男は戦、女は婚礼 8
阿茶は引っ越しのための指示を側近侍女たちに出し、伝通院さま、西郡の方さま、姫さま方、そして御新造さまにも説明に回った。
そんな忙しいときに、江戸から三つの文が届いた。
一つは神尾家の萩野から。嫁の志摩が懐妊したという。三人目の子だ。
「また産着を縫わねば」
阿茶は布を取り寄せようと思った。
二つ目は大姥局さまから。お孝が身ごもったという。
「若さまの二人目の御子。めでたいことだけれど……御新造さまは、面白くないであろうな」
それでも伝えねばならない。公的には、御新造さまの子となるのだから。
阿茶は民部卿局を呼んで、このことを伝えた。後日、御新造さまにこのことを伝えた際の様子がどうであったか、民部卿局に訊いたが、静かに聞いておられたということだったので、阿茶は胸を撫でおろした。仲睦まじかったお二人を知っているため、悋気を起こすのではないかと思っていたのだ。
そして三つ目。於茶阿局からだった。辰千代君が長沢松平家を継ぐことを知らせた阿茶の文に対する返事だ。
『松千代のことは残念でしたが、あの子は産まれてからずっと慈しまれてきたので、もう十分でしょう。一方、苦労した辰千代が長沢松平家を継ぎ、伊達さまのご息女を将来、妻とするのは、まことにめでたいことです。これからは辰千代が幸せになる番なのです。母としてこれ以上の喜びはありません。日々、神仏に感謝しております』
「……二人とも自分の子であろうに。辰千代君への贔屓が過ぎよう」
やっぱりこの女とは合わない、と感じた。しかし感情は出さず、「長沢松平家へ行きますか。それともこのまま奥勤めを続けますか」という内容の文を出した。於茶阿局の意向を尊重して、子について行くのなら殿に申し上げて許可を得ようと考えたのだ。以前、出奔した小督局さまは、殿が黙認するので、ずっと次男の秀康さまの傍らにいる。今は亡きお都摩の方さまは殿の許可を得て幼い子息の武田信吉さまと一緒に領地へ赴かれた。
しかし後日、届いた文には、「奥勤めを続けたい」と在った。
「それならば、お竹の方さまの指示に従い、江戸城の奥を頼みます」
と、阿茶は書き送った。
二月五日になり、掟違反について家康が四大老の警告を認めるということで和解し、誓書の交換がなされ、一応の決着を見た。
以後、政務を執るため、殿は向島から伏見城へ通っている。そして相変わらず、付け狙う者たちがいた。
しかし殿はかまわず、いつも通りの質素な行列で伏見城へ行き返りしていた。
「殿、もう少し警固の者を増やされては」
井伊直政や本多忠勝が言っても改めない。
「不審な者がつきまとっておりますぞ」
と、言われたとき、殿は笑った。
「あれは、藤十郎であろう。わしを心配して一人警固しておるのよ」
藤十郎とは、家康の叔父の水野忠重の嫡男・勝成のことで、小牧・長久手の役の際、父の部下を陣中において口論の上、斬り殺したことで奉公構、すなわち他家への仕官禁止を言い渡され、勘当された。以後は各地を転々とし、黒田長政や小西行長に仕えては出奔し、行方知れずとなっていた。
次に現れたとき、徳川家の家臣たちがむさくるしいその男を捕らえて殿の御前に引き出せば、まさに水野勝成であった。
殿は父子の間に立って和解させ、勝成は再び徳川家に仕えるようになった。
乱暴者として有名な水野勝成さまが伯母の伝通院さまに会いたいと、やってきた。
(かな姫さまの異母兄とはいえ、奉公構になってから無頼の徒と交わり、京の清水坂では多くの人を殺したお方じゃ。気は許せぬ)
と、阿茶は身構え、会見のときは部屋の隅に控えていた。
「伯母上、ご無沙汰しております」
目つきが悪いが、涼やかな出で立ちの人物が丁重に上座に坐る伝通院さまへ挨拶をした。
「ほんに無沙汰じゃ。長らくどこで何をしておいでだったか。心配をかけて」
咎める伝通院さまの横には、かな姫さまがいて、にこにこしている。
「いやもう。いろいろとありましてな。このたび殿のお陰で親父殿から許してもらいました。今後は誠心誠意、御家のために尽くす所存でございます」
「兄上がおいでなら、百人力でございますね」
と、かな姫さまが言う。
「おう。かなよ。あの小さかった娘が美しゅうなったのう。そなたの成長が見れなんだとは、居らんかった歳月が恨めしいぞ。加藤清正のとこに嫁ぐそうだな。その色香で虜にして、尻に敷いてやれ」
「まあ、兄上」
かな姫さまが、ころころと笑う。
「これ、伽羅[お世辞]もいいかげんにせんと」
伝通院さまもたしなめながら笑っている。
(意外と和やかだな。これはお身内だからか)
対面があっさり終わって、阿茶も安堵した。
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水野勝成は翌年、会津征伐に加わるが、父の忠重が三河国池鯉鮒にて石田三成の関係者に暗殺されると、跡目を相続し、水野家当主となる。関ケ原合戦、大坂の陣に参陣して軍功を挙げ、大和国郡山藩主を経て、備後国福山藩の初代藩主となった。
善政を布き、死後、徳川二十八神将の一人として、日光東照宮に配祀された。
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前田利家の徳川邸の訪問は病の身にはこたえたようで、それ以後、寝込むようになった。
家康は大坂の前田家の屋敷へ見舞いに行き、その夜は藤堂高虎の屋敷へ泊った。
藤堂高虎は豊臣家の大名であるにもかかわらず、まるで徳川家の家臣のように家康に傅いた。
「時勢、というのが、これでしょうな。何もせずに人がなびいて参ります」
そのときの様子を阿茶に語ってくれた本多正信さまが、笑う。
やがて、閏三月三日。前田利家が亡くなった。六十二歳であった。
京中では、「すわ、戦が始まるぞ」と騒ぎ立ち、家財を持ち出して河内や大和などへ逃げる人びとが大勢いた。
同時に、「例の七将が石田三成の屋敷を襲撃する」という噂も流れた。
七将とは、朝鮮の役において最前線で戦った武将たち、加藤清正・福島正則・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・長岡(細川)忠興・加藤嘉明である。
朝鮮出兵中の功績が正当に報いられなかったのは、三成の部下の不当な報告によるものなので、切腹させるべきであると要求したところ、三成が拒否したから、という理由だった。
諸将を抑えていた前田利家が死んだことで、不満が爆発したのだ。
石田三成と昵懇の間柄だった宇喜多秀家、上杉景勝、佐竹義宣は、「今のこの危機を打開するには、内府にすがる他ない」と相談し、逃げ出した三成を匿った佐竹義宣が使者を出したので、家康が佐竹家の屋敷へやってきた。
そこで、屋敷を抜け出した三成を追ってきた諸将と家康が話し合い、三成の職務を停止し、居城の佐和山城に蟄居させることで合意した。
そして、石田三成を家康の次男・結城秀康に佐和山まで送らせたのだった。
このあと、長束正家、増田長盛などの奉行衆は、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の三大老に働きかけ、家康に伏見城へ入ってもらうことにした。
家康を敵視する強硬派の三成がいなくなったことで、家康に配慮したようだ。
家康は、「三大老および奉行の勧めならば、どのようにもその指示に任せる」と答えた。
前田利家が抜けた大老の席は、嫡男の利長が埋めることになった。
閏三月十三日、徳川家は向島から伏見城へ移った。
奉行衆の一人、前田玄以のはからいで、大手門をはじめすべての門の鍵が井伊直政に渡された。
これによって伏見城は徳川家の城となり、家臣が諸々の城門を警衛したのだった。
(見事、見事)
再びの引っ越しで忙しいのだが、阿茶は感心することしきりであった。
(さて、殿は次にどんな手を打たれるか。五大老・五奉行の制度は、幼い秀頼君を支え、殿を身動きさせなくするための故太閤の策であった。朝鮮から兵を引くまでは大老たちの合議によって物事を決め、奉行たちが実行するという太閤の思惑通りにことが運んだが、殿に対抗できる前田大納言さまが亡くなり、奉行の石田三成も蟄居となって、四大老・四奉行となってしまった。もはや太閤の構築した殿を囲って置く〝檻〟は崩壊したと言ってよい。どうされるか)
阿茶が思うようなことは世間の人びとも感じたのか、「内府が天下殿になった」と、噂した。
「なんとも、きらびやかですねえ」
伏見城の西の丸に入って西郡の方さまが言った言葉は、一同の想いを代表していた。金粉をふんだんに使った障壁画がいたるところにある。
最初は物珍しかったが、しだいに見慣れてしまった。それよりも婚礼の準備である。かな姫さま、満天姫さまの嫁入り道具、お衣装が次々と運び込まれ、披露され、皆の目を楽しませてくれる。
四月になり、帝から故太閤に『豊国大明神』の神号と正一位の位が贈られた。
忌日の十八日に家康をはじめ諸大名が参列する中、神となった太閤秀吉を祭る豊国社の正遷宮が行われた。
四月二十二日、十八歳のかな姫さまが加藤主計頭清正さまの許に嫁いでいかれた。
次いで、十一歳の満天姫さまが福島正之さまの許へ嫁がれた。お二人とも、伏見の加藤家、福島家の屋敷で婚礼をし、大坂のそれぞれの屋敷へ移るのだ。
「姫さま。どうか、お幸せに」
嫁いでいく姫君たちに、阿茶は声を掛けた。
それは、はなむけの言葉であり、阿茶の祈りでもある。




