男は戦、女は婚礼 10
慶長五年(一六〇〇)、殿は五十九歳、阿茶は四十六歳になった。
元日に諸大名は大坂城本丸で八歳の中納言さま(豊臣秀頼)に年頭の挨拶をし、次に西の丸に赴いて内府(徳川家康)に年始のお祝いを述べ、そののち猿楽(能)の饗応を受けた。
一月九日、家康は摂津の茨木でまた鷹狩を行ったが、その後、病となった。
鷹狩から帰った日の夕刻から、殿が熱を出した。床についても、自分の薬箱の番号と分量を言って、侍医に薬研で薬を作らせた殿はそれを服用し、一晩で熱は下がったものの体力はすぐには戻らなかった。
「弥八郎、詰の間に誰が来ておるか」
「ほとんどの者が朝から殿のご容態を心配し、詰めかけておりますぞ」
殿の問いかけに、本多正信さまは楽しそうに答えた。
「しばらくそのままにさせよ。顔を出した者をよう覚えておけ」
「御意」
本多さまが去ったあと、殿が疲れた表情をする。
「もう御用はござりませぬか? でしたら、小袖を替えて、お身を拭いますゆえ、お立ち願いとうございます」
阿茶が言うと、殿はお梶さまの手を借りて立ち上がった。
「こうか?」
「はい。お梶さまとお万さまは、小袖を取ってから布で殿の寝汗を拭ってくださいませ。お亀さまとわたくしが下帯を替えまする」
殿はこのところひどく太ってしまい、自分で下帯も締められなくなっていた。それでも鷹狩などの際、動きは俊敏だ。
「さ、これでようございます。しばしお休みくださいませ」
阿茶が言うと、お梶さまとお万さまが殿の体を二人がかりで横たえた。
「宿直は誰になさいますか?」
「於亀にしよう」
「殿、閨事はまだなされませぬように。お体が回復されてからでございますよ」
阿茶が戒めると、殿は悪戯をしかけて止められた悪童のような顔をした。
「では、お亀さま。よろしゅうに」
あとのことをお亀さまに任せ、阿茶は他の側室たちと共に退出した。
小笠原家の万姫さまは殿の病のため、西の丸に来るのが遅くなり、登城が十六日となった。お道具類が運び込まれたのも同じ日だった。
その後、病から回復した殿だが、十七日に予定していた参内は中止した。しかし、二十日の万姫さまの蜂須賀家への輿入れは変更されなかった。
婚礼の日はうららかな陽ざしが射す良い天気であった。
阿茶は花嫁が休憩する宿に朝から詰めていた。年明けに蜂須賀家から当主の家政さまの正室さまが休息所で合流すると連絡を受け、お出迎えのためにやってきたのだった。
「龍眼法印さま、こたびはお屋敷を使わせていただき、まことにありがたく存じます」
休息所となる屋敷の脇玄関では、阿茶を出迎えた法体で小太りの老人が挨拶を返す。
「内府さまの御娘をお迎えするのは、身に余る光栄でございます」
徳川家と蜂須賀家の縁ある女性たちが集うため、前日から徳川の者たちが入り、使う部屋の調度をととのえ、すでに謝礼の一部を家主の法印には渡してある。
「ご好意に感謝いたします」
「存分にお使いください」
互いに一礼したあと、阿茶は側仕えの幸と芽衣を残し、自分の供の者たちと駕籠は返した。そして花嫁と付添人、供の者たちが休憩する部屋を検分した。
その後、阿茶の控えの間と指定された部屋で一服していると、徳川家の侍女が織田家の徳姫さまの来訪を告げた。
休息所に阿茶が赴いて控えていると、そこに艶やかな打掛姿の女人が供の侍女と入ってきた。
阿茶が頭を下げて迎える。
「そなたが……阿茶局と申すか」
少し顔を上げて盗み見ると、御新造さまに似た面差しで、玲瓏とした美しさを持った人だった。
「わたくしは織田右府の娘、五徳と申します。このたびの差配、礼を言います」
阿茶の前で坐り、頭を下げた。
四十一歳と聞くが、三十前後に見える。所作も優雅だ。
「どうか、お顔を上げてくださいませ」
阿茶は慌てて言った。離縁したとはいえ、主筋の御方だ。
「わたくしは西郡の方さまの勧めに従っただけでございます」
その西郡の方さまは、『母子の再会に、他人の婆が立ち会うのは野暮というもの』と、ほほと笑って、すべてを阿茶に任せた。
「あの御方にも、世話になりました……」
幼い娘たちを預けて去ったときのことを思い出しておられるのか、しんみりとした表情だ。
そのとき、廊下から侍女の声がした。
「蜂須賀家のご内室さま、いらせられました」
しゅっ、と衣擦れの音がし、小粋な柄の打掛を着た三十半ばと思われる女性が入ってきた。
「おねえさま!」
「まあ、ヒメですの?」
ご内室さまは、どことなく徳姫さまに似ている。尾張国の小折城主・生駒家長さまの御娘で徳姫さまの母方の従姉妹であると、阿茶は聞いていた。徳姫さまの生母の佳昌さま(吉乃)は蜂須賀家の正室さまの叔母なのだ。
「お会いするのは、幾年ぶりかしら。生駒屋敷で遊んでいただいた以来です。これまで文は交わしていたのにね」
ヒメさまが微笑む。
「蜂須賀家に嫁いだそなたの息子と、わたくしの孫娘が夫婦になるとは、なんという奇縁でしょう」
「ほんに」
と徳姫さまに答えたご内室さまが隅に控えていた阿茶に気づき、先ほどと同じ挨拶と会話をまた繰り返した。
そうしているうちに、表がざわめく。花嫁行列が着いたようだ。
「花嫁さまと母君さまのご到着でございます」
先触れの侍女が告げ、続いて幼い花嫁の手を引いた登久姫さまが姿を現した。
「……おかあさま?」
「はい。登久姫ですか?」
わっ、と泣きながら、登久姫さまは母君にしがみついた。
代わって乳母が横に立ち、白い花嫁衣裳を着ている万姫さまは、きょとんとしている。
ひとしきり泣いて落ち着いたのか、袖口で涙を拭いた登久姫さまが照れながら言う。
「取り乱しました。申し訳ありません。おかあさま、この子がわたくしの娘の……万姫です」
「そなたの幼い頃に、よう似ておること」
徳姫さまも袖口でしきりに涙を拭いている。
周囲にいるそれぞれの側付きの侍女たちも、もらい泣きしていた。
「こちらへ」
徳姫さまに言われ、登久姫さまは万姫さまを前に押し出した。
「はじめまして。わたくしは、そなたの祖母です。お嫁入りのお祝いを申し上げに来ましたの」
と、徳姫さまは万姫さまを膝に乗せて、頭をなでた。
「万姫は九歳になりましたか」
徳姫さまが登久姫さまへ尋ねる。
「はい。幼くて心配ですが、父の命には逆らえません」
「わたくしも、五歳で母を亡くし、九歳で嫁ぎました。義理の両親、夫も優しくて初めは幸せでした。でも、娘が二人続けて生まれてから、義母の様子が変わりました。女腹ではないか、と言い、夫に側女たちをあてがったのです。正室であるわたくしの許可もなく、それも敵の武田家ゆかりの女たちを。わたくしは孤立し、岐阜にいる父に助けを求めました。その結果、娘たちから父親を奪うことに……」
徳姫さまが万姫さまを抱きしめた。万姫さまは腕の中で身じろぎする。
「我が家に嫁いで来たからには、そんな結末にはさせませんわ」
ヒメさまがきっぱりと言った。
「おかあさま、こちらの方は?」
徳姫さまが、従姉妹で蜂須賀家のご内室だと登久姫さまに紹介すると、お二人は互いに挨拶を交わした。
「ええ、おねえさまの悲劇を繰り返すことは絶対にさせません。ご安心ください」
そしてヒメさまは万姫さまに語りかける。
「わたくしは、万姫さまの夫となる千松丸(至鎮)の母です。もう一人の母として、万姫さまを慈しみましょう」
「おかあ……さま?」
万姫さまが登久姫さまとヒメさまを見比べる。
「幼くてまだ、わからないようね。万姫、あちらでお菓子をいただきなさいな」
母親の登久姫さまが言うと、万姫さまは徳姫さまの腕の中から抜け出して乳母の許へ行ってしまった。
乳母とお付きの侍女たちが万姫さまを囲んで世話を焼き、お菓子を差し上げたり、お手水に連れて行ったりしている。
「可愛くて、物おじしない、良い子ですね」
徳姫さまが言う。
「小笠原家は礼法の家でもありますから、お行儀だけはしっかりと教えたつもりなのですけれど、お転婆で……」
登久姫さまが恥ずかし気に答えるのに対し、
「あの子がわたくしの娘になるのね。楽しみ」
ヒメさまが笑む。
蜂須賀家政さまには他に次男と娘たちがいるが、みな側室の子であると、阿茶の調べでは、そうなっていた。
三人の貴婦人たちは、万姫のこと、登久姫の幼い頃のこと、生駒屋敷での思い出などとりとめもなく話した。
そのうちに時間がきたのか、「まもなく出立の時刻でございます」と小笠原家の侍女が告げた。
「もうそんなに経ちましたか」
「時を忘れましたね」
「お名残り惜しいこと」
それぞれつぶやいた貴婦人たちは、阿茶に向かって坐り直した。
「この逢瀬を、わたくしは生涯、忘れません。機会を作ってくだされた阿茶局どのに、心から感謝いたします」
「ありがたきことでございます」
「まことに麗しい時を作っていただき、感謝の念がたえません」
徳姫さまを始まりとして、登久姫さま、蜂須賀家のヒメさまが続けて言った。
「滅相もない。もったいないお言葉でございます」
阿茶はその場で平伏した。
「名残惜しくとも、行かねばなりませぬなあ」
つと、ヒメさまが立ち上って振り返り、万姫さまの許へゆく。
「お手を。引いて差し上げましょう」
ヒメさまを見上げた万姫さまは、差し出された手を握った。
「万姫」
前を通ってゆく娘に、登久姫さまが声をかけ、抱きしめる。
「わたくしが送っていくのは、ここまでです。……母は、どこにいても、どんなときでも、そなたの幸せを願っています」
母と子の今生の別れだった。嫁げば、よほどのことがない限り、もう会うことはできない。
徳姫さまが袖口で涙を拭っている。
「おまかせください」
ヒメさまが力強く言うと、登久姫さまが万姫さまの身体を離した。
「かあさま、いってまいります」
にこ、と無邪気に笑った白い花嫁衣裳姿の万姫さまを見て、登久姫さまが涙をあふれさせる。
その肩を徳姫さまが抱き寄せた。
ヒメさまに促され、万姫さまが部屋を出て去ってゆく。そのあとを乳母とお付きの侍女たちが従った。
登久姫さまが袂で顔をおおった。
静かに泣く登久姫さまを抱き寄せたまま、徳姫さまも泣いていた。昔の自分を思い出していたのかもしれない。
「……御前さま、そろそろ」
と、しばらくして小笠原家の侍女が声をかけた。
「そうですね。取り乱しました」
涙を拭いた登久姫さまが侍女に「あれを出しなさい」と指示する。
すると小笠原家の侍女が布包みを持ってきた。それを解くと巻物が二つ出て来る。
登久姫さまがそれを広げる。それぞれに、女性が描かれてあった。
「わたくしと熊姫の絵姿です。熊姫は本多平八郎さまのご子息の忠政さまに嫁いだので江戸から出れません。ですので、二人で相談して、おかあさまに差し上げるために描かせました。熊姫ったら、おかあさまにわたくだけが会うのを、とても悔しがっていましたのよ」
登久姫さまが泣き笑いする。
「これは……なんと嬉しいこと」
描かれた娘たちをじっと見て、徳姫さまは感無量のようだった。
「大切に……大切にいたします。……そうだわ。叔父さま(織田有楽斎)にわたくしの絵姿を作っていただくよう頼んでみようかしら」
「そうしてくださいませ」
母子は最後には笑い合い、別れた。
阿茶はお二人を見送った。
その後、自分の控えの間に戻った阿茶は、撤収の指示を出し、家主の龍眼法印と紹介者の亀屋栄任の挨拶を受けた。
「首尾よく皆さまを会わせることが出来ました。ありがたきことに存じます」
と、頭を下げると、龍眼法印は
「仏に仕える身としては善行を為すは当然のこと」
と鷹揚に笑み、亀屋栄任どのは、
「また新しくご縁がつながりました。こちらこそ、阿茶局さまにはお礼を申し上げたいくらいでございます」
と、にこにこしている。
「わたくしはこれにてお暇いたします。あとのことはこの者に」
阿茶は本多正信さまの配下に後片付などをまかせ、屋敷の玄関を出た。
会見が終わったあたりで大坂城西の丸に使いが行っており、阿茶の駕籠とお付きの者がそこに来ていた。
式台を降りて草履をはいた阿茶は、蜂須賀家の大坂屋敷がある方角を見上げた。
じきに夕暮れが訪れるがまだ光がある空だった。
「……姫さま。どうか、お幸せに」
つぶやいて駕籠に乗った阿茶は、帰路に就いた。




