男は戦、女は婚礼 7
伊達家との結納の日取りは一月二十日と決まった。
殿が襲撃された影響で、水野家のかな姫さまが徳川家の屋敷に来るのは少し遅れ、一月下旬となった。満天姫さまが江戸から京に来るのもそれくらいだ。
四月に帝(後陽成天皇)から亡き太閤に神号が贈られる予定で、そのとき東山・阿弥陀峰の廟所に埋葬された故太閤が、山下に建立した社殿に正遷宮されて神となる。この儀礼のあと、加藤家と福島家との婚礼が行われることになっている。
蓮姫さまと有馬豊氏さまの縁談は、密かに双方の使者が行き交い、成立した。しかし長沢松平家の件がまとまったあと、ということから輿入れは来年になる。
蜂須賀家にお嫁入りする小笠原家の万姫さまは幼すぎるので、こちらも来年になってから。
孫や姪の婚礼となるので、伝通院さまと西郡の方さまはいろいろとご自分たちでも衣装選びなどなさりたいようなので、お衣装の発注は姫さまたちが徳川屋敷においでになってからにするつもりだ。しかし、お道具類は振姫さまの物に準じてよいと、お二方から許可を得たので、阿茶はまず、四月の婚礼予定の二家の分を茶屋家に発注した。これは婚礼を担当する奉行を通じてのことだ。
婚礼の準備を進める一方で、江戸へ、松千代君の亡くなったことへの返答として殿が跡継ぎを辰千代君に決めたことを大姥局さまと側近の石津局へ仔細を書いて送り、生母の於茶阿局にお悔やみの文を出した。
そうしているうちに、他家との婚約のことが、大坂方にばれた。
文禄四年の「御掟」の第一条、私的な婚姻禁止を破ったとして、罪問使が遣わされるのだという。
五大老の内、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝が詰問のため、使いを寄越した。それも伊達家と福島家と蜂須賀家の三件についてである。
(加藤さまと有馬さまの件は露見しておらなんだか)
どういう具合かしら、と阿茶は不思議に思った。
罪問使が大坂から来るという十九日、殿は朝から家臣たちを集め、
「合戦の支度をせよ」
と、命じた。
「どういうことでございますか。三中老の方々が軍勢を連れて来るわけではありますまい」
と、一同は驚いたが、殿の申されること、とその命に従うことにした。
伏見の屋敷が騒然となった。周囲に竹柵を巡らせ、塀のすみずみに櫓をくみ上げ、井伊さまをはじめとする重臣はもとより、端下の小者までが武装した。
この様子を見た周囲の武家屋敷の者たちは――秀頼が大坂に引っ越したことで前田利家の命令もあり、多くの大名は本拠を大坂に移したのだが、まだ伏見に残っている者たちがいた――その大名たち、加藤清正、黒田如水・長政、長岡(細川)忠興、福島正則、加藤嘉明、有馬則頼・豊氏、藤堂高虎、池田輝政、森忠政、金森長近、新庄直頼、織田長益、大谷吉継は手勢を率いてやってき、徳川屋敷の警護を願い出た。
殿は一人一人と会い、感謝を伝えた。
この騒然とする邸内で、阿茶は幼い仙千代君や伝通院さま、西郡の方さま、側室たちが動揺しないようにすることを侍女たちに伝え、また奥に仕える伊賀者たちへは警護を厚くするよう命じた。
そんな緊張状態の中、罪問使がやってきた。豊臣家の中老、生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴と相国寺の禅僧・承兌。
殿の前で老僧は非を鳴らし、「返答によっては、十人衆の班列より除外いたすべし」、つまり逆心ありとして、五大老から除外すると言う。
「これは意外なことを」
と、殿は穏やかに返答した。
「縁組については当方に手落ちがあったことは認めるが、それをもって逆心があるというのはどうであろう」
笑みを消し、ぎょろりと四人を睨んだ。
「縁組については媒酌人から公儀(豊臣家)に届けてあったものと思っていた。逆に、このような詰問はわしを五大老から追放しようとするいいがかりであり、亡き太閤殿下のご遺命にそむくことでござろう」
と反論した。
四人の使者は、そそくさと帰って行った。
「いやもう。門を入る前から小者に至るまで、あれらの顔は真っ青でありましてな。殿の御前に坐ったときには震えておりましたよ」
このときの様子をあとで本多正信さまは笑いながら阿茶に語った。
殿の脅しは、功を奏したようだ。
同じ日に罪問使を迎えた伊達家、福島家、蜂須賀家では、素直に詫びたのは蜂須賀家だけで、伊達家では当主の政宗が、「媒酌人の手違いであろう」と仲立ちをした今井宗薫のせいにしたので、のちに宗薫は豊臣家から高野山に蟄居を命じられた。福島家では正則が、「この縁組は豊臣家のおためである」と開き直った。
大坂では、病の身をおして前田利家が大坂城内に入り、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家が城内に鉄砲隊を入れ、戦支度をしているという。
このまま戦うなら、数で確実に負ける。
という時なのに、殿は罪問使が帰り、大名たちが引き上げると、有馬則頼さまに招かれてその屋敷へ碁を打ちに行ってしまった。
藤堂高虎が石田三成の陰謀を告げに来、井伊直政も「さすがに危ないのでは」と、殿を迎えに行った。
翌日の一月二十日、罪問使が来たことがなかったかのように、徳川家から結納の品を持った使者が伊達家に赴き、伊達家も返礼品を寄越して、結納の儀が滞りなく行われた。
そして二十一日、榊原康政が江戸からやって来る。
この時期、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・石川康通・平岩親吉の五人を部隊長として御家人を五隊に分け、一組ずつ交代して伏見屋敷を警固していた。
この春は榊原康政の当番で、上洛の途中、熱田のあたりまでやってきたところで、京と大坂の戦騒ぎを聞き、すぐさま駿馬に鞭打たせ、一騎で駆けだした。そのあとを追うのは七百人ばかりの者たち。
康政が膳所[滋賀県大津市]にやってきたところで、井伊直政が出した飛脚に会い、「大坂からは、まだ寄せ来る者はいない」と聞き、まずは安心して、膳所に陣取った。
「秀頼さまの命令である」と、近隣に伝え、勢多、矢橋あたりに新しい関所を設けて、三日間、人の往来を止めた。
諸国でも伏見と大坂の騒動を聞いて、各家々の家臣たちが急いでやってきたのだが、この関所で足止めされ、それが数千万にも膨れ上がった。
榊原康政が関所を閉じた三日後の未刻[午後二時]、関所の門を開くと、群がっていた人々は、わっと大挙して京へ入った。
康政は、甲冑を着込み、馬印を立て、真っ先に伏見に馳せ散じた。
京・伏見ではこの様子を見て、「関東から内府の軍勢が数多、上洛した」と噂が流れたため、大坂方は援軍がきたと思い、困惑したのだった。
榊原さまのこのやりようを聞いて、殿はお笑いになった。
(さすが、歴戦の御方よな)
と、阿茶は感心した。
榊原家はもと酒井左衛門尉家の家臣で、陪臣であったが、康政が十三歳のとき、松平元康といった頃の家康に見い出され、小姓となった。三河一向一揆を初陣とし、十九歳で元服してからは本多平八郎忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、数々の戦いで武功を挙げる。いつの頃からか、「榊原康政が先陣を務めると勝つ」ということになり、康政が先陣となることが慣例となった。三河の大樹寺で書などを学んだ能筆家で民政にも巧みであった。
同い年の本多平八郎とは親友同士で、あとから家臣となった井伊直政には始め対抗意識があって反発したが、行動を共にするうち仲良くなり、直政とも親友となった。
奉行の一人、前田玄以がこのころ、密かに人に語ったことには、
「戦のやり方は、さまざまあることだ。このごろの騒動の場合、信長公ならば早く岐阜へ引き取り、秀吉公ならば三千か五千の人数で直接、斬って出られるだろう。それなのに、あの内府は少しもこの騒動を意識せず、毎日、碁を囲んで余念がない。なんとまあ、戦のやり方の違うことよ」
と、感心した。
「殿は何をお考えなのでしょう」
阿茶は本多正信さまを捕まえて訊いた。
「戦をしようと本気で思っているのは、石田治部少くらいなものですよ。宇喜多は若く驕慢で、家中では御家騒動が起こっております。上杉は移封されてから日が浅いため落ち着かず、伊達さまを警戒しておりますし、毛利は豊臣家のために動く動機がありませぬ。後見役の前田大納言さまは病で」
と、そこで右手の指を三本立てて見せた。
「天海どのの占いでは、長くないようです。今は親友の遺児を守ると頭に血がのぼっておりますが、はたして自分の死期を覚って自らの子や家のことを考えたら、どうされるでしょうなあ」
と、くすくす笑った。
(前田利家さまの寿命は、三月までで尽きるということか?)
殿と謀臣の本多さまの思考は、ちっとも予想できない、と阿茶は思い、自分の出来ることに専念することにした。
この騒ぎの中、水野家からかな姫さまが、江戸からは満天姫さまが到着されたのだ。
かな姫さまは十八歳、満天姫さまは十一歳。ともに伝通院さまに面差しが似て、ふっくらとした美人だ。しかし、かな姫さまは小柄ながら活動的で好奇心が強く、満天姫さまは、おっとりとしておられる。
「姫よ、よう来た。わしをもう一人の父と思い、嫁ぐまでゆるりと過ごすがよい」
殿は上機嫌で二人の姫を迎え入れた。
「まあまあ。よう来たのう」
伝通院さまへ挨拶に赴いた姫君たちに、伯母であり、祖母であるこの方は声をかけ、涙ぐみながら歓迎した。そして、語らう。
「かな姫はもう、御文を交わしているのですか」
と尋ねると、「我が君は」と、かな姫さまは頬を赤く染めて未来の夫について語る。
「満天姫は、まだこんなに幼いのに。両親は離れがたかったでしょうね」
「寂しゅうございましたが、武家の娘はいずれどこぞに嫁がねばならぬと言われまして」
淡々と語る満天姫さまを見て、阿茶は(意外と腹が据わっておられるのかも)と感じた。
姫さまたちは仙千代君と遊んでくださるので、仙千代君は大喜びである。
落ち着いた頃、嫁入りに持っていく衣装選びの場を設けた。
貴人である伝通院さま、参考のためにと参加される西郡の方さま、二人の姫君は御簾の向こうに坐り、侍女を介して生地見本や衣の柄など手代たちが持ってきた物を見、あれこれと選んだり、注文をつけたりするのだ。
昼前は茶屋家、午後は亀屋、松木家は広敷で各家の侍女たちから衣装の注文を受ける。花嫁行列についていく侍と侍女は全員、向こうの家へ行くのではない。本当に花嫁についていくのは、乳母などの側近たちだ。
阿茶はかな姫さまと満天姫さまの乳母たちを呼んで、姫さま方の嫁ぎ先の家風や家族構成など語り、注意を与えた。
加藤主計頭さまについてはすでに対策をとっているので、確認だけだったが、懸念があるのは福島家だった。
「昨年末頃に、正室さまが男子をお産みになられました。福島さまは嫡男を亡くされ、甥である正之さまを養嗣子となさいましたが、このご次男が成長なされると、今、十五歳の正之さまのお立場が揺らぐことになります。それはすなわち、満天姫さまが微妙なお立場になるということ。そなたたちは、心して臨機応変に行動し、満天姫さまのお命を守るのですよ」
「お言葉、心に刻みます。我ら命に代えても、姫さまをお守りすることを誓います」
と、満天姫さまの乳母と侍女たちは平伏した。
徳川家と大坂方の緊張状態は続いていたが、仲介に動く大名家が現れた。加藤清正、浅野幸長、長岡(細川)忠興である。中でも長岡忠興は前田利家の嫡男の利長と仲が良く、利長を通じて和解を説いた。
そのため、前田利家は自ら出向くことを決意した。
病の身ながら伏見に向かった利家は、途中、家康の出迎えを受け、殺されるのを覚悟してやってきたのに、伏見屋敷で歓待を受け、敵愾心を失った。
そこで、気を許した前田利家から、「街道沿いのこの地では何かと騒ぐ者もあろう。向島に移られては」との言葉を家康は得た。
向島とは、宇治川沿いに築かれた指月伏見城の支城である。太閤秀吉が月を見るための別業[別荘]で、慶長地震で崩れたが、すぐに再建され、小さいながらも本丸に天守閣、二の丸まである豊臣家の城である。大老筆頭とはいえ、他家の徳川家康が入ることはかなわない。
けれども、豊臣家の庶務を行うよう遺言されている家康が、豊臣家後継の秀頼の後見役の前田利家から許可されたのなら、居住しても不自然ではない。
(殿もおやりなさることよ)
引っ越しの命を受けて、阿茶は感嘆した。
城盗りは兵を使うだけではない、智略でもできるとの実例を目の当たりにした思いだ。それも、相手が盗られたと気づくことなく、機嫌よく差し出したのだ。
本多正信さまに会ったとき、阿茶は、
「お見事でございます」
と、褒め称えた。
それだけで何のことか分かったらしく、本多さまは破顔した。
「なんの。まだまだ。これからでござる」
その返答を聞き、
(この主従、伏見城も盗るつもりだ)
と、阿茶は察した。




