時宗なら組織図そのものを書かせるのではないか…そう思い至って青ざめた。

 

 雪野は頑張って自分で組織図を書きながら確認したが忍具店拠点はともかく中央棟の方は細かくて大変だった。


 昨夜、値札を取るのに時間をかけ過ぎた…そう思いながら組織図と睨めっこした。


 

 8時20分に雪野が第二テーブルに行くと、時宗はテーブルの上にテキストを並べていた。


 「すみません、先生。」

 「かまわん。時間前や。」

 「よろしくお願いします。」

 

 この2日間でお約束になった挨拶を交わして、雪野も席に着いた。


 テーブルの上をよく見ると、雪野の時間割の形にテキストが置いてある。


 月曜の4限の時宗の基礎薬学2のテキストに始まり、その下には5限の基礎医学2のテキスト、と並び、時宗以外の教師の科目が入っているところにはその科目名がメモ用紙に書いて置いてある。


 土曜はアカデミーは基本休みだが、ここで教えてもらう基礎薬学1、基礎医学1、あと、白紙のメモも置いてあった。


 そして、ふと他の教師の科目が書かれたメモを見て雪野は息を飲んだ。

 ―時宗先生の直筆!


 授業見学の時の板書もきれいで見やすかったが、これはまた別だった。


 達筆というのではない。普通の楷書で書かれた普通の字。

 だが、無駄が無く、バランスが良い。

 そして力強くてしなやかな美しさ。

 一度見ると目が離せない。

 

 ―先生がクナイを投げる時と同じ美しさ。

 

 雪野は人差し指で数学2、と書かれたその文字を触ってみた。


 「そこは必修の数学2が入ってたやろ。」


 字が美しいから触ってみた、などと言うと引かれそうなので雪野は黙って頷いた。


 「そしたら昨日買ったノートを出してみて。」


 雪野が書類入れにまとめてあったノートを出すと、時宗がそれをテキストの上に置いていった。


 それぞれの科目3冊づつ置かれている。


 「わしの講座はこのノートを使う。それぞれ3冊なのは1冊は普通に授業で使うノート、1冊は用語集、1冊は図鑑を作っていくためや。」


 雪野は急いで各ノートに科目名のメモを貼った。


 次に時宗は基礎医学1と2のテキストを取り、パラっと1の目次を開けて雪野の前に置き、

 「このアカデミーの高等科でやる医学、薬学は医師や薬剤師になるための勉強やなくて、日常生活の中で知ってると役に立つ知識を学ぶことや。


 例えば正しいケガの手当ての仕方とか、おばあちゃんの知恵袋的な伝承ものの知識で間違ってるものと理にかなってるものとか。広い範囲の雑学的なものや。


 基礎医学2は病気やケガの種類や治療についてやな。」


 そう言って時宗は基礎医学2のテキストも目次を開いた。


 雪野は目次をよく見た。


 基礎医学1は食べ物の食い合わせや、ケガをした時の細菌感染についてや、打ち身の時使う湿布薬には温湿布と冷湿布があることなど、聞いたことはあるけれど正確には知らない、というような知識が多かった。


 基礎医学2は各家庭に1冊はある家庭の医学という本のように、症状による病気の予測や、治し方などが並んでいる。


 確かにこれらを全部覚えても医師国家資格を取るのに何かを免除されるというような内容ではない。


 しかし、これを学んでおけばちょっとしたケガや病気に的確に対処できそうだし、医師にかかる必要があるかどうかの目安なども分かりそうだ。


 雪野が目次を見終わると、時宗が何枚かのプリントを出した。

 

 見たことがあるような、と思ったら雪野の編入試験の解答用紙だ。


 分からなかったところを調べたいから返却して欲しいと言って断られたものだ。


 ―合否を決めるものではないが、一応入試の類いなので本人には返せないが―と言って教務部長が時宗に渡したものだ。


 「この基礎医学、薬学の成績が良かったから1は足りないことをわしが教えながら2も同時に履修して大丈夫ということになった。」


 そう言って時宗は問題文も出して、雪野が間違えたところや書けなかったところを解説していった。


 雪野はずっと頭のどこかに引っかかっていたことだったので一所懸命に聞いて覚えた。


 「他の、生物、化学、地学、天文に関しては、1の範囲は君が高校で学んだのと同じような範囲やし、ほぼ完璧にできてたから今年は2から入ることに問題はない。」


 雪野は嬉しくて口元がゆるみそうになるのを我慢してうつむいた。

 

 さほど興味がない、文系に進むには必要も無さそうな科目だと思いながらも頑張って勉強しておいて良かった。


 それから時宗は自分が担当する科目について、予習の仕方や毎回の小テスト、レポートなどについて説明していった。

 

 雪野は授業についての説明だけでなく、例として挙げられるちょっとした知識も取りこぼすことのないように集中して聞いた。


 「あとは土、日にここでやる、薬学医学1以外の科目やな。


 諜報の暗号と、伊賀の情報戦略などな。名前は物ものしいが基本的なことからな。


 特に暗号は一気にたくさん覚えられるものと違うからな。


 これらはノートは作らん。その都度プリントを使って、終わったら回収や。」


 ―君は伊賀の所属やから…

 時宗の言葉を思い出して雪野はドキドキした。


 「ザッとこんなところやけど質問は?」


 雪野は、地学と天文のことについて少しと、自分で本を読んで進めるように言われた、今は説明になかった語学や社会系のことを少し聞いた。


 時宗は1つ1つ丁寧に答えて、午前の部は終わった。


 「そしたら11時半に昼飯な。

 あんまり時間ないけど休んでて。」


 「はい。ありがとうございました。」



 

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